闇と闇と病を見る子供

 闇は誰にも味方しない。敵を隠して素知らぬふりだ。

 境内には、年末の餅つき大会について話があると呼び出された二十人以上の近隣住民たちが、寒さを紛らわそうと体を揺さぶっている。


 探偵は少し離れた大木の影に、外事情報部員はさらに外側に潜んでいる。ユリは神社の入口の階段の下付近に隠れ、エリは大木に登っている。


 小高い丘の上にあるこの神社は、周囲をぐるりと木々が囲み、月光以外に灯りはない。


 場を支配しているのは何か。闇に潜む者は常にそれを正確に捉え、それを利用することで、自らの意志を隠したまま事を成す。場に存在する人間が多種大勢であればあるほど、状況が複雑であればあるほど、案外やりやすくなる。


 残念ながら、今夜はあまりにも単純な場である。


 集められた羊たち、現れない狼、潜む番犬たち、静寂の中にあるのは執念だけだ。


 20年前、探偵と相棒は裏切られた。


 公私を問わず、日本国と日本国民のもつ機密事項を外国のスパイに盗まれそうになったとき、それが彼らの出番だが、敵の手は味方を冒していたのだ。


 任務の標的は会社勤めの一般人だった。その男は会社から厚遇を受けるほどの成果を出していたが、金遣いが荒くて給料日前は決まって財布は空っぽ。もともと地味な容姿に着飾ることも知らず、女っ気は皆無。酒を飲むと自棄になることがあり、友人も少ない。私生活に華が咲く気配はなかった。

 外国という新天地——人生をやり直すきっかけを餌に、異国のスパイは釣りをしたのだ。飢えた男は迷うことなく跳び付き、研究結果をまとめた書類を鞄に詰め込んだ。


 警察は、スパイ行為を取り締まることができないので、別の容疑——最悪の場合、でっちあげたこと――で逮捕するしかないが、企業が窃盗の被害届を出せば直接盗んだ者だけは出国を阻むことができる。


 そのときは、標的の素行がだんだん悪くなることを企業が地元の警察署に相談していた。スパイの接近を勘ぐったベテラン警部から連絡を受けて男を監視していたので、あとは決定的な瞬間に捕まえるだけだった。


 スパイと男は小型ボートで出国するため、夜に港に現れた。そこに待ち伏せていたのが今日の探偵とかつての相棒だった。同僚たちが応援に駆け付けるまでは逮捕に踏み切らない手筈だったが、標的はボートには乗らず、タクシーに乗って空港に移動した。


 食事をしたのち空港の外に出て、人通りの少ない物陰に入っていった。


 応援を待つべきか、今すぐ逮捕するべきか意見が割れ、とりあえず探偵たちが後を追うと、そこに現れたのは当時のコウちゃん――探偵たちの上司——だった。

 彼はすでに真っ直ぐ銃を構えており、迷わず撃った。被弾した相棒はその場に崩れ、探偵は現実味のない光景に圧倒されて反応できなかった。その顔を見た上司は歪んだ笑みを残してスパイと二人で走り去った。


――油断したな。


 天から言われた気がした。撃たれていないのに衝撃で体が動かない。


 一人になってすぐ、虫の息の相棒を抱き上げ、震える指を手首にあてて脈を感じないことを確認した。おもむろに立ち上がり、二人の後を追ってみたが、探偵が見つけたのは雑草の中に横たわった企業勤めの男の死体だけだった。その間に相棒は大きな血痕を残して消えていた。


 上司は国を捨て相棒は死んだ。大きな信頼を置いていた二人を失った虚無感は、強靭な意志をもってしても、なかなか消えず、警察官を辞めて部屋に籠り、冬眠中の熊さながらに廃人となった。


