第百二十三話 都合のいい夢【前】

 当然ながら茶の支度とは、必要量の茶器の選択から茶葉の選別、処理、そして配膳までを、すべてひっくるめていう。

 それも初見に近いくりやで、勝手もわからないまま無茶ぶりをされたに等しいのだが、慌てず騒がず、そつなくこなしてしまうのが、黒皇ヘイファンという男である。

 伊達に数千年は生きていない。


(よほど私を早梅はやめさまから引き離したいようですね、一心イーシンさま)


 一件落着したところで、すぐさま次なる問題が黒皇の前に立ちはだかる。現在地の厨から目的地の離れまで、それなりに距離があるのだ。

 なんたって、屋敷の端と端なのである。

 これにて『茶汲みを口実にした陰謀説』が濃厚となってくる。


 とはいえ、早梅のそばには晴風チンフォンがついていて、目を光らせている。一心も妙な真似はできないだろう。

 そうとなれば黒皇の目下の課題は、の茶を、こぼさないように慎重に、かつ冷めないように迅速に届けること。


(すぐに終わらせて、早梅さまのもとにもどるまでです)


 そこにだれがいても、じぶんには関係がないのだから──このときは、たしかにそう思っていた。


 一心いわく『客』がいるという離れのへやは北向きに面していて、あたりは水を打ったように静かだ。

 黒皇は二組の茶器をのせた盆を左腕にかかえると、閉ざされた扉を右のこぶしでひかえめに叩いた。


「失礼いたします、お茶をお持ちいたしました」


 ややあって、木製の扉越しにくぐもった返答がある。


「──そこに、置いておいてくれ」


 静かな、そして明らかな、拒否の言葉だった。

 沈黙が流れる。それは簡潔な拒絶に腹が立ったわけではない。

 そんなことよりも、もっと激しい──荒れ狂う嵐のような衝撃に、黒皇は打ちのめされていた。


(……この、声は)


 若い男の声だった。たったひと言しか耳にしていなくとも、それが『だれ』から発されたものなのか、黒皇は遅ればせながら理解する。

 とたんにどくりと、やかましいほど心臓が脈動した。


「申し訳ないが、妹の体調が優れないんだ。私たちのことは、そっとしてほしい──」


 扉越しであっても、一向に黒皇が立ち去らないことを悟ったのか。そうした訴えがあるが。


(あぁ……おっしゃるとおりです、一心さま)


 すぐに済ませようだなんて、おこがましかった。傲慢以外の何物でもなかった。

 なぜなら鼓膜に残る声音は、聞きおぼえがあるもの。

 

 忘れるはずもない、この声の主は。


「わたくしは……黒皇です」

「……なんだって?」


 黒皇は早鐘を打つ鼓動のまま、たたみかけるように問う。


「お忘れでしょうか、黒皇でございます。そちらにいらっしゃるのは──!」



  *  *  *



 青い空のもと。

 地上にも天国があったのだなぁと、早梅は支離滅裂な思考にほほをゆるませていた。


梅雪メイシェさまぁ……」

「よしよし」

「はぅ……」

「ずるーい! ぼくも!」

詩詩シーシーもおいで、よしよーし」

「ふわわ……にゃああ……」


 ひろい屋敷の敷地内をひとしきり駆け回り、疲れたのだろう。

 早梅が小花の咲く草むらで足をくずしたところ、おさない少年たちが右から左からなだれ込んできた。


 早梅のひざにすり寄るさまは、甘える子猫そのものだ。

 というか実際、八藍バーラン九詩ジゥシーもそれぞれ黒とキジトラ模様の猫耳をひょこひょこと動かし、しっぽをごきげんに揺らしながら、のどをゴロゴロと鳴らしている。


(かわいい、かわいい……かわいい!)


 まだおさないゆえに、うまく制御ができないのだろうか。

 ともあれ、半獣になったマオ族の少年という破壊力は絶大なものである。

 早梅も語彙力を失い、ただひたすらに脳内でかわいいを連呼していた。


「なんてやつらだ……俺だって梅梅メイメイにひざ枕してもらったことないのに!」


 背後で蓮虎リェンフーを抱いた晴風がなにやらおとなげないことで張り合っているが、置いておいて。


「おれ、ずっとこうしててほしいなぁ。ねぇ梅雪さま、ずっとここにいてくれるの?」


 遊び相手をしているうちにくだけた接し方になった八藍が、そういって早梅に上目遣う。


「そうだなぁ。まだ先のことはわからないけど、しばらくはお世話にならせてもらうね」


 早梅は八藍の黒い猫っ毛をなでながら、おっとりとした口調で返す。

 今後のことを思えば、そう短くない期間、力を借りることになるだろうから。


「じゃあじゃあ、おれのたんじょうびもいてくれる!?」

「あら、近いのかい?」

「なのかご!」

「七日後! それはお祝いをしないとだねぇ」


 古代中国と似た文化をもつ央原おうげんは数え年で年齢見るから、みな新年の元旦に一斉に歳をかさねるはずだ。

 きちんと個人の誕生日を祝うのは、猫族独自の文化なのだろうか。

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