episode3
アニメで一目惚れをした瞬間など、時間がとまり主人公に向かって風が吹く演出がある。目にみえない感情が揺れうごき、心境の変化がもたらされた瞬間を視聴者に伝わりやすくするための演出。
今まさに花瀬にそんな風が吹いた。一目惚れとは違うがそれと類似した衝撃が彼女の心をおおきく揺さぶった。あんなにも不機嫌な花瀬の表情が変わったのを菅原は見逃さなかった。上村はそれだけを言い残して科学準備室をあとにした。
花瀬は手に持っていたチラシをくしゃりと握る。それから天井を見上げて「はぁー…」と息を吐いた。人生経験の少ない菅原はこのときになんて声を掛けてやればいいのか分からず、目線を下げることしかできなかった。
「……むかつく」
脅迫じみた取引を持ちかけられ、あんなにも怒り心頭だったのに花瀬の口から出たのは『むかつく』の一言だけ。「え?」と菅原が反応した時にはすでに花瀬の足は動いていた。くしゃくしゃなチラシを菅原に押しあてて、上村のあとを追うように準備室を出ていく。すれ違いざまに見えた横顔はムードメーカーと呼ばれている陽気な性格の花瀬空からは想像もできない、悔しそうな表情をしていた。
菅原が教室に戻ると何事もなかったかのように友人の輪の中に花瀬の姿があった。「もうちょっとで取り消しにできそうだった。また再チャレンジする」と言って笑っている。花瀬は脅されたことを友人達には言いふらさなかった。あんなにも怒っていたにもかかわらず愚痴ひとつもこぼさない。
“日本一宇宙に近い場所からみる星空”
その言葉が彼女の心を揺さぶった。
それを言われたときの花瀬の衝撃を受けた顔が、菅原の脳裏にくっついたまま離れない。星が好き以上の特別な何かがあるような気がした。そのことが気になって仕方がない菅原は眉間にしわを寄せながらチラシを眺めていると。
「もしかして宗太、あの企画に参加するつもり?」
後ろの席に座る友人、
「やめとけやめとけ、宗太のようなひょろい身体じゃすぐに高山病になってリタイヤ。きっと六合目あたりでダウンだよ」
「馬鹿にするな。これでも最近は運動してるんだぞ」
「帰宅部がなに言ってるんだか。運動って言ってもどうせ流行りのスポーツゲームだろ?」
「うっ、まあそうだけど」
佐伯はバカにするように鼻で一笑し、メロンパンに食らいつく。さすがに頂上は無理でも七合目くらいまでは登れる気がする。菅原はそんな根拠のない自信だけは持っていた。
「というか登るなんて誰も言ってない。ただチラシを持っているだけだし」
「わかってるわかってる。それにしても校長もバカだよなあ」
佐伯はチラシを奪いとり、指でつまんでバカにするような目で眺めはじめる。
「この日程って夏期講習の初日なんだよな。富士山に登るとしても山小屋で一泊するらしいから最低でも二日は参加できないわけだ。知ってるか、夏期講習は初日が重要なんだってさ。途中参加しても追いつけやしないから諦めろって先輩が言ってた」
この学校が夏期講習に力を入れているのは知っていた。なぜなら五月である今から夏期講習のお知らせや申し込みが始まっているからだ。全教科の先生達が数日かけて面倒をみてくれるらしい。
「宗太の志望校、合格ラインギリギリなんだろ。だったらなおさら富士山なんか登ってる暇なんてないじゃんか。それに登り終えた後もインタビューやら広報記事の作成やら、色々なことに時間を取られること間違いなしだぞ。お互い大学に合格して九州旅行しようって約束したじゃんよ。慰安旅行なんてイヤだぜ」
「だから見ていただけだって」
企画に参加するつもりは毛頭ない。だけども花瀬のことで胸に引っかかっていることがあった。富士山よりも花瀬空という女の子の存在がこの企画から離れられない原因だった。
「それより帰りにゲームセンター寄ろうぜ。今度こそあの音ゲーをコンプしてやるんだ」
「ごめん、今日はやめとくよ」
「あらま珍しい。いつもは宗太から誘ってくるのに。どした、寄るところあるなら付き合うけど?」
「いや大丈夫。ちょっと先生に提出しなきゃならないものがあって」
放課後、菅原はもう一度科学準備室へ向かった。授業以外であまり生徒が通らないB棟の四階。渡り廊下には運動部が筋トレの場として使っていて彼らを横目に通り過ぎていく。科学準備室のドアが開いていた。室内をのぞき込むと珍しく眼鏡をかけた上村がノートパソコンに文字を入力している。キーボードの心地よい音だけが響いていた。
「遅刻なら取り消しにしないからな」
「的外れです。取り消しにしてほしくて来たわけじゃありません」
「冗談だ。今ちょっと手が離せなくてな、そこのソファにでも座っててくれ」
上村はキーボードを打ちながらそう述べた。言われたとおり菅原は科学準備室の端にある高級感を匂わせるソファに腰を落とした。案の定、雲にでも座ったようなふかふかな弾力でソファに体が飲み込まれていく感覚がした。
「それ凄いだろ。高級ホテルのフロントにあるソファに負けず劣らずの品物だ」
「こんなソファは初めて座りました。結構な値段するんじゃないんですか」
「三桁万円」
それを聞いて菅原は飛び起きた。科学準備室に置いてあるんだから一桁万円くらいだと思っていたが、遥かに超えた金額に鼓動が早くなる。
「だから言ったろ、高級ホテルのフロントにあるソファに負けず劣らずって」
