第百八十七話 夜明け【前】

梅梅メイメイ……起きろ梅梅っ!」

「──っ!」


 肩をゆさぶられる感触とくり返される呼び声に、早梅はやめの意識が覚醒する。


フォンおじいさま……んくっ!」

「よかった、目を覚ましたか。無理はすんなよ、途中まで。ったくあの野郎、好き放題やりやがって」


 はじかれたように上体を起こしたそばから、めまいでからだを折れば、寝台の端に腰かけた晴風チンフォンに背をさすられる。

 嫌な汗がにじみ、夜着にはりついている。は、は……と浅い呼吸をなんとかととのえた早梅は、ふと敷布を握りしめていた自身の右手が目に入った。

 晴風の左手首と結ばれていた山吹色の髪紐は、焼ききれていた。


(邪悪なものを断ち切る風おじいさまの陣法がなければ、この程度では済まなかっただろう)


 早梅は、身震いしそうになるおのれを叱咤する。

 現実ここでも飲まれて、なるものか。


「落ち着いたか? してほしいことがあったらなんでも言え」

「ありがとうございます。着替えたいので、お水と手ぬぐいをいただけるとうれしいです」

「おっしゃ、傷の手当てもしなきゃだしな。薬も取ってくる。ちょっと待ってな」


 膝を叩いて立ち上がった晴風の背が見えなくなると、ズキ……と思い出したように左の首すじが痛む。

 ふれた指先を見てみれば、うっすらと血がにじんでいた。


「……吸血鬼か」


 ひとの生き血を啜ってよろこぶなど、そうとしか思えない。

 早梅が頭をかかえたくなる要因は、それだけではない。


飛龍フェイロンは私の血を摂取して、症状が悪化するどころか、改善したように見えた……『氷毒ひょうどく』が効いていないのか!?)


 まさか、ほんとうに克服したというのか。

 それに、飛龍が言っていた『射陽伝説』に続きがあること、『千年翠玉せんねんすいぎょく』の正体……謎に謎が絡みあって、頭痛がするなんてものではない。


「私を困らせて楽しむとは、いい趣味をしているな。はぁ…………うん?」


 嘆息をこぼしたとき、トントン、とどこからか物音がきこえた。

 耳をすまし、それが背後の格子窓を叩く音だと気づいた早梅は、不思議に思い、そっと窓を押し開けてみた。


「こんばんは。おじゃましますね、よいしょっと」

「え……なっ!?」


 月明かりとともに、窓のすきまからするりと入り込む影がある。

 あっけに取られた早梅は、思いのほか大きかったその影を受けとめきれず、寝台へ倒れ込んでしまう。


 なんだろう。なにがなんだかよくわからないが、すごくもふもふしたものがある気がする。


「こっちの姿だとなにかと不便なのですが、梅雪メイシェに毛づくろいしてもらえるならいいかもですね、ふふっ」


 いまとなっては聞き慣れた声がする。

 それは、月光のように白い毛並みに、熟れた柘榴のような瞳をした、一頭の狼の口から発されたものだ。


「まさか……憂炎ユーエン!? どうして……!」

「今夜は満月なので、目が冴えちゃって。ただでさえ眠れない夜をすごしてきたんです。寂しくて寂しくて、きちゃいました」


 早梅にのしかかった白狼──もとい憂炎が、くぅ……と甘えたように鳴いて、鼻先をこすりつけてくる。大きな三角耳がひょこひょこと動いて、ふさふさのしっぽがごきげんにゆれている。


「大好きな梅雪に添い寝してもらえるなら、いい夢も見れそうだと思ったんですけど……」


 不自然に言葉が区切られたかと思えば、ふいに風が吹き、早梅の頭上を覆う影がかたちを変える。


「嫌なにおいがしますね……どこぞの下衆野郎にさわられたのだか」


 気づけば、青年の姿をした憂炎に見下ろされている。完全なひとではなく、耳としっぽを残した半獣のすがただ。


「血が出てる……噛まれたの? ふざけてるね。あなたに噛みついていいのは、俺だけなのに」

「憂炎……ちょっと、まって」

「だぁめ。俺が舐めて治します。ほらじっとして? ん……」

「ひゃっ……」


 れろり、と傷口に熱い舌が這う。

 ラン族の、憂炎の唾液は、たいへんよろしくない。

 案の定、ふれた箇所から熱がひろがり、痛覚が麻痺する。頭がぼんやりとして、酔いが回るようだ。

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