第3話 再生の始まり

 真守まもるが涙をぬぐい、夕飯もひと段落したころ、手早く洗い物を済ませた母は麦茶のグラスを手に口を開く。ここ最近見ることが無かった優しい表情をしていた。


「今日ね、真理まり姉ちゃんが家に来てくれたの」


 母は3人姉妹の末っ子で、真理伯母おばさんは長女だ。男の子が生まれなかった母の実家は、真理伯母さんが婿むこ養子を迎えて稼業かぎょうを継いでいる。


 ちなみに次女は旦那さんの仕事の都合で、遠くで暮らしている。


 まだ悲しみの沼からい上がれない母に、真理伯母さんは言ったそうだ。


「子どもをうしなう辛さは想像してもしきれない。私にも子どもがいるから、死んじゃうなんて想像しただけで気がおかしくなりそう。だからあんたがこんなになってるのは当たり前。でもね、あんたたちにとっては真守くんも息子なんだよ。今真守くんはどうしてるの?」


 拓真たくまの死ばかりに意識が行っていた母は、そこではっと真守の存在をあらためて思い出したのだそうだ。


「私の、私たちの子どもは拓真だけじゃ無い。真守がいるんだって。お姉ちゃんはそう言い聞かせてくれたわ。拓真のことで悲しむのは当然だ。けどそれは真守だって同じだって。親のお父さんと私が守ってやらなくてどうするんだって」


 毎日顔を合わせていた。必要最低限になってしまっていたが会話だってあった。


 真守は変わらず生きている、母はそれに甘えて、真守の扱いをおろそかにしてしまっていることをつくづく思い知ったのだ。


 母が穏やかにそう言うと、父は愕然がくぜんとした顔になり「そうだ……」と漏らす。


「そうだよな。私も拓真のことで悲しくて、それで沈む母さんを見るのが辛くて。でも真守があまりにも淡々と過ごしているから、大丈夫だって思い込んで……いや、そう思いたかったんだな。自分の傷を少しでも広げたく無かったんだ。真守だってしんどかったよな。ただ傷が深すぎて悲しみを表に出せなかっただけなんだよな。さっき真守が泣いたのは、そういうことなんだよな」


 真守は急に恥ずかしくなって、もう乾いているれぼったい赤い目をこする。


 親の前であんなに泣くなんて。必要なことだったのだと思うが、それと羞恥しゅうちは別だ。


「忘れてくれ……」


 真守は言ってテーブルに突っ伏した。それに父と母は「はは」「ふふ」と小さく笑う。


「私たちが真守を存分に泣かせてあげなきゃいけなかったのね。でも私たちもすっかり余裕を無くしてしまって、真守の親だってことを忘れてしまっていたのね。本当に母親失格だわ」


「私も父親失格だな」


 ふたりは言って、苦笑する顔を見合わせた。


「真守、本当にごめんなさいね。拓真のことはもちろんまだ悲しいわ。でもいつまでもこのままでいるのは良く無いことだと思うの」


「そうだな。私もそう思うよ。拓真は明るい子だったから、こんな私たちを見てもきっと喜ばないと思う」


「以前の様にはまだ難しいかも知れないけど、拓真の死をきちんと受け止めて、その上で私たち家族は立ち直らなきゃいけないと思うの。真守、まだ辛いと思う。でも少しずつでも良いから笑顔を取り戻して行きましょう。それがきっと拓真のためにもなると思うの」


 真守は思い切り泣けたことで、少しだが吹っ切れた様な気がしていて、だから父と母の言うことが良く解った。


 息をして生きているのに死んでいる様な、そんな地獄から抜け出さなくてはならない。


 父も母も真守もまだまだこれからなのだ。未来があるのだ。拓真の死を抱えつつも乗り越えて前を向かなくては。


「俺さ、やっと泣けて、拓真のこと受け入れられた様な気がしてる。今まで泣けなくて、俺おかしいのかなって思ってた」


「そうじゃ無いわ真守。私たちがあなたを泣かせてあげることができなかったから」


「そうだぞ。お前はそれだけ辛かっただけなんだ」


「確かに泣く余裕すら無かったと思う。でも心が硬くなってたのもあると思う。でも、多分だけど、もう大丈夫だと思う。そりゃあさ、前みたいになるのはまだ掛かると思うけど、テレビ見て笑ったり、ゲームしたりさ、日常に戻らなきゃな」


