第百二話 慈愛と情愛につつまれて【後】

「あちらに未練はないよ。黒皇ヘイファンを置いてったりしないから、安心して?」

「……そうですか」

「わかってくれた? よかった」

「えぇほんとうに。危うく強硬手段に出るところでした」

「えっ、なんだって? 強硬手段?」

「もし帰ろうとなされても、全力で阻止するつもりでした。具体的には黒皇なしでは生きていけなくなるまで、これでもかというほどお嬢さまを甘やかして溺愛して」

「ちょっ、ちょっと待って黒皇! ストップ!」


 真顔でなんてことを言うのだ、この烏は。

 口早にまくし立てる黒皇をなんとか押しとどめ、早梅はやめはぐるぐると混乱をきたす脳内の整理に取りかかる。


「落ち着いて。私はどこにも行かないと言っただろう? 君、こんなに押しが強かったかい?」

「もちろんお嬢さまを信じております。それでも不安になるのです。もう二度と、喪いたくないのです」


 そうだった。じぶんのことばかりでいっぱいいっぱいだったが、黒皇も、早梅が殺された光景を目の当たりにしているのだ。トラウマになっていないわけがない。


 そもそも、瓏池ろうちがなぜ、早梅の生きていた明治の日本につながっていたのか。

 なぜ黒皇に、凄惨な光景を見せたのか。

 わからないことばかりではあるものの。


梅雪メイシェお嬢さま──早梅さま」


 わけもわからず飛ばされたこの異世界でも、早梅の名を呼ぶ声がある。それは運命といういとがつむいだ、たしかなつながりなのだ。


「瓏池をおとずれるたび、考えていました。この右眼に瑠璃をはめ込んだなら、あなたさまの兄になれるのでしょうか、と。兄のように接すれば、がまんできると思ったのです」


 ほほにふれた手のひらは熱く、早梅を映した黄金の隻眼は、とろりと甘い。


「でも、むりでした。この想いは止められない。『兄』でも『友』でも、満足できない」

「黒皇、私は……」

紫月ズーユェさまを忘れようとは、なさらないでください。私にとっても、たいせつな方なのです」

「黒皇……」

「紫月さまは、ああ見えて、こころの広いお方なのですよ」


 そういえば、紫月は言っていたか。

 おまえが呼んでいい名は、第一に紫月、第二に黒皇、と。


(紫月が寛大になるのも、黒皇だけだと思うけどな。……そっか)


 黒皇だから。黒皇ならば。

 紫月も、ゆるしてくれるだろうか。


 ──ばかだな。

 おまえのこころなんだから、おまえの好きにすればいいだろ。


 すこし拗ねたような声が聞こえた気がして、笑ってしまう。


「早梅さま、ふれたいです」

「うん」

「ふれても、いいですか」

「……うん」


 黒皇も笑みをもらし、熱をもった早梅のほほをするりとなでる。

 片腕で華奢な肩をささえたなら、親指の腹を桃色の唇に添え。


「……んっ」


 そっと落とされる口づけ。


「愛しています、早梅さま」


 耳朶にふれたささやきがくすぐったくて、身をよじっても、たくましい腕にとじ込められるばかり。


「黒皇……えっと」

「ごめんなさい、待てません」

「ふぁ……んっ」


 しっとりと濡れた早梅の唇が、やわく食まれる。

 黒皇にほほをつつみ込まれ、ちゅ、ちゅ、とくり返しついばまれる。


(想いが伝わってくる……きもちいい)


 こんなにやさしいふれあいを、早梅は知らない。


「私のことも、すこしずつ、好きになってくださいね」


 いまさらなんだよなぁ、とは思いつつ。

 夢のような心地に身をゆだね、かさねられる唇の感触に感じ入る。


「早梅さま……すきです」

「黒皇……んっ」

「早梅さま……私の、早梅さま、だいすきです……っん」


 しだいに深くなる口づけの合間に、舌先がさし込まれ。


「へいふぁ……んん……」


 くすぐるように、じゃれつくように。

 やさしく絡められるそれは、肉欲というより、慈しみに満ちあふれていた。


 深い慈愛と情愛につつまれ、ふわふわと、早梅はしあわせな心地になる。


 あぁこれは、やめられない。

 気の済むまで溶かしあった熱い吐息は、果実のように甘くて、癖になりそうだった。



  *  *  *



 ゆるやかに流れる日々のなかで、たしかに変わっていくものがある。


「早梅さま。私も、踏み出してみようと思います」


 黒皇はもう、自身を『せつ』とは言わなくなった。過剰に卑下をしなくなった。


小慧シャオフゥイと、話をします。あの子の気持ちを受け止めたいのです。そして私の想いを、ぶつけたいのです」


 黄金の隻眼は確固たる意志をたたえ、じっと早梅に向き合う。

 こころが決まっているなら、早梅がああだこうだと口を出すまでもない。


「そうかい。私にできることがあったら、言ってね」

「ありがとうございます」


 きっとこれからも、良いように変わっていくだろう。

 そんな確信をいだき、ほほ笑み合った、朝のことだった。

 室の扉越しに、呼び声がひびく。


梅梅メイメイ、黒皇もいるな。ちょっと顔貸してくれや」

フォンおじいさま……?」


 晴風チンフォンの声だ。しかし爽やかな朝のあいさつとはほど遠い、どこか不穏な空気を感じる。


フゥイ坊のことで話がある。ひとまず、ばあちゃんのとこに来てくれ」


 ──もしかして、怒ってる?


 明朗な晴風らしからぬ異変を、早梅だけでなく、黒皇も感じとったらしい。

 なんとも凄みのある発言の理由はわからないまま、顔を見合わせ、早梅は「わかりました」と伝えることしかできなかった。

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