 そんなときに生まれたのがエリとユリだ。


 探偵は、初めのうちは相棒の忘れ形見である双子と会うことができなかった。そこで、彼女らの母親は部屋を訪ねて無理矢理押し入った。


「あんた、死んでないじゃない。まだ出来ることあるんでしょ」


 その腕の中で双子が笑った。


――腕や足の一本くらいを失おうとも、生きることを諦めなければ、必ず好機はやってくる。


 これから始まる命を前に、訓練生時代に叩き込まれた言葉を思い出しながら、探偵は立ち上がった。


 脳裏に残っていたスパイの言葉は英国訛りだった。すぐに日本を出て、世界中の主要都市を歩き回った。香港、シドニー、ニューデリー、、、こんなことで見つけられるとは思わないが、じっとしていると自責の念に押しつぶされそうになる。酒を煽って自棄を起こしそうになったことが何度あったか知れない。


 日本には年に数度帰った。双子の成長を見守ることと、コウちゃんと情報交換することが目的だ。幸い、日本国は国際的な信頼を年々獲得していったことにより、外国の諜報機関からの情報も少しづつ入った。


 一人では何もできなかったが、二十年追いかけてきた男がもうじき現れる。平静を装っているが、まだかまだかと探偵の心は騒いでいた。


 境内の人影は曖昧に分れて四つ五つの塊となっている。

 ユリは階段を上っていく男の姿を認め、懐中電灯でエリに合図を送った。木の上のエリは枝を落として探偵に知らせた。


 新たに現れた男が静かに群れに加わってまもなく、誰かが軽く咳き込んだかと思うと、数秒後には住民たち全員が口元を押さえて怪訝そうな声を漏らした。風上でコウちゃんたちが稲わらを焼いており、その煙に包まれたのだ。


 境内の視界が一層悪くなる。近隣住民たちは不自然な野焼きを火事だと勘違いし、慌てる者も出始めた。


 嫌気が差した者が境内をあとにしようと石段の方へと歩き出すと、皆それに続いた。

 石段の手前で探偵が両手を広げて行く手を阻むので、住民たちは戸惑いながら立ち止まり、それでも後ろから押されて、探偵の脇を抜けて下りて行った、三人を除いて。


「何か御用かな」


 ニットを被った翁は不機嫌そうな表情をしているが努めて柔らかい口調で言った。


「お取込み中申し訳ない」


 薄毛の翁は、帰りを促すようにニットの翁の肩を押した。


「見覚えが無いが、どこかで会ったかな」


 白々しいことを言いながら、相手が警察であり、自分を逮捕しに来たことは分かっていた。


「下手な芝居はなしだ、ロバート・ウォルス。ボブと呼んだ方がいいかな」


 ロバートは軽く両の掌を見せるようにして、ご自由にと答えた。カラーコンタクト、自然にぼかした唇、体格をぼかすために部位ごとに厚さを調整された衣服、素人目には日本人にしか見えない。