「そうね。私もお家を綺麗にして、また美味しいご飯を作るわ。今までの分を取り戻さなきゃね。すっかりかたよっちゃったから、ちゃんと身体を整えてもらわなきゃ」


「私もちゃんと仕事をしないとな。真守の大学もあるし、もし真守が就活に失敗したらそれからも養ってかなきゃならないからな」


「縁起でも無いこと言うなよ父さん」


 真守が苦笑いをすると、母は「ふふ」と小さく笑い、「あ、そうだわ」と思い出した様に手をぽんと打った。


「真理姉ちゃんね、ケーキ持って来てくれたのよ。皆で食べてって。拓真にも」


 そう言って席を立つ。


「トマリのケーキ?」


「そうよ。真理姉ちゃんね、月に1度は必ず買いに行く私がすっかり来なくなったから、心配になったんですって。状況が状況だししばらくは様子を見ようと思ってくれてたみたいなんだけど、さすがにごうを煮やしたって。お姉ちゃん短気だから」


「短気でも半年待ってくれたんだな。義姉ねえさんには感謝だな。よし、じゃあ私がコーヒーをれよう」


 父も言って立ち上がる。


 母の実家は洋菓子店なのだ。ケーキの様な生菓子や、クッキーなどの焼き菓子を作って販売している。


 母の両親、真守の祖父母が始めたお店だった。真理伯母さんはあとを継ぐために、洋菓子職人の旦那さんを捕まえて婿養子に入ってもらったのだ。


 当の真理伯母さんも、製菓専門学校に通い、製菓衛生師を取得したパティシエだ。


 祖父母が店を立ち上げた時の店名は「とまり洋菓子店」だったが、真理伯母さんの結婚を機に時代に沿って店舗をリニューアルし、店名も「パティスリー・トマリ」に変わった。


「じゃあ皿とフォーク出すね」


 真守も言って食器棚に向かう。ケーキ皿とケーキ用の小さなフォークを出してテーブルに戻ると、母がトマリのロゴが印刷されたケーキ箱を開けていた。


 出て来たのは父が好きなモンブラン、母が好きなショートケーキ、真守が好きなレアチーズケーキ、そして拓真が好きなザッハトルテだった。


「拓真にお供えして来るわね」


 母が和室の仏前にお供えしている間に、真守が自分たちのケーキをお皿に移した。


 そうしているとコーヒーの香ばしい香りがふわりと漂う。インスタントだが家族の好みのものを買っている。


 父がそれぞれお気に入りのマグカップに入れたコーヒーを運んでくれるころには、ケーキがテーブルに並べられ、母も戻って来た。


「じゃあいただきましょう」


 3人はまた「いただきます」と手を合わせ、真守はレアチーズケーキにフォークを入れる。


 しっとりと柔らかなそれを口に運ぶと、なめらかな舌触りとほのかな酸味、爽やかな甘みが口に広がる。


 クリームチーズを裏ごしし、加えられているレモン果汁もこして種や粒を取り除いている。


 グラニュー糖もざらつきを無くすために丹念にすり混ぜる。作り方を聞いた時にはその丁寧さに感心したものだった。


 フィリングはタルト生地に流し込まれていて、バターをたっぷり使った香ばしいタルトと合わさって、満足度の高い一品だ。


「やっぱりトマリのケーキ美味しいね」


 真守はふわりと表情を綻ばす。父と母も嬉しそうに顔を緩ませていた。


「本当ねぇ。久しぶりに食べたけど、やっぱり美味しいわ。また買って来なくちゃね。次は何にしようかしら。季節の果物のロールケーキも美味しいわよね。今は初春だから苺とかかしら」


「母さんと俺にとっちゃ、ちっちゃい頃から慣れ親しんだ味だもんな」


「私は母さんと一緒になるまでそうケーキとか食べなかったからな。私も似た様なものだよ」


「他のお店のケーキもいろいろ食べてみたけど、やっぱり実家の味に戻っちゃうのよねぇ。あとで拓真のザッハトルテもいