第十五話 藍玉の戦慄

 国をかたむける予定のある絶世の美少女も、客寄せ熊猫パンダには及ばなかったらしい。


「皿あらい? お嬢さまの白魚のような指にあかぎれができたらどうするんです!」

「配膳だけでも? そんな小間使いのようなことさせられません!」

「店先で呼び込みなんてしなくていいですからね。お嬢さまの美貌に目がくらんだ飲んだくれがなにをしでかすか、わかったもんじゃない!」


 一宿一飯の恩義に謝意を、とたずねたハヤメを、明林ミンリンは目を三角につり上げてことごとく両断した。

 玉砕とはこのことをいうのだろう。そりゃあもう木っ端微塵だ。


 あたたかい食事や部屋を提供してくれているのに、肝心の明林が銀のひとつぶも受け取ろうとしない。

 これでは立つ瀬がない。ハヤメは頭を抱えた。

 さらに追いうちのごとく、


「そんなことより憂炎ユーエンぼっちゃんに字でも教えてさしあげては? あーらこんなところに紙と墨と筆が!」


 と、上手いこと二階の部屋へ押し込められた。

 過保護もここまで来ると、言葉にならない。


 よろしい、観念しよう。


 卓について料紙とにらめっこをする憂炎に字を教えることで、ハヤメは手持ち無沙汰な時間に、意義を見いだすことにした。


「スミをつけて、かく? えっと……フデで?」

「筆はつかむんじゃなくて、つまむんだよ」

「つまむ、つまむ……こう?」

「そうそう、上手だねぇ。このお手本をまねて、書いてごらん」

「おてほん、おてほん……」


 架空の古代中国を舞台とするこの異世界でも、民間の識字率は高くない。

 宮仕えをする宮女のなかでさえ、字の読めない者がいるほどだ。


 その点、梅雪メイシェが生家とするザオ一族は、こどもに英才教育をほどこすだけの伝手と財力があった。

 乳母としてやとわれた明林は、梅雪の書の師でもある。

 おかげで梅雪は若くして高い教養をもち、芸事にも秀でた才姫として、後宮で地位を築くのだ。


(まぁ行かないが、後宮)


 だれになんと言われても、これは決定事項である。

 自分、死にたくないので。


梅姐姐メイおねえちゃん……」

「うん?」

「べたべたするぅ……」

「おやまぁ! 墨まみれじゃないか!」


 ハヤメがちょっと考えごとをしていた間に、事件は起きた。

 筆を使い慣れていない憂炎が、右手を真っ黒にしていたのだ。


「汚くして、ごめんなさい……」


 柘榴色の瞳が、うるうるとこちらを見上げている。

 健気な子だ。叱るはずなどないのに。


「はじめから上手にできたら、面白味がない」

「そういうもの……?」

「そういうもの、だ。いっぱい失敗しなさい。正解はひとつしかないが、失敗はたくさんある。それだけたくさんのことを学べるってことさ」


 伊達に長いこと幽霊をやっていない。

 ハヤメも先達として、それくらいの助言はできるはずだ。


「おしぼりをもらってこようね。憂炎は気にせず続けていなさい。私が帰ってくるまでに、熊猫になっててもいいぞ?」

「ならないもん! おれ狼だもん!」


 むすっとほほをふくらませて、そっぽを向く憂炎。

 意地になって、料紙を黒にぬりたくっている。


 なんだなんだ、このかわいい生き物は。

 くすくすと笑いを袖でおさえながら、ハヤメは席を立った。



  *  *  *



 ハヤメは階段をおりる最中に、ふと違和感をおぼえた。やけに静かなのだ。


(昼をすぎたとはいえ、昨日はまだ客が麻辣火鍋で、てんやわんやしていた時分だが……)


