第二話 灼眼の白狼

 幽霊は負の存在だ。


 老いにとらわれない。

 病にかからない。

 空腹を感じない。

 もちろん、暑さや寒さも感じない。

 ナイナイづくしで、もはやマイ。


 この場合、『正か負か』の電気的な意味で負に荷電かでんしていることをあらわす。

 ネガティブ思考で自己否定しているわけではない。駄洒落でもない。断じて。

 その点をふまえてもらいたいのだが。


「なんじゃこりゃあ!?」


 に、ハヤメは飛び起きる。

 ねずみ色の空にけたたましい高音がこだまし、頭痛をおぼえた。

 付け加えると、幽霊には痛覚もない。

 おわかりいただけたろうか。

 現状の異様さを。


 ひとまず、二本足で立って歩こう。

 ひとり悶々と考えたところで、出てくるものなんかありやしないんだから。


 ホモ・サピエンスとしての本能までは忘れていないハヤメのなかでは、早々に決着した。


 ハヤメは自分のものであるはずがない足を使い、曇天どんてんへ向かって体重を押し上げる。

 ふみしめた地は、一面のまぶしい白。


 ハヤメはふと、全身にまとわりつくような重力をおぼえる。

 腕をもち上げたり足ぶみをして、違和感の正体が現代日本らしからぬ衣裳をまとっていることにあると理解した。


(一見着物のようだが……和服ではないな)


 上衣は生成きなりの生地。えりあかい梅の花が刺繍されている。

 地面に向かってふわりとひろがる色は孔雀緑くじゃくみどり。足もとを隠すほどに長いすそだ。

 厚手な紺の長羽織のようなものを重ね着しているおかげか、氷点下の寒さはなんとか辛抱できそうだ。


 そうして、ハヤメは誰のものとも知れぬ人の身をかかえ、歩み出す。

 腹の奥底から吐き出した息は、たちまちに白く凍りついてしまった。


 まずハヤメは、白粉おしろいをまとったまばらな木々のすきまを抜ける。

 さらに奥へ進もうとしたが、はっとふみとどまった。


 ──空に、落ちるかと。


 白いばかりだった足もとに、あざやかな空色が広がったのだ。

 ふいの北風にふかれた落ち枝がなだらかな斜面を転がり、かつんと音を立てて空色にぶつかった。


「空……じゃない。凍りついた湖だ。この色は水質のせい? それとも、水にとけ出した土の成分によるものだろうか」


 鏡のような氷面ひもをのぞき込めば、ひょっこりと少女の顔があらわれる。

 丸みを帯びた胡桃くるみ型の瞳は、氷面よりも青の深い瑠璃るり色。

 視界の端をすべり、ほほをなで下ろした翡翠ひすいの髪は、絹糸のようにやわらかい。


「なんとまぁ。えらい別嬪べっぴんさんじゃないの」


 年のころは十五、六とみた。

 花もはじらう乙女は、声帯も鈴でできているらしい。

 ハヤメが思考した音を、ぷるりとしたかたちのいい唇が、もれなく奏でるのだ。


 ハヤメは思い出したように痛む頭をかかえた。

 間違いない。これまで数々の端役はしたやくを演じてきた経験則が、火災報知器なみに警鐘けいしょうを打ち鳴らしている。


「こんな脇役が、いてたまるかーい!」


 めちゃくちゃな美少女に憑依してしまった。

 この国宝級の逸材を、わざわざちょい役に採用するアホなキャスティングはないだろう。

 つまりは、そういうことである。


(……この『役』と私の波長が、偶然に一致した?)


