出会い

 妖怪達の追手から逃れ、一旦は危機を回避した俺だったのだが……

 起こるべくして起こった、別の問題を抱える事になった。


 食料の枯渇こかつだ。


 かなり節約してはいたのだが、それでも持ってあと二日だろう。

 こうなったらもう、前になぜか根拠の無い自信により安全と感じ、自らの体をもって食の安全性を確認した川魚で食いつなぐしかないか……



 根拠の無い自信と言えば、妖怪の鳴き声を聴いた時の<ゴブリン>という言葉のイメージや、<ホブゴブリン>とやらの特徴や弱点についてひらめいたあの感覚。

 その時の状況から考えて、この体の持ち主だった者の記憶か、または意識だと考えるのが最も適切であろう。


 しかもその情報の中で、明らかに間違っていたものは今の所一つも無い。

 魚が食べられると感じたのも、きっと過去にこの体で魚を食べていた経験があったからだろうし、ゴブリンやホブゴブリンというのも、あの怪物達の名前という事で相違ないだろう。


 ただ、こちらに来てからそういった不思議な出来事以外、違和感を感じなかったのは事実だ。

 だからこそ今まであまり意識する事は無かったのだが、今後はこちらの世界で生きてきた俺自身の事についても、ある程度知っておくべきとの認識を持つ事にした。


 しかし自分の意思でこちらの世界の知識を思いだそうとしても、それは全て徒労に終わっていた。今の所わかっているのは、イメージの形で提示される何らかの情報があるという事だけだ。


