第十九話 こころ愛し【後】

「ここに、俺の子を」


 死刑宣告にも等しい横暴に違いないのに、なぜだろう。

 祈りにも似た、一音一音を噛みしめる紫月ズーユェのつぶやきを、ハヤメは跳ねのけることができない。


梅雪メイシェ……梅雪」


 単調につむがれていた声音は、いまや内なる熱に震えている。

 水の膜が張った藍玉の瞳は、目下のハヤメしか映そうとしない。


「おまえがいとしくて、たまらないよ……梅雪……俺はおまえが、」


 言葉の終わりを、紫月自身がさえぎる。


「にいさま、待っ……」

「待つのはもういた」

「んっ……」


 噛みつくのではなく、そっとついばまれ。

 一度、二度とハヤメにふれた唇が、深くかさなる。

 口内に吐息を吹き込まれたら、もう。


 あまい口づけだった。絶えずぶつけられる熱情に、ハヤメはどうしたらよいのかわからない。

 紫月も浅く、深く、角度を変えて、夢中でハヤメに唇をかさねていた。


 背を掬うように、紫月に抱き起こされる。

 脱力しきったからだはなすすべもなく、背筋をなぞって腰へ回る腕の感触を、ハヤメはどこか他人事のように思うことしかできない。


 拒むべきなのだろうか。

 それとも、受け入れるべきなのだろうか。

 なにが正解なんだろう。一体どうしたら。


 あぁ……頭が痛い。割れそうだ。


 しゅる、とハヤメの帯がゆるめられ、えりがくつろぐ。

 あらわになったハヤメの白い喉笛を、紫月の濡れそぼった赤い唇が点々と食む。

 そのたびに、鼻にかかった声が、ハヤメののどの奥からこぼれた。


「……猫よりい子だ」


 紫月のあまいかすれ声が、耳もとでささやく。

 いやでは、なかった。

 そう……最初から、おそれはあれど、嫌悪感はなかったのだ。


「紫月、兄さま……兄さま、きいて」


 きっと、梅雪じぶんは。


「あなたを疎ましく思ったこと、憎んだことなんて、ただの一度もないのです」


 そうだ、は。


「だからこそ、あなたに『愛している』と、伝えるわけにはいかなかった」


 いつしかハヤメを苛むものはなくなり、冴えわたった脳裏によみがえる感情がある。


「あの曲のとおりだったのよ。私たちは……たがいを想うからこそ、すれ違ってしまったんだわ」

「……どういうことだ。俺を、憎んでない……? おまえはなにを言って」


 記憶が、ハヤメの中に流れ込んでくる。

 幼きころ、無邪気に遊び回った雪の日。

 琵琶を教えてもらったこと。

 楽しくて、楽しくて、かけがえのない日々で。


 そんな幸せが、跡形もなく崩れ去る恐怖。

 これは梅雪の記憶。


「紫月兄さま、あの曲には、続きが……うっ!」

「梅雪……どうした梅雪、しっかりしろっ!」


 崩れ落ちるハヤメのからだを、紫月は蒼白になって抱きとめる。


(……あれ、私は、どうして。勝手に、言葉が)


 ぼんやりと、ハヤメの意識が浮上する。

 見上げると、おのれを腕にかき抱いた紫月が、しきりに名を叫んでいる。


 泣かないでと言いたいのに、声にならない。

 はくはくと、口が開閉するだけだ。


 涙ながらにハヤメを揺すっていた紫月が、突然硬直する。

 まもなく、藍玉の瞳に激情が燃えさかる。

 凝視していた先は、着物が乱れむき出しになった、ハヤメの右肩だ。


「なんだ、この傷は」


 当て布は取り払われ、患部がさらされている。


「獣の牙を突き立てられたような傷痕……おまえ、まさか、ラン族に噛まれたのか」


 紫月の声音が、みる間に抑揚と温度をなくしてゆく。


「あの糞餓鬼……殺してやる、殺してやるっ!」


 今度は、ハヤメの血の気が引く番だった。


「やめ、て……憂炎ユーエンを、きずつけないで……!」

「ふざけるな! 忘れたのか、俺たちの『氷毒ひょうどく』が、なぜ狼族だけには効かないのかを!」


 ハヤメはやっとの思いで声を絞り出すも、激高した紫月の前では無意味で。


「噛まれたのはいつだ」

「……みっか、まえ」

「あぁくそ……時間がない」


 低くうなって舌打ちをした紫月は、ふところから『なにか』を取りだし、口に含む。

 すかさずハヤメへ口づけ、その『なにか』を舌先で押し込んできた。

 無味無臭の、飴玉のようなものだった。ハヤメはつばとともに、反射的に飲み下す。


「俺の作った霊薬だ。『千年翠玉せんねんすいぎょく』には遠くおよばないが……一時的に緩和くらいはできるだろう」


 ハヤメは、咽頭をすべり落ちたものが、胃の噴門部ですぅ、と溶け出す感覚をおぼえた。


 異様に火照った身体が、すこしだけすっきりしたような感じがする。

 と同時に、ハヤメはひどい眠気にみまわれた。


「こんな状態のおまえを、置き去りにしたくない……だが」


 もやがかかったように曖昧な意識のなか、ぎゅっと抱きしめる腕のぬくもりだけは、わかる。


「今晩までには。すぐに戻るから、それまで眠っていろ、梅雪」


 ひとたびハヤメのほほをなぞった指が、離れてゆく。

 ろくに焦点も結べない視界では、伸ばした手はなにもつかむことができず。


 糸が切れたように、ハヤメの意識は暗転した。

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