 なんにせよ、俺の勧めてない仕事は仕事じゃないです! と日ごろから口やかましいクラマを思えば、これが正規の仕事でないことはあきらかだった。


「そうだ、クラマくんっ……!」


 くり返し自分を呼ぶ鬼気迫った声が、唐突に思い出される。

 こうしてはいられない。それなのに氷面に映り込んだ黒い影が、ハヤメの思考をさえぎる。


 ヴン、と冷気を裂く音。

 ハヤメはとっさに、利き手側へ身をおどらせる。

 た、たんっ、と両手で薄雪うすゆきの地をはたき、足をふり上げた。

 やがて側転ののちに着地したハヤメは、三拍をへて、首をかしげた。


「あれ……私いま、なんで?」


 けれども、のんきに考えごとにふけっている状況ではない。

 片ひざをついたハヤメの手もとに、翡翠がひと房、はらりと舞い落ちたためだ。

 左のこめかみあたりが、ちょっと涼しいかもしれない。


 雪上から外されたハヤメの瑠璃色の瞳が、つい先ほどまでたたずんでいた岸辺をふりあおぐ。

 あと三秒でも湖をながめていたら。『もしも』を想像して、ハヤメは笑ってしまった。


「……グルル」

「おやおや、元気なわんちゃんじゃないか」


 そこには、一頭の狼がいたのだ。


 体毛は、月の光を思わせる白。ともすればこの雪景色にとけ込んでしまう、まばゆい月白げっぱく色だ。

 が、れた柘榴ざくろのような瞳が、儚げな毛色とは対照的だ。

 爛爛らんらんとハヤメを射抜く燃えるまなざしは、獲物をねらう獣のそれにほかならなかった。


 狼といっても、柴犬くらいの体長ではなかろうか。

 するどい爪と牙をむき出しにして、熱烈な歓迎っぷりだ。

 それほど大きくはないにしろ、噛みつかれたなら生身の人間はひとたまりもないだろう。


(さて、どうしたものか)


 四足歩行動物に、かけっこでは勝てまい。

 逃げるにしても、その前にどうにか一発かましてやる必要がある。


 じゃあ、どうやって?

 それがわかったら苦労しない。


(なにか……なにかないか)


 ハヤメはからめた視線はそのままに、薄ら冷たい地面を右手でさぐる。


 白狼はくろうが一歩。

 ハヤメは左足を引いて、右ひざを立てる。

 指先は、冷たい雪をなでるだけ。


 白狼がさらに一歩。

 ハヤメは右足を引いて、左ひざを立てる。

 依然として、指先にはなにもふれない。

 が、背にふれるものがあった。

 凹凸のある、硬くて太いものだ。


 それ以上は後退できないハヤメを前にして、白狼が身を低くかがめる。血走った柘榴色の瞳で、獲物をとらえて。

 雪上をかき回すハヤメの指先が、背中にふれる感触とよく似た硬いものにふれた。


「グルァッ!」


 ハヤメは深く考えるまでもなく、『それ』をひっつかむ。


「正当防衛なんでね──ごめんよ!」


 決着は一瞬。

 勝敗の決め手は、リーチの差だ。


 大口をあけて飛びかかる白狼の横腹を、ハヤメのふるった木の枝が直撃する。

 そのへんに落ちていた木の枝らしからぬ長さや硬度から、鉄パイプだとか棍棒と称したほうが正しいかもしれないが。


 自身がふみ固めた雪上にたたきつけられた白狼は、「キャンッ」と悲鳴をあげてはずんだのちに、ぴくりとも動かなくなった。


「えっうそ、死んじゃった?」


 そりゃあ渾身の力でなぐり飛ばしたさ。しかたないだろう、生命の危機なんだもの。

 だからといって、その対価に命を奪いたかったわけでもない。

 ハヤメは焦った。すごく焦った。


 ぬき足、さし足、しのび足。

 そろり、そろりと忍者のごとく近づいたハヤメは、思いきって声を発してみる。


「お、おうい、もしもーし?」


 白狼はこたえなかった。ぐったりと地面に倒れ伏したままだ。

 とたん、ハヤメはひどい頭痛にみまわれる。

『動』『物』『虐』『待』という不名誉な字面が、自分を中心にくるくるとまわる幻覚が見えた。


「ほんとごめん、おねがいだから起きて……」


 雪にうもれた姿は、見れば見るほどか弱い子犬のようだ。

 こどもなんだろう。おなかを空かせていたのかもしれない。


「餌にはなれないけど、いっしょに食べものを探すくらいはできるからさ、ねぇ」


 ハヤメは殴打した横腹をさけ、白狼の背の部分を軽くゆする。

 そのときだった。沈黙した白狼のからだが、淡い光につつまれる。


「っ……なんだなんだ!?」


 飛びのいたハヤメは、ついで瞳を白黒させる。

 白狼をつつみ込んだ月光のような白い光に、舞い上がった雪の結晶が、きらきらと反射している。

 そしてハヤメが次にまばたきをするころ、驚くべきことに、すぅ……と白狼が消えるかわりに、ひとりの少年が姿をあらわすではないか。


「えっ、あっ、うん」


 思考停止したが、それもつかの間のこと。ハヤメはすぐに平静を取りもどす。

 同時に、ひとつの可能性を見いだしていた。

 なんせハヤメは、古今東西の異世界をわたり歩き、ありとあらゆるファンタジーな光景を目のあたりにしてきた百戦錬磨のモブなのだ。

 子狼が少年に変化したくらいで、いまさら取り乱さない。


「あーあーあー」


 うまれたままの姿で意識のない少年を、こんな極寒に放置するわけにもゆかず。


「まじか」


 いろんな意味で。


 遠い曇天の彼方を見上げたハヤメは腹を決め、ため息まじりに紺の長羽織を肩から落とした。

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