 今まで起きた事を思い出してみると、知識として覚えていて引き出せるというよりも、強烈な記憶や一連の行動パターンなんかを憶えているような印象がある。


 そういえば何かの本で、エピソード記憶なんて言葉を聞いたことがあるな……



 そんな事を考えながら歩いていると、少し離れた所から女性の悲鳴が聞こえてきた。歩くのを止めて聞き耳を立てると


「……誰か……誰かっ!」


 と叫んでいるようだった。


 不思議な事にその言葉は全く聞きなれないものであったはずなのだが、俺の脳はその言葉の意味を理解していた。

 声の調子から察するに、何か危機的な状況にあるのは確かだ。


 俺はなぜ言葉が理解できるのかという疑問もそっちのけで、声のするほうに向けて走り始めた。



 若い娘が後ろを振り返りながら走っている姿を見つけた。


 その後方には手に棒のようなものを持った妖怪が二匹。

 それらは先日遭遇したゴブリンとおぼしき妖怪だった。


 ざっと辺りを見回し他の仲間が居ない事を確認する。


 他には居ない。


 俺は木々に顔を引っ掻かれて血がにじむのも構わず、少しでも時間のロスをしないよう、とにかく最短コースを取った。


「ギャッギャー、ギャ!」


 間違いなく先日集団で俺を追いかけてきた連中だ。

 俺は妖怪が娘に追いつく前にその間に立ち塞がり、腰の剣を抜いた。


 やむなくターゲットを娘から俺に変更した彼らは、剣を構えた俺を警戒しているのか、その場で立ち止まってこちらの様子をうかがっていた。


 前回戦った大型の怪物……

 ホブゴブリンとおぼしき魔物に比べ、その体格は話にならないくらい貧弱だった。

 体長は人間の子供並みくらいしか無いだろう。


 ただ、ホブゴブリンの外皮の硬さは尋常じんじょうでなかった。

 目の前の妖怪にも油断は禁物だ。


 手に持った武器は、単なる棒切れに過ぎない。

 しかし念のためその武器を振り落とす目的で、前に出ているゴブリンに向かって踏み込み、その左手に向かって剣を斬り上げた。


「ギャァァァッ!!!」


 ゴブリンの左手があっけなく宙に飛んだ。

 ホブゴブリンの硬さは全くない。


 手が無くなった事による痛みのせいか、敵の動きが一瞬止まる。

 俺はその隙を見逃さずに右上に払った手首を返し、そのままゴブリンの首をねた。


 残ったゴブリンは仲間の死に恐れをなしたのか、背を向けて逃げ出そうとする。


 人を狙って襲ってくるような生物だ。

 ここでやらなければまた誰かを襲うだろう。


 直後、怪物は俺の剣によって、そのまま背中から刺し貫かれ絶命した。


 あのやたらと硬かったホブゴブリンとは見た目の雰囲気や名前が似ていたため一応警戒はしていたのだが、戦いはあっけなく終了となった。



「あ、あ、あのっ」



 娘から声が掛かる。


「ほ、本当にありがとうございました! まさかこんな所にゴブリンが出るなんて……」


 やはり聞きなれない発音だ。

 だが意味はわかる。


 ずっと懸念していたこの世界の住人との意思疎通の問題は、どうやらこの時点をもって解決したようだ。


 そしてこの娘もこの妖怪の事は「ゴブリン」の名で認識していた。

 これで俺の頭に浮かぶイメージが、正しいものだという更なる確証が得られた。

 やはり人との交流によってもたらされる情報は非常に有用だ。


 娘を見ると、こういった事にはあまり慣れていないのか、または俺に対して警戒しているのか、まだ少し表情がこわばっていた。


 俺は怖がらせないよう、精一杯丁寧に声を掛けた。


「普段は出ないのですか?」

「はい。出るとしてもここから2つ向こうの山あたりまで行かないと滅多に出ないんです。私もこんな間近でゴブリンを見たのは初めてです……」


 会話をして無害な人間だと判断されたのか、娘の表情は和らいでいた。

 着ているものはお世辞にも上等と言えるものではなかったが、清潔感のある、とても素朴で綺麗な娘だ。


 それにしてもゴブリンがそれ程ありふれた存在ではないという事が気になった。

 俺は先日このゴブリンの集団に遭遇しているし、それ以外でもホブゴブリンなどという厄介な敵とも、同日に戦っている。

 運が悪かったのだろうか?


 そう思い、ふとゴブリンの死体に視線を移した。


「!?」


 なんと死体は俺が見ている間に、いくらか煙を出しながら急速にしぼんで……


 いや、例えるならば、生き物の分解を動画で撮影して、それを早送りで見ているような光景だった。


 しかし腐敗臭などは一切無い。

 また燃焼によって有機物が炭化や酸化をしているわけでもない。

 ゴブリンは身にまとっていたボロ布や骨、歯、毛や爪などを残し、あっという間に土に還っていった。


 俺が驚く様子を見て、娘もまた小首を傾げながら驚いていた。


「ベテランの剣士さんのようですのに、魔物の遺体が消えていくのがそれほど珍しいのですか?」


 あせる。

 娘の話しぶりからすると、これはこの世界の常識のようだ。


(なんていう世界だ……)


 しかし思い返してみればホブゴブリンとの戦いで剣に付いた血を落ち葉でぬぐった後、拭き残しの血が鞘に収めている間に綺麗さっぱり無くなっていた事があった。

 ただその時は血が乾いて剥がれ落ちたのだろうくらいにしか思わず、その後その事自体も忘れていた。


 俺は咄嗟とっさに答える。


「いえ、実はですね……わたしは何かの原因でほとんどの記憶を失くしてしまったようでして……」


 もうこれは何か言い訳を考えて嘘で塗り固めるよりも、現状に最も近い状況を伝えたほうが正解だ。

 嘘で塗り固めようとしても、この世界の常識を知らない以上、もっともらしい嘘など考えられるわけがないからだ。


 しかも記憶を失くしたというのは半分程度は真実である。

 何しろこの体の持ち主の記憶は、自分の意志では引き出せないのだから。


 俺の身の上話を聞いた娘は、心から心配してくれたようだ。


「まぁ、それは本当にお気の毒です……お名前なんかもお忘れになってらっしゃるのですか?」


 今まで全く意識をしておらず、かつ非常に重大な質問が来てしまった。





 俺は一体何者なのだ!?





