ステラになれなかった彗星たち

にゃんこう

第一章 菅原 宗太

Prologue

 花瀬空はなせそらの瞳には果てしないほど遠くにある宇宙が映しだされていた。


 日本最高峰の山、富士山。花瀬空は標高2500mを越える富士山の七合目から夜空を見上げていた。山小屋の裏にある石階段をすこし登った先に巨大な岩石がある。そのうえで彼女はひとりで立っていた。


「花瀬さん?」


 そんな花瀬をトイレから戻る途中の菅原宗太すがわらそうたが偶然見つけた。

 七月だというのに夜になると一桁の気温へと変わる富士山七合目。季節感を無視した冷たい風が岩肌をでる。花瀬は人一倍に寒さを嫌う。そのため到底耐えられない環境であるはずなのに、彼女は肌着一枚とショートパンツの恰好でいた。


 どうしたんだろうか。彼女が向けている視線の先が気になった。菅原も同じように夜空へ顔を向けた――途端、菅原は大きく目をあけた。



     星  星        星

   星  星   星 星       星

     星     星     星


 頭上に広がっていたのは圧巻するほど美しいステラ。


 おおぐま座に北斗七星、アルタイル、デネブ、ベガで構成される夏の大三角形。きわめて目立つのがキャンバスにブラシで線を引いたような天の川。一等星から五等星の光の粒に意識がのみ込まれてしまいそうだった。


 その夜空にかれた花瀬は心ここにあらずといった感じだった。

 きっと人差し指で彼女の身体を弾けば流れるままに倒れてしまうだろう。この岩石で溢れる山道に強風が吹き荒れれば、彼女は紙飛行機のように飛ばされてしまうだろう。それくらい彼女は星空に夢中だった。


「…きれいだなぁ」


 誰に言うともなく呟かれたその言葉は、心の声が漏れてしまったように小さくて儚い声をしていた。花瀬はかかとを上げて背伸びをし、まるで星を掴もうとしているように右手を伸ばしていた。


 体を震わせるほどの冷たい風が吹いた。菅原は目をつぶって寒さを耐え抜くが、それでも彼女は微動だにせず煌めく星々から目を離さない。風のいたずらでヘソの形がくっきり見えてしまうほどシャツが捲れている。けれど今の彼女にとってそんなことはどうでもよかった。寒さどころか、恥じらいさえも宇宙に呑まれてしまっているのだろう。


 菅原はそんな彼女から目が離せなかった。夜空に煌めく星々よりも、日本一高い山から眺める夜景よりも、彼女の瞳が一番輝かしく奇麗に見えたからだ。


「道に迷ったら星空に聞け、か。花瀬さんは――」


 その言葉は彼女には届かず、風に溶けていった。



 高校三年生の夏、彼らは今後の人生を左右する大きな分岐点の前に立っていた。子供から大人へと進む路。進路。それを阻むのは迷いと後悔だった。

 

 富士山に登って人生が劇的に変わることはない。受験が成功するわけでも未来の不安が消えるわけでもなければ、夢を掴めるわけでも、勇気が湧いて出るわけでもない。


 それでも何かを変えたくて彼らはここにいる。

 富士山を登っている。

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