 階段をおりきると、ハヤメはなんとなく息をとめ、一階の食堂スペースをそうっとのぞく。

 そうして不可解な静けさのわけを、


 ベン……ベン。


 およそ人の声帯では成し得ない、旋律が在る。

 それは大の男数十人をゆうにおさめてしまえる広い部屋の一角から、清流のごとくゆるやかに流れ来る。


 ハヤメは呼吸の仕方をたちまちに失念した。

 まばたきもできず、瑠璃色のまなざしを奪われた。


 薄化粧の竹林を透かした梅型の花窓を背に、椅子へ腰かけたその人物は、男とも女ともつかぬ、端正な顔立ちをしていた。

 両肩でゆるくたばね、胸もとへさらりと流された髪は、すず色。

 しゃんと背を伸ばし、腕にはひと張りの白琵琶をいだいている。

 ばちは用いない。義甲をはめた白い指で、思うがまま、自在に爪弾く。


 手にまかせ、軽くおさえ、ゆるくひねっては跳ね。

 細い弦は、幼いこどもたちがひそひそ話をしているよう。

 軽やかな曲調は、無邪気に駆け回る足音のよう。


 一変、軸をねじり、さらわれた弦が、三度みたびかき鳴らされる。

 バラバラと大小の真珠を落としたように、ふぞろいで危うい、妖艶な音色。


 緩急のあるひびきの果てに、無がおとずれる。

 針の落ちる音すら拾えるだろう静寂のなか、絹を引き裂くようなするどい音がわななく。


 圧倒的な迫力。ハヤメは戦慄した。


 胸のあたりで四本の弦をかき鳴らした姿勢のまま、余韻も冷めやらぬうちに、奏者がまぶたをひらく。


 ──息絶えてしまうかと。


 刹那に跳ねた拍動は、過剰に、性急に、ハヤメの全身へ血液を送りだす。

 人魚が流した涙のような藍玉らんぎょく双眸そうぼうが、一点の迷いもなく、こちらを見据えていて。


 ハヤメはたまらず、裾をひるがえした。


「あらお嬢さま、どうされました? なにかご入用ですか?」


 そして駆け出すことも叶わず、つんのめる。

 ハヤメの背後に、膳をかかえた明林がいたのだ。


「たいしたことじゃないの! 憂炎が墨まみれになってしまって、おしぼりをいただこうかと」

「まぁ! すぐにご用意しますわ」

「大丈夫です、邪魔はしません。明林はお仕事を続けてくださいね」


 言うや否や、ハヤメは厨房へ駆け込むと、湯をかっさらった手ふきをにぎりしめ、階段を駆け上がる。


「いやいや……なにをしとるんだ、私は」


 そしてハヤメは、壁づたいに、へなへなと崩れ落ちる。

 鏡を見るまでもなく、情けない顔をしていることだろう。


 あの琵琶の音。

 それから、藍玉の瞳。


 やめておけばいいものを、思い返しては胸をかき乱される。

 震える息を吐き出せば、さほど距離のなかった床板を跳ね、顔面へ返ってきた。泣きっ面に蜂か。


 いつまでもこんなざまでは、憂炎に合わせる顔がない。

 ハヤメはよろよろと立ち上がり、両のほほに平手をおみまいする。


「……よし!」


 いざやゆかん、と気合いを込め、颯爽と歩み出す。

 そこまでは、よかったものの。


《──なぁにが、よし! ですかぁ?》


 ハヤメのほかには無人のはずの廊下に、いや、ハヤメの脳内に直接ひびく、声がある。


《おひさしぶりですねぇ、ハヤメさぁん……?》


 その瞬間、ハヤメは火照ったからだが急激に冷えるのを感じた。

 考えるまでもなく身をひるがえし、無人の部屋に飛び込んだ勢いもそのままに、ハヤメは五体投地をくり出す。


「申し訳ありません申し訳ありませんクラマさまぁー!」

《謝ってすむなら、警察はいらないんですけどねぇ》


 はははっと爽やかな笑いを思わせる電気信号が、豹変。


《あとで連絡するっつってどんだけ経ってんだ、このアンポンタンがーっ!》


 きぃん! とハウリングした爆音に、ハヤメはあわや、頭がかち割れるかと思った。


 あ、終わったな……

 早くも、涙がちょちょぎれそうになったハヤメである。

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