 俺が自分の名前だと認識している日本名の「こうや」が通用するのかわからない。

 またその言葉が、こちらでは忌み嫌われるような意味を持っているのでは、という不安もある。

 そんな不安を感じたのがきっかけだったのか、俺の頭に


<ヒース>


というおんが思い浮かんだ。


 今までの経験からして、これが俺の名前なのだろう。


「ヒースです……と言っても、これが本当に自分の名なのかは自信は無いのですが……」

「ヒース様……改めてありがとうございました! 私はベァナと申します」


 娘はそう言って頭を下げる。


 俺が言った名は特に何も問題なかったようだ。

 しかし、俺に対して『様』を付ける理由は何なのだろう。


 娘が礼儀正しいだけなのか。

 それとも帯刀が侍のみに許されている特権、というような制度でもあるのか。

 おりを見て聞いてみる必要があるかも知れない。


「ヒース様、もしよろしければですが……私の村までご一緒していただけませんでしょうか?」


 娘は不安そうにこちらを見て続けた。


「このまま一人で村に帰るのは心細いですし……何も無い村ですが、何かお礼を差し上げたいと思いまして」

「私はこのあたりの事すら全く記憶にないのです。こちらこそ是非、案内していただけると助かります」

「はい! でもその前に……」


 娘はおもむろにポケットの中から草の葉のようなものを掴んで取り出し、俺の頬の近くにその手を近づけてきた。

 一瞬ひるみそうになったが、目の前でゴブリンを叩き切った俺に向かって何か悪さをするはずも無かろう。

 しばらくその様子を見る事にした。


 すると……


「ほらここ。ほっぺが何かで引っ掻かれたみたいに血がにじんでいますよ?」


 ああ。

 ここに来る途中で道を辿たどる時間が惜しくなり、山の斜面を駆け下りた時に小枝で引っかかって出来た傷か。


 多分傷に良く効く薬草か何かなのだろう。

 準備も良いし、とても優しい娘だ。


 そう思っていた俺に、本日何度目かのサプライズが訪れた。

 俺の左頬に近づけられた彼女の右手に……



 なんと、淡い小さな光の粒が集まり始めた!



 辺りをよく見てみると空中や地面、俺たちのすぐ周りのあらゆるところから、とてもほのかな、細かい粒のような光が彼女の右手に向かって集まろうとしていた。



 えっと……



(どうなってるんだ!?)




 そして再び驚きの目を見せた俺に対して、目の前に居た彼女は満面の笑みを浮かべてこう言った。



「あまりすごい魔法じゃないんですけどね。これはとても人の役に立つ魔法なので、私の一番の自慢なんですよ!」




 いやいやいや!


 魔法を使えるだけでとんでもない事では!?

 もっと胸を張って自慢していいと思うよ!!




 ……ここが異世界だったという事を失念していた俺は、危うくツッコミを入れる寸前で思い留まった。




 ボケとツッコミなんて概念は、きっとここには……無い。

 そして多分魔法の存在を知っている事こそが、この世界の常識なのだろう。





 この世界では間違いなく、ボケているのは俺のほうに違いないのだ。






    ◆  ◇  ◇






<医学>

 厳しい石器時代の中にあっても、我々の祖先は助け合って暮らしていたという研究結果がある。例えばイラク北部のシャニダール遺跡(6万5000年前~3万5000年前頃)から発掘された複数の遺骨には、体が不自由だったり大けがをしていた痕跡が見つかったが、彼らはネアンデルタール人の平均寿命(40才までに8割が死亡)よりもむしろ長生きで、中には50歳近くまで生きた者もいたらしい。けがには治癒痕が見られ、けが治るまで仲間たちが面倒を見てくれていたとみられている。

 史実として医師が登場するのはメソポタミアで、紀元前2700年頃に漢方薬について執筆した「ルル」という人物が知られている。またエジプトでは紀元前2600年~前2100年頃の墓石の銘文にも複数の医師の名が登場している。そしてパピルスが登場すると、エジプトの医学は飛躍的に進歩を遂げるのである。

 近代西洋医学の基礎が興ったのは、エジプトの医学から多大な影響を受けたギリシアであった。その中でも紀元前460年頃~前370年頃に活躍したヒポクラテスは、患者を入念に観察した上で最適な治療法を選択するという、科学的な医療を始めた最初の人物であると言われている。また治療よりも予防、健康な体を保つためには運動が大切であるという現代でも十分通用する考えを、既にその当時に持っていた。

 また彼は報酬の伴わない、貧しい人々への医療行為の重要性を説いた人物でもあった。

 この「ヒポクラテスの誓い」の精神は現代医学にまで連綿と受け継がれ、そうした数々の事から彼は「医学の父」「疫学の祖」「医聖」「医王」等と呼ばれている。


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