「お前も待ってもらおうか」


 ニットの翁は立ち止まり、沈黙が続いた。それは近隣住民たちが十分に離れるのを待ったからだ。


「ずっと探している男がいるんだ。知らないか」

「誰のことかな。あんたのことも知らないんだが」


 ロバートの言葉に探偵は微かに笑った。


――変装は見た目だけ、その程度か。日本人の話し方じゃないんだよ。


「私によく似た男を知らないかな、左耳にほくろがあるのが特徴なんだが」

「さあ、そんなこと」


 ニットの男が探偵の左を通り過ぎようとすると、探偵はその左腕を掴んだ。


 男はその反動で振り向きながら探偵の側頭部に殴りかかった。探偵は軽くのけ反って躱し、その手首を右手で掴んでそのまま押し退けた。男は尻もちをついた。


「そこまでだ」


 ロバートは消音装置付き拳銃で探偵の太股を撃った。


「お前はちゃんと持ってきたのか?」


 立ち上がって尻をはたきながらニットの男が言った。


「歳は取りたくないものですね、ボス」

「まだボスと呼んでくれるのかい。嬉しくて泣けてくるよ」


 ニットの男も拳銃を構えた。ひざまずいた探偵は下から睨んで離さない。


「教えろ、なぜ裏切った」

「ふん、そんなことのためにこの二十年間生きてきたのか。裏切ったのではない、”予定通り”だ」


 戦後まもなくに生まれたニットの男は、幼いころに父親を亡くした。


「十五の歳には母が過労で倒れて、ワシが働かなきゃならなかった。兄弟はいないが、薬代も食費も頼れるあてが無くてな。子供だから給料が安く、昼も夜も働いた。ある日、居酒屋で手伝いをさせてもらっているときに、米兵がやって来て、つい聞いちまったんだ。あいつらはまだ日本がGHQの占領下だったころに、どんな酷いことをしたかを楽し気に自慢し合っていたのさ。帰って母に、父が死んだ理由を訊いても何も答えない。もしかしてと思って、米兵にやられたのかって言ったら、否定しやがらねえ、顔を背けて泣いてしまったよ」


 その後、米兵が駐留基地近辺で日本人に対して起こした事件を知るたびに憤り、自国民を守ろうとしない日本政府に苛立ちを覚えた。そしてあるとき、閃いた。こんな国があるのがおかしいんだ。いっそのこと無くなればいい。俺が壊せばいい、、、


「あいつの子供がもうすぐ生まれるって時に、八つ当たりで殺したとでも言うつもりか」


 ニットの男は薄い歯ぎしりをしながら睨むように目を大きくした。


「俺にも少しくらい慈悲がある。双子じゃなかったら独身のお前のほうを殺したさ。見分けがつかなかったんだ、悪く思うな。そもそもお前たちなど眼中にない」


 事件の後、男は情報だけを流出させて国内に留まり、無垢の一般市民の人生を乗っ取って工作活動を始めた。”友好国”などというものは日向での話で、闇の中に存在するのは標的である”日本”と”それ以外”だけだ。いくらでも協力者は集まり、互いに利用し合って日本の足を引っ張った。


「この国の成長は著しかったが、上手くいった。経済成長が頭打ちしてからこれまで、どれほど新しい技術が生まれて、生活様式が変わり続けたことか。その過程はまさに成長の好機だったはずなのに、大部分の利益は国外に流れ続けた。どれほど努力してもこの国の血肉にはならない。他の国がどんどん山を登る中、ランニングマシンの上の日本は決して前進することはない」


 探偵はゆっくりと瞬きをした。


「そのためにあいつは殺されたのか」

「誰のことかな。殺し過ぎて覚えてないんだよ」


 男は、これで打ったと言わんばかりに銃を振ってみせた。


「こちらが質問をする番だ。全て答えてもらうぞ」


 銃を構え直しながら、ロバートが低い声で言った。


「今日、初めに尾行した若い女は何者だ。どこで、どんな訓練を積んだ。他に何人いる。具体的に話せ」

「私の部下。数字を使ったパズルと鬼ごっこ」

「ふざけるな」


 ロバートは探偵の余裕そうな表情に声を荒げそうになったが、堪えた。しかし、ニットの男の欠伸に苛立ち、一瞬集中が緩んだ。隙を逃さず、探偵はロバートに向かって叫んだ。


「だっ」


 ロバートは一歩後退り、背中に固い物を感じた。

 拳銃を握っていたニットの翁の手が吹き飛び、血飛沫を上げた。


「話が長いのは変わりませんね」


 ロバートの背後にはもう一人の協力者がいるが、その声に聞き覚えは無かった。探偵が現れるまでは。


「まさか」


 探偵は驚いて言葉が詰まった。翁だった男は帽子とかつらを取り捨て、拳銃を持ったまま手の甲で顔を強く擦ると皺が薄くなって少し若返り、右目を瞑ってみせた。


「ボス、今日はちゃんと持ってきましたよ。もちろん二人分」


 男は探偵に拳銃を投げた。探偵が構えても、ニットの翁はうずくまっていて気付かない。


「シッ、二重スパイか」

「ジャックの忠告を聞かないからさ」

「ジャック、嘘だろ」

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