第三十二話 月は雪に溶けて【前】

 愛を込めた音色によって、激情の炎が鎮まる。

 ハヤメの胸で泣きはらし、月白げっぱくの耳としっぽをしゅんと垂れた憂炎ユーエンは、叱られた子犬のよう。


「ごめん、なさい……」

「怒ってはいないさ。それより、具合はどう? からだにおかしいところはない?」


 憂炎は、内なるエネルギーを爆発的に増幅させる『千年翠玉せんねんすいぎょく』を口にしたのだ。

 これは耐性のない者にとって劇薬。内功ないこうが未熟なこどもならば、なおさら。


「耳としっぽが、でてきちゃう……」

「それだけじゃないだろう。ほかには?」

「それだけだよ。あとはへいき」


 だからこそ、憂炎の返答はハヤメに衝撃をもたらすものだった。


(本当になんともないのか? 私でさえ、増幅した内功の制御に苦戦したのに)


 にわかには信じがたいけれども、当の憂炎が大きな三角の獣耳を両手でおさえ、引っ込めようと奮闘している。

 より、こちらのほうが一大事だと言わんばかりに。


(そうだ、憂炎はこの物語の黒幕となりうる存在……武功ぶこうの素質があるのは、当然のことなんだ)


 それはおそらく、梅雪メイシェよりも。

 もしかすれば、紫月ズーユェよりも。


「どうしたの? メイおねえ……姐姐おねえちゃん!」

「女子供の分際で、なめた真似をしてくれたな!」


 迫り来る気配。ハヤメはたしかな殺気を察知する。

 とっさに反撃を試みようとするハヤメだが。


(間に合わない……!)


 瞬時に悟ったハヤメは、抱きよせた憂炎を胸にかばう。

 戦場であることを、一瞬でも失念していた。

 たったそれだけで、生死など簡単に決まってしまう。

 この物語は、そういう世界なのに。

 いまさら後悔したところで、手遅れ。


 重たい衝撃にみまわれ、ずぷりと、なにかが刺し貫かれる音。

 憂炎へおおいかぶさったハヤメの頭上に、生温かい雨が降りそそぐ。


 覚悟した痛みは、なかった。

 痛覚が麻痺したわけではない。

 そろそろと空をあおぎ、ハヤメは思考停止する。

 ハヤメの視界をふさいだ明林ミンリンが、その胸に、鋭利な鋼を生やしていたがため。


「くそ、この女、余計なことを!」


 忌々しく吐き捨てた黒装束の男が、乱雑に剣を引き抜く。

 どっと背中を蹴りとばされた小柄なからだが、ハヤメのもとへくずれ落ちた。


「……お嬢、さま……」

「明林……まさか、私を、かばって」


 くさびをうしなった明林の胸からとめどなくあふれたものが、もたれた肩口をたちまちに紅へ染め上げる。


「わたし……こわかったんです……夫を、殺され、脅され、て……こわくて、こわくて……あなたを、売るような、真似を……」

「しゃべるな明林ッ!」


 ハヤメの制止は、もはや悲鳴だった。

 けれども、明林の独白はやまない。


「梅雪、お嬢さま……あいして、いまし、た……ほんとうの、むすめ、みたいに……だいすき、だったくせに……」

「もういいから、もうっ……!」

「だれも、すくえないの……おくびょうで、やくたたずの、わたし、なんかじゃ……」


 こぽりと、吐き出される鮮血。

 血に溺れる明林が助からないことは、火を見るよりあきらかだった。


「なにもかも、うしなって……だいじなひとを、きずつけ、て……なんて、みじめ、なのかしら……」


 どろりとした紅に、まじるものがある。

 ぼろぼろと明林のほほをつたう、涙だ。


「おじょう、さま……ごめん、なさい……」


 ひときわ大粒の雫が、すべり落ち。

 糸を断たれた人形のように、明林は事切れた。


 ──ありがとう。わたしの翠薫肉桂お茶を、飲んでくれて。


 最期に、そう言い遺して。


 沈黙する明林の亡骸を、ハヤメはそっと横たえる。

 その濡れた虚ろな瞳へ手を伸ばし、明林の涙を拭うように、まぶたをおろした。

 うなだれたハヤメにできるのは、無力感に唇を噛みしめることだけ。


「おとなしく『千年翠玉』をよこしていれば、すこしは長生きできたものを!」


 静寂を引き裂いたのは、紫月と斬り結ぶ主犯格の男だ。


「やはり狙いはそれか。おまえらは内功を高める『千年翠玉』を手に入れて、武林ぶりんの頂点に立とうとしていたわけだ。──わらわせる」


 紫月の唇から、氷点下の声音が放たれる。

 打ち込まれた刃をとめた白銀の双手剣が、相手の剣身をすべり、跳ね上げる。

 鋼の塊がはじき飛ばされ、ひゅんひゅんと放物線を描いて地面へ突き刺さった。


 ひと回りも体格が違う。力の差はあっただろうが、それを歯牙しがにもかけない技術が紫月にはあった。


「ちょっとでも脳みそが詰まってると信じて、おまえらにひとつ助言をやろう」


 ちらとよこされた藍玉らんぎょくの視線から紫月の意を汲み取った憂炎が、両手をひろげてハヤメの前へ飛び出る。

 そうして爛爛と光を放つ柘榴色の瞳で、憂炎はそびえ立つ男のひとりをにらみつけた。


「五人は俺に瞬殺され、小僧に丸焦げにされた十人も死んでこそいないにしろ、虫の息だ。師弟おとうとがだいじなら、利口になれるよなぁ?」

「くっ……!」


 紫月の畳みかけに、後ずさる男たち。

 明らかにうろたえた主犯格の男が、何事かをつむごうとした、そのとき。


「──愚かな戯言ざれごとよ」


 張りつめた夜の空気が、ゆれた。

 声がひびいた。低い男の声だ。

 紫月と対峙した男のものではない。

 残る四人のものとも違う。


 ハヤメははじかれたように首をめぐらせて、絶句した。


 いつだ、一体いつからいた。

 背後の木陰にたたずんだ、は。

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