第百八十四話 夢か現か【前】

 異変をおぼえたのは、一昨日の夜。

 だれかに呼ばれている気がして。

 早梅はやめが目を覚ましたとき、嫌な寝汗が寝間着ににじんでいた。


 昨晩、呼び声はより鮮明となり、手招きをする男の影が映し出された。


 ──私の姫。わが声に応えておくれ、梅雪メイシェ


 もはや確認するまでもない。

 かつての悪夢を、くり返してなるものか。


 そして今朝。早梅は晴風チンフォンのもとへ走り、助力を乞うたのだ。

 忍び寄る魔の手へ、対抗するために。



  *  *  *



気交法きこうほう』──極限まで研ぎ澄ました内功ないこうによって『引き合う』相手と気を交わらせ、糧とする奥義。

 その究極形態では、他者の夢へ干渉し、精神世界でのつながりを介して、肉体への干渉すら可能としてしまう。

 たとえば、夢の中で抱いた女を、実際に妊娠させてしまうだとか。


「梅雪よ。そなたが行方をくらませて以降、私がどれだけの虚しい夜を過ごしたか、知らんだろう?」

「えぇ、知ったこっちゃありませんね」

「おかげで女を抱けなくなった」

「よかったじゃないですか。完璧超人より、どこか一か所でも不能なところがあったほうが可愛げがありますわ、塵ほどですけど」

「可愛げ、か……なるほど。私にそのようなことを求めるのも、そなたがはじめてだ」

「求めてないし、ロリコンくそ野郎の可愛いところとか誰得なのよ」


 相も変わらず、風の吹かない曇天下。

 無駄にひろいだけの空虚な城で、凍りついた蓮池を見下ろす高殿へ連れて来られたかと思えば、だ。

 長椅子へ腰かけるよううながしてきた飛龍フェイロンが、そのままこちらへからだを倒して寝ころぶという。

 いわゆる膝まくら状態。つくづく誰得だ。


「無防備すぎませんか。私に喧嘩売ってます? 刺されても文句は受け付けませんよ」

「かまわんぞ? ほんとうに寝首を掻こうとしている者は、わざわざ予告などしないからな」

「どこから来る自信なのよ、ったく……」


 悔しいが、飛龍の言うとおりだ。

 飛龍のことは憎いが、いま暗殺を決行するつもりはない。

 ここはあくまで精神世界。肉体干渉にはリスクが伴う。

 だが、物は考えようだ。早梅は別の視点から反撃を試みることにする。


「あの皇帝陛下が幼子のように背を丸めて女にすがっているだなんて、可笑しな光景ですわね。滑稽すぎて軽く三晩くらいはお酒の肴になりそうですわ。スマホがあったら激写・拡散して世紀の黒歴史にしてさしあげますのに」

「そなたが楽しそうでなによりだ」


 返ってきた飛龍の声音はふだんより半音高く、どことなくはずんでいる。

 皮肉ではなく、飛龍はほんとうに喜んでいるのだ。早梅が楽しそうだからと、それだけの理由で。

 早梅の膝であお向けになり、長い翡翠の髪を指先に巻きつけてたわむれる飛龍も、実に楽しそうだ。


 調子が狂う。数撃ちゃ当たる方式の反撃は、かえって悪手だ。早梅は初心にかえり、おのれと飛龍を取り巻くそもそもの疑問について言及することにした。


「お痩せになられましたね、陛下。唯一の取り柄である美しいご尊顔に、隈ができていますよ」

「そうだな。そなたがそばにいないから、夜も眠れない。食事ものどを通らない」

「筋力も低下してるんじゃないですか? いまの機会に暗殺仕掛けたら、首チョンパできるかしら」

「鈴のようにいじらしい声音で物騒なことをいう姫だな。愛しているぞ」

「頭おかしいですね。取っ替えてあげましょうか」


 首をもぐジェスチャーで後頭部に手を添えたのだが、なぜか瞳を細める飛龍。なぜだ、なぜ気持ちよさそうにしている。


「私の頭を撫ぜたのは、そなただけだな。そなただけが、私が欲するものを与えてくれるのだ……」


 絶えずつむがれる愛の言葉を耳にするたび、愛されているのだと錯覚してしまう。

 いや、たしかに愛されてはいる。飛龍がかかえているそれが、常人にとっての愛とくらべ重く、盲目的で、熾烈なものであるというだけで。


「……血も涙もないケダモノだと思っていたが、あなたは、愛を知らないまま大人になってしまった、幼子のようだな」


 早梅がそっと独りごちれば、緋色の双眸に見上げられる。


「言っただろう。私のまわりには、愛にはいたらぬ些末なものしかなかったと」


 飛龍は、うっそりと笑みを浮かべていた。


「父母も、兄たちも、皇妃──私の妻を自称していたあの女でさえも、それを私に与えてくれたことは、ついぞなかったな」

「皇妃さまでさえ……?」


 飛龍のいう皇妃とは、暗珠アンジュの母親にあたる女性のことだ。産後の肥立ちが悪く、暗珠を生んで間もなく亡くなったときく。


「だが、すでに過ぎたこと。この世にない者どものことなど、どうでもいい。私にはそなたがいればよいのだ、梅雪」


 飛龍が右手をのばし、するりと、早梅のほほをなでる。


「梅雪よ、二年だ。私は二年も辛抱をしたぞ。褒美をもらってもよい頃合いではないか」

「具体的には、なにをお望みなのですか?」

「口づけを。その柔肌にふれたい。そなたが欲しい。抱きたい」

「欲望に忠実ですこと」


 わざわざうかがいを立てずとも、いつぞやのように無理やり組み敷き、蹂躙してしまえばよかったものを。

 そうすれば、こちらも遠慮なく反撃できたというのに。

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