第二章『瑞花繚乱編』

第五十八話 蒼天をつらぬく【前】

 夜空に浮かぶは、蒼白い望月。

 今宵もまた、耳障りな音がする。


 ぽきり、ぽきり。

 それは、小枝が折れるように。


 ころり、ころり。

 それは、石ころが地面へ転がるように。


「酒のさかなにもならん雑木だ。根こそぎ梅の木に植えかえようか」


 居城の景色に美醜など求めてはいなかったが、このところは癪にさわって仕様がない。

 卓に片ひじをついた飛龍フェイロンは、木枠にふちどられた陰鬱な夜空を見やる。


「興がそがれた」


 飛龍は青梅の実が浮かんだ酒を飲み干すやいなや、椅子から自重じじゅうを持ち上げた。

 と、視界の端にが映り、怜悧な血色の双眸から一切の温度が消えうせる。


(蝋人形に翡翠色の絹糸で髪を結い上げてやり、瞳に瑠璃の石をはめ込んだほうが、よほど有意義であったな)


 いくら絢爛けんらんな衣を身にまとおうと、ごみは塵なのだから。

 だが、聡明な飛龍はすぐに思い直した。

 そもそもの愚か者は、おのれやもしれぬ、と。


(唯一無二の美貌を、塵なぞに見いだそうとした私が浅はかであった)


 深谷しんこくの街より帰還してからというもの、飛龍は気もそぞろな日々にさいなまれていた。

 食事は味がせず、目にするすべてが色あせて見える。

 それらしい女を見繕っても、胸の空洞がひろがるばかり。

 今宵もほら。飛龍がすこしふれただけで、ぽきり、ころりと、死んでしまった。


 死体をどうこうする嗜好は、飛龍にはない。ゆえに、こどもを生む道具以下のがらくたに辟易しながら、行き場のない欲望を燻らせるしかないのだ。


 飛龍が本当に欲しいものは、伸ばした指先にはふれない。

 なんと、ままならないものよ。


(そなたは、かくも私を乱すのか。悪い女だ……梅雪メイシェ


 華奢な細腕で剣をふるい、蝶のごとく軽やかに舞う。あの少女に、魅了された。

 飛龍のこころが、からだが、たったひとつの存在を求めてやまないのだ。

 これを『愛』と呼ばずして、なんとする?


 あの勇ましくもいじらしい少女を、どうすればおのれのもとへ永劫に留めておけるのか。

 思案にふける飛龍は、ついにそのととのった顔貌を、愉悦にゆがませた。


「すこし、意地悪をするか」


 うまく手加減ができず、泣かせてしまうやもしれぬが。


「この手で、初々しい花を散らしてやろう──」


 嗚呼、それがいい。そうしよう。


「これもそなたを愛するがゆえなのだ。ゆるしておくれ、梅雪。わが梅花の姫よ」


 飛龍はわらう。愛執をたぎらせて。

 凍てつく夜闇を、熱をおびた吐息が溶かした。



  *  *  *



「梅雪お嬢さま」


 吹きすさぶ風のなかにありながら、その呼び声は、不思議と鮮明に早梅はやめの鼓膜をふるわせた。

 早梅は、そっとまぶたを押し上げる。

 乱気流が凪いだ先に、その光景はひろがった。


 見たわす限りの、青藍の空。


 黒皇ヘイファンの首にしがみついた早梅は、あざやかな色彩にたちまち目を奪われる。


 まるで、空の海に浮かんでいるようだ。

 否。海が、空の色を映しているのだったか。

 いま手を伸ばしたら、太陽にもとどくだろうか。


 ぼうっと青の彼方をあおぐ早梅の視界へ、ふいに影が射し込む。

 突然の暗転にくらんだ早梅は、つかの間に暗順応をへて、瑠璃の瞳をまあるく見ひらいた。


 切り立った巨大な岩の塊が、根を張る大樹のごとく、まっすぐに伸びている。

 その堂々としたたたずまいに圧倒される早梅は、ちっぽけな豆粒のようなものだろう。


蒼穹そうきゅうに浮かぶ、天をもつらぬく山……」


 言葉を忘れて魅入る早梅のからだを、黒皇はいま一度、たくましい胸へ引き寄せる。


「じきに、到着でございます」


 艷やかな黒の勇健ゆうけんな翼が上昇気流を巻き起こし、やがて早梅たちは、風となった。

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