episode5

「わたしね、天文学者になりたかったんだ」


 恥じらいを隠すためか花瀬はムリやり笑顔をつくった。『なりたい』ではなく、『なりたかった』。すでに夢を諦めたような発言に菅原は胸がきゅっと締めつけられた。


「幼いころからの夢だった。でもやっぱり夢を見過ぎていたんだよね。幼い頃ってなんでも魅力的にみえるじゃん。アイドルに憧れたり電車の運転手に憧れたり、わたしの場合は星だったの」


 きっかけは単純だった。寝つけなかった幼子おさなごの花瀬に母親が読み聞かせてくれた有名な絵本『星の王子様』。花瀬は王子様でもストーリーでもなく宝石のような星に目を惹かれた。


 まさに一目惚れだった。それからというものの花瀬は両親に駄々をこねて望遠鏡を買ってもらい毎晩のようにベランダで星を眺めていた。『いつか夜空に浮かぶお星さまを掴んで持って帰るんだ。わたしの宝物にするの』、そんなことを言ってたらしい。実に可愛らしい子供の夢。


 だけど彼女はただの妄想だけで終わらせたくなかった。最初は図鑑から天文について勉強してはじめ、小学生・中学生と夢に向かって突き進んでいた。


「教養が身についてくると嫌でも現実が見えてきてしまうの。それでもわたしは諦めなかった」


 中学生になった花瀬の行く手を阻むのは、知識量や金銭面、人脈、学歴、不安定な将来。それでも彼女は負けなかった。知識は人一倍、いや二、三倍猛勉強すればいい。金銭面は高校生になったらバイトをして貯めていけばいい。人脈はこれから探そう。学校の同級生にバカにされたこともあったが、鋼のような心を持つ彼女はそう簡単に折れなかった。


「でもだめだった。だめだったんだ」


 青春を謳歌するクラスメイト。将来の心配をする両親。花瀬は自分自身と葛藤しながら努力を続けた。そんな彼女を唯一支えてくれたものが夜空に浮かぶ星だった。ダイヤモンドのような輝きを放つ星が彼女の夢を支えてくれていた。


 だけど、限界は突如訪れる。


 いつものように川沿いで星空を見上げていると、ふと鼓膜が震えてもいないのに幼少期の自分の声が聞こえた。


『いつか夜空に浮かぶお星さまを掴んで持って帰るんだ。わたしの宝物にするの』


 中学二年生となった花瀬は数年ぶりに夜空に手を伸ばした。 

 その時、真っ先に感じたのは虚無感だった。手を伸ばしても背伸びをしても幼少期に見た景色と何も変わらない。星が遠すぎる。夢が遠すぎる。何も変わらない景色が彼女の鋼の心をバラバラに砕いていった。


 ――私は一体、何をしているのだろう。

 ――何に時間をいているのだろう。

 ――夢を見すぎていた。


 その日以降、花瀬は天文について勉強することもなくなり、いつしかその夢は泡となって消えていった。


「こうしてわたしは夢見る少女は卒業して現実をみる大人になったわけ。一番悲しかったのはすぐに気持ちが切り替えられたことだった。所詮、わたしの思いはこんなもんだったのかって」


 語り終えた花瀬は「おりゃ」と地面に溜まっていた桜の花びらを蹴っ飛ばした。八つ当たりをしているのか意味もなく何度も蹴り続ける。


「高校卒業後の進路って今後の人生を左右する大きな分岐点のひとつでもあるじゃん。だから揺らいでたんだよね、本当にこのままでいいのかって。そのときにわたしは気付いたんだよ。『ああ、まだ自分の中に天文学者になりたい夢が残っているんだ』ってね」


 同じ道の端で小さな子供が花瀬のまねをして桜の花びらを蹴り上げている。花瀬の八つ当たりと違ってただ純粋に花びらが舞うのを楽しんでいる子供。その姿みて自分が情けなく感じた花瀬は足を止めた。


 花瀬は小さな子供に手を振って、おとなしく耳を傾ける菅原に振りかえった。


「でも、それ以上は進めなかった」


 花瀬は笑みをこぼした。悲しさがにじみ出ている笑みを。


「今さら夢を追いかけてどうするんだって思ったんだよ。受験する大学だってほとんど決まっているし、三年も空いちゃってるから知識だっていくつか無いなってるからね。一度挫折を味わっているからこそ簡単には行動に移せなかった。夢を諦めたあとの喪失感はブラックコーヒー以上に苦いからね」

「ブ、ブラックコーヒー?」

「そうブラックコーヒー。わたしコーヒーが飲めない系の人なの。一度だけコーラと間違ってブラックコーヒーを飲んだことがあってさ、あのブラックコーヒーの苦みはやばいでぇ」


 苦みを思い出しているのだろうか、花瀬は目をつぶって空を仰いでいた。コーヒーが飲めない人にとってブラックコーヒーはセンブリ茶並みにヤバいと聞いたことがある。でも今ここで例えとして使うのは明らかに間違っているが、しんみりとした雰囲気が苦手な彼女の、場を和ませるために冗談なのだろう。


「夢を叶えられるのはひと握りの人だけでわたしはその一握りにはなれなかった。自分にそう言い聞かせてきっぱり諦めようとしていた……そんなときにだよ、あいつがあんなこと言ってさ」


 それが科学準備室での出来事だろう。


「なーにが『日本一宇宙に近い場所からみる星空』だよ、カッコつけて人差し指なんて立てちゃってさ」


 教師のマネをしているのか花瀬は眉をキリッとさせて人差し指を立てる。声もちょっぴり似させている。あの場面を再現してひとり楽しそうに笑っていた。十分に笑って満足した彼女は「はぁー」と全身にたまっていた空気を吐き出した。


「でも想像してしまったの。富士山からみる星空を。わたしの知らない景色を」


 インターネットで検索すれば富士山から見上げた星空の画像なんてたんまりあるだろう。探せば動画だってあるはずだ。便利な時代なんだからわざわざ汗水たらして富士山に登る必要なんてない――ということではないのだろう。レンズ越しの景色ではなくて、現地に足を運び、自分の瞳に直接取り入れることに価値がある。


「むかつくけどあいつの言葉がグサッきた。このままじゃわたし後悔だけが残って大人になる気がする。まったく大人は無責任なことばかり言うよ。過去を語るのは簡単だけど未来を語るのはとてつもなく不安なんだよ。若いから何事もチャレンジしろだなんて餃子の皮以上に薄っぺらいったらありゃしない」


 花瀬は空を見上げながらそういった。どこからかカラスの鳴き声が聞こえてきそうなオレンジ色の空。ひつじの形をした雲が群となって泳いでいる。インスタ映えしそうな美しい景色だが、花瀬の瞳には雲のはるか先にある遠い星を見ているような気がした。


「富士山から見上げる星空にわたしは何を思うんだろう。それが知りたいんだ」

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