episode22
陽が昇りはじめた早朝。色褪せた肌色の光が、徐々に街を色づかせる。
ちゅんちゅん、とヒヨドリが悠々と空を飛びながら、朝の訪れを告げまわっている。天候は良好。涼しい風が体を通り過ぎる。淹れたての珈琲を片手に食パンを齧りたくなる。そんな爽やかな朝であった。
「憎いほどいい天気だな」
まだ眠りについている大金井商店街で、赤田は軽いストレッチをはじめた。彼はジャージ姿で、ホウキを持ちながら身体を伸ばしていた。遠くから目覚まし音と、電車が動いている音が聴こえる。
「おっし、はじめるか」
時刻は朝の4時過ぎ、そんな早朝から赤田は店の掃除をはじめた。
店の前をホウキで掃いて、看板と窓ガラスを雑巾で拭く。テーブルやイス、キッチン周り、壁に掛けてある写真などのホコリを拭きとる。普段から掃除をしているわけではないが、今日は、そうしたい気分だった。
「あとは床掃除とゴミ出しか。ワックスがけまではしなくていいとして、水拭きくらいはしておいたほうがいいな」
モップに水を十分吸わせ、床にべちゃり。巨大な用紙に書道パフォーマンスをするみたいに、モップで床をこすっていく。しかし床に溜まったホコリに油が染みついているせいか、ところどころベタついていた。洗剤もしくは重曹水を使った方がよさそうだ。
軽く掃除を、と思ったのに、気になりはじめたら徹底的にキレイにしないと気が済まなかった。想像以上に時間をかけてしまっている。
「洗剤を作る前にゴミ出しでも終わらせておくか。そういえば先週から溜め込んでいたゴミが倉庫にあったような…」
「おはよう赤田君、ゴミ出し手伝うよ?」
「ああ、助かる。倉庫に不燃ごみの袋が置いてあるから……」
普通に受け答えしたが、すぐに「菅原ぁ!?」と素早い反応を見せた。ノリツッコミみたいな反応に、菅原はくすりと笑った。出入口に立っていたのは私服姿の菅原である。
「僕だけじゃなくて花瀬さんもいるよ」
彼の後ろからにょっと姿を見せた花瀬。半開きの瞼を擦りながら「うぃ…」と手を上げる。眠気が限界値を行ったり来たりしているのだろう、菅原の腕を掴んでいなければすぐに倒れてしまいそうだった。
「こんな朝早くからどうしたんだよ。大事な物でも忘れてきたのか?」
「そういうわけじゃないけど、目が冴えちゃって。ふらふら散歩してたらここにたどり着いたんだ。ただそれだけ」
「…ははっ、そうかい」
菅原の家からここまでトータルで四十分以上はかかる。となれば始発電車に乗ってここまで来たということだ。ふらふら散歩してここにたどり着くもんか。彼の優しい嘘の裏側に、赤田は気付いていた。
「よくわかった、俺がここにいるって」
「確信は持てなかったけど、きっと、いるかなと思って」
「お前は賭けに出るようなタイプじゃないだろ。もしいなかったらどうしてたんだよ」
「駅前のファミレスに居座っていたかな。花瀬さんも限界そうだしね」
赤べこのように首を動かす花瀬。もはや会話に入る余裕すらなさそうである。
「というか目が冴えたって菅原だけだろう。隣の奴は眠たそうにしているが」
「うぃ…💤」
「赤田君のお店に行くって連絡したら『私も行く』って返事が来てさ。眠いなら無理しなくても良かったのに」
「うぃ~…」
簡単な返事しかできないほど今にも眠ってしまいそうだった。今の花瀬を良く言えば赤子、悪く言えば酔っ払いである。
休日にはオンラインシューティングゲームで夜更かしするのがルーティン化していた花瀬にとって、早起きなんて中学生の頃に、友人達と遊園地へ遊びに行った以来であった。夜型の彼女が早起きをする珍しさは、真冬に熊が目を覚ますのと同等である。
「居間にソファあるから寝てていいぞ」
「んーん、手伝う。エナジードリンク、買ってきたから、補給すれば、大丈夫」
「女子高校生がすることじゃないな。掃除が終わったあとに朝飯でも作ってやろうか?」
「ん、サンドイッチがいい。ポテサラのサンドイッチ」
「了解。とりあえず掃除を終わらせるか。それじゃあまずは――」
花瀬と菅原に指示を出して掃除を再開した。一人なら二時間以上はかかっていただろうが、三人だと半分の一時間ほどで終わってしまった。素直になれない赤田は、感謝を言葉で伝える代わりに朝食をふるまった。
花瀬の要望通りのポテトサラダを含む種類豊富なサンドイッチ、チェリソ、スクランブルエッグにゆで卵。それから食後のデザートまでホテルの朝食のような品揃えだ。
「いよいよ今日だね。そういえばなに作るか決まったの?」
食後にハーブティを嗜みながら菅原が訊ねる。
「まあな。お前らがヒントをくれたおかげで、納得のいくものが作れたよ」
「……作れた?」
「ま、あとでのお楽しみだ。その話はここでおしまい」
意図しない返事に疑問符を浮かべてしまう。これ以上はヒントもくれない様子だった。試作して納得いくものが作れたのか、あるいは作り置きでもしているのか。
「……」
勘違いであってほしいが、赤田は既にこの店を諦めているのではないかと菅原は悟った。二日前までレシピも決まらず、彼から緊張を感じない。
さっきの言葉もそうだ。諦めているから作り置きにしたのではないか。今朝、店の掃除をしていたのも、もしかすれば…。
「ちなみに諦めたわけじゃないからな」
「え?」
「弁明しておくが、ここを手放すから掃除していたわけじゃない。前回は急だったから準備も何もできなかったけど、今日は違う。どんな形であれ客が来るんだ。それなのに店が埃だらけだと、おふくろの顔に泥を塗ってしまう。そんな奴がこの店の跡継ぎを語る資格はないからな」
赤田は何食わぬ顔で、クッキーを齧りながらそう宣言する。
「……はは、やっぱり赤田君はカッコいいよ。尊敬する」
「なんだよ気持ち悪いな」
彼はきっと一流の料理人になるような気がした。一週間という短い期間だけど、そんな彼をサポートできたことを菅原は誇りに感じた。心配事がなくなったからか、さっきよりもクッキーが甘く感じる。
「それより、さっきから大人しいな花瀬、どうした」
「ねえ赤田…この前に話したことだけど、やっぱりダメ?」
「『一緒に富士山に登ろう』って話か。何度も言うが俺は登らない」
先日から花瀬は富士山登頂企画に赤田を誘っていた。登山経験者がいると心強いという理由だけではなく、彼女にはどうしても赤田に登ってほしい理由があった。
「そんな重く捉えるなよ。俺が登らない理由は、おふくろが富士山で亡くなってトラウマだからとかそういうことじゃなくて、ただ…」
「……ただ?」
「疲れるのが嫌だ。どうせ花瀬はミネストローネスープを作って、さらには運んでほしいがために誘ってるんだろ? お前の顔にそう書いてあるよ」
「それは偏見だよ赤田君。花瀬さんが自らの欲望のために、さらにそんなくだらない理由のために誘うことはしないよ。赤田君は富士山に対して良い印象は持っていないはず、それを変えたいと思って誘っているんだよ。ねえ花瀬さん」
「そゆことぉ~」
「生乾きみたいなムカつく返答だな。おい、目を合わせろ花瀬空」
「……僕、信じてたのに」
「そういう言い方止めてくれる!? まるで悪役みたいじゃない」
尽きることのない雑談。彼らの笑い声が店内にこだまする。
いつしかこの店が客で満席になり、端から端まで笑い声で満たされる、そんな心を拠り所となる店を作りたい。そんなことを思う赤田であった。
それを叶えるためには、今日の挑戦を乗り越えなければならない。
そして待ち望んでいた夕方がやってくる。
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