第百八十九話 己が意志にてつがう【前】

 ──桜雨ヨウユイが目を覚ました。


 そのしらせは、耳にしただれもをにわかに震撼させた。

 ようやく、再会の喜びを分かち合うことができる。

 早梅はやめ淡色あわいろの衣をひるがえし、母のいる離れへと飛ぶように駆けた。


 その期待が、間もなく打ち砕かれることになろうとは、知りもせずに。


「お母さま……」


 北向きに面したへやに、桜雨はいた。

 たしかに寝台から起き上がって、そこにいた。


「お母、さま……どうして……っ!」


 しかし早梅は、悲痛に泣き崩れる。

 とっさに早梅を抱きとめた桃英タオインも、唇を噛みしめ、愛娘を掻き抱く。


 桜雨は目を覚ましたが、ひと言も発さなかった。

 瑠璃の双眸はうつろとしており、夫も、娘も、だれひとりとして映すことはなかった。

 物言わぬ人形のように、そこにただ在るだけだ。


「ちょいと失礼するぜ。……まさしく、抜け殻だな」


 桜雨の前で腰をかがめ、手早く容態を確認した晴風チンフォンも、ふだんは快活な面持ちに渋面を浮かべた。


「なんだか、ねぇ……」


 一歩離れた場所で早梅らを見守っていた憂炎ユーエンは、柘榴色の瞳を細め、次いで問う。


「そう思われませんか? 一心イーシンさま」


 ふり返った先、室の入り口に三毛の青年が駆けつけたことを、いち早く察知した上で。

 言外に追及する柘榴色のまなざしとしばし対峙した琥珀の双眸が、つと逸らされ、早梅へと向けられた。


梅雪メイシェさん、お茶をお淹れしましょうか。こちらへおいでください」


 静かに歩み寄った一心が、早梅の手をとり、濡れたほほを指先でぬぐう。

 柔和な声音は、平生と変わらぬ一心のものに違いない。

 だがそこにわずかな違和感があるのを、このときの早梅は、不思議と敏感に肌で感じとった。


「たいへん申し訳ありませんが、ほかのみなさまは、別室でお待ちを」

「こんな状態の梅雪を、独りにしろと? いささか冗談がすぎませんか、一心さま」

「これは、僕たちと彼女の問題です。お控えください」


 一心は多くを語らない。ただ早梅を寄こせとだけ主張する。

 あまりの身勝手に、憂炎は腹の底でくすぶる熱をおさえられない。


「いいんだ、憂炎」


 殺してやろうか、とさえ思った。

 そんな憂炎の激情を押しとどめたのは、ほかでもない早梅であった。


「……まいりましょう、一心さま」


 早梅は一心の手をとる。

 瑠璃の瞳を濡らしてなお、毅然として前を向く早梅の背が遠ざかるのを、桃英、そして晴風も、黙って見守ることしかできなかった。



  *  *  *



 早梅が案内されたのは、はじめて目にする室だった。

 聞けば一心の寝室だという。

 なぜだか、六夜リゥイ五音ウーオンに出迎えられたが。

 ふたりは多くを訊かずに早梅を抱きしめると、六夜が早梅の手を引いて卓の一席に座らせ、五音が茶器を運んできた。


「此度の桜雨さまの件に関しましては、心中お察しいたします。お母さまのことを想われ、気が気でないことでしょう」


 向かいの席に腰を落ち着けた一心が、口をひらく。

 

「今日お越しねがいましたのは、まず謝罪をさせていただくためです」

「謝罪、ですか?」

「えぇ。単刀直入に申し上げます。桜雨さまがあのような状態になってしまったことに、われわれは心当たりがあります。いえ、原因そのものでしょうか」

「なん、ですって……!」


 ──なにが原因なのか、私にはわからない。

 ──だが、おそらく一心殿は、真相をご存知だ。


 再会した日、桃英が話していたことを思い出す。

 その予想は現実となって、早梅の前へあらわれた。


「真実を、知りたいですか?」

「当たり前です……!」


 それで桜雨が救われるなら、なりふりかまってなどいられないと、そう思っていた。


「では、梅雪さんにおねがいがございます。『すべて』をお話しします。その対価として、僕たちに抱かれてください。いま、ここで」

「なっ……」


 なにを言われているのか、早梅は理解ができなかった。

 時間をかけて咀嚼したところで、納得できるはずもないだろう。


「これからお話しすることは、マオ族の機密事項です。みだりに外部へ漏らすことは許されない。『それ』を知ったが最後、君は二度と、人の世界に戻ることはできない。僕たち猫族のものとなり、みなの子を生み、妻として、母として、生涯をともにしてもらいます」


 一心の言葉が、早梅の頭上に重くのしかかる。

 直面しているのは、それほどまでに重大な出来事なのだと、思い知らされる。


「六夜、五音、そして僕。ひとりに抱かれるごとに、『猫族の秘密』を、ひとつずつお教えします。君の覚悟を、見せてください」

「取り引き……ですか」

「そう捉えてもらってもかまいません。もし倫理観というものが君の邪魔をしているのなら、そんなもの捨ててください。猫族に愛されるとは、そういうことです」


 そのとき、琥珀のまなざしがわずかに影を落とした。

 さびしげに、一心は言葉をつむぐ。


「どんな手を使ってでも君を手に入れようとする愚か者を、嘲笑わらってもいいから……君に教えずにはいられないのだと、僕たちに『理由』をください」

「一心さま」

「……そこのお茶には、媚薬が入っています。覚悟ができたなら、どうぞ、お飲みください」

「っ……!」


 早梅はもう、我慢ならなかった。

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