「こ、ここ科学準備室ですよ!?」
「まあ
「気軽に三桁万円のソファに座れるほど度胸はありません」
「律儀だなぁお前は」
上村は眼鏡を外してイスごと振り返った。それで何の用だ、口にはしていないがそう言っているように感じた。
「あ、これ、昼休みに渡しそこねた遅刻届です」
「そういえば忘れてたな。こんなもの机に置いてくれれば良かったのに。まったく律儀な奴め」
「まあそうなんですけども……」
上村の言うとおりそうしようとも思ったが、直接渡したかったのには別の理由があった。
「なんだ、俺に言いたいことでもあるのか?」
菅原は覚悟を決めたように、唇に力を込めて顔を上げた。
「昼間、花瀬さんに言ったこと。あれは良くないと思います」
遅刻の取り消しを対価に無理やり企画に参加させようとしたこと。部外者のお前が口だすなとでも言われる覚悟はしていたが、「ほう」と感心したように口角をあげていた。
「あんな取引みたいなことして、先生、本当に仕事クビになってしまいますよ。まだ間に合います。きちんと花瀬さんに謝ってください」
「なあ菅原、俺が去った後にあいつは文句ひとつでも言ってたか?」
「文句というか一言だけ、『むかつく』って悔しそうに」
「悔しそうに、か」
それを聞いて教師はふっと軽く笑った。そして机に置いてある企画のチラシを眺めながら話を続けた。
「だったら大丈夫そうだ。菅原もそんなに心配しなくてもいい、あいつはこれでいいんだよ。まあすこし乱暴なやり方になってしまったことは反省している。不器用なもんでな俺は」
「……これでいいってどういうことですか?」
そう訊ねたが「それより菅原も富士山登ってみないか?」とはぐらかす。
「遠慮しておきます。志望校の大学もギリギリなんです。夏期講習も参加しなくちゃだし、そもそも登ることにメリットが感じられません」
「メリットがあるとすれば、登ることでお前も迷いが吹っ切れるんじゃないか?」
迷い。その言葉に菅原は顔をしかめる。
「それ。花瀬さんにも言ってましたけど、迷いがあるなんてインチキ占い師みたいなこと言わないでください。不愉快です。なんでも迷いがあるって言えば当たると思わないでくださいよ」
「これはお前と花瀬にしか言ってないさ。言っとくがこれでも俺はお前らの担任だ。進路相談を受ける身としてお前らのことを調べたりもしている。何に悩んでいるか、何に悩んでいたのか、とかもな」
全部知っているぞと言わんばかりの見透かされているような目に、菅原は耐えきれず目線を外した。これも適当なことを言ってるだけなんじゃないだろうか。そんな疑心を抱いてしまう。
「べつに僕は悩みなんて……」
ごにょごにょと口ごもる菅原に、上村はため息ともに立ち上がった。戸棚からマグカップを二つを取りだして珈琲を注ぎだす。芳しい香りが部屋に広がる。
「花瀬もそうだがお前らは自分に嘘をつきすぎだ。経験則から語るが迷いがあるまま踏み出してもこの先、色々なことが中途半端に終わるぞ。思いが強ければ強いほどにな」
菅原は胸が締めつけられるような感覚がした。
「迷いがあるならそれをきれいさっぱり洗い流してから進め。やらずに諦めたことは大人になると後悔に変わる。やりきってそれでもダメだったことは思い出に変わる。やらずに諦めた後悔は数十年経っても消えないんだよ」
遠回しに進路を見直せと言われているような気さえもした。菅原には思い当たる節があった。だから反論する言葉が見つからず黙り込んでいると。
「そこにいるんだろ花瀬」
「え?」
後ろを振り返るがそこには誰もいない。かと思いきや花瀬がドアからひょっこりと顔を出した。彼女は部屋には入らずに「しゅっ」と声をだして何やら物を放り投げた。それは菅原の頭上を浮遊する紙飛行機。ゆらゆらと風に乗ってナイスコントロールで上村の手元まで届いた。上村は黙って紙飛行機を広げてみると、その紙を見て「ふっ」と鼻で笑った。
「一名確保」
その紙飛行機は企画の申込書であった。
「どうして……?」
正直なところ菅原は彼女が参加するなんても思いもしなかった。だってあんなにも不機嫌そうだったのだから。花瀬はそれを提出しに来ただけで、菅原がふたたび後ろを振り返るもすでにその場にはいなかった。
「そんでお前はどうする?」
「どうするって僕は」
「残念なことに俺はお前の弱みを握ってないから無理やり登らせることはできないんだよなあ。それともお前も今回の遅刻を取り消しにしてほしいか? それこそお前にメリットはないだろうがな」
考えるもなにも登るつもりなんてない。登山だってしたことがないし時間を無駄に浪費するだけ。あり得ない。そう思っていたのに菅原は自身の心が揺らいでいることに気づいてしまった。
「あの先生、例えば僕に悩みがあったとして、富士山を登ってそれが解消されるんでしょうか。何か変わるんでしょうか?」
背中を押してくれるような言葉を期待していた菅原だったが、上村は「さあな」と素っ気なく答えた。
「変わるかもしれないし変わらないかもしれない。解消するかもしれないし解消しないかもしれない。その人次第だろう。ただひとつ確実に言えることは」
上村は壁に貼ってある富士山のポスターに目を向けた。
「きれいな景色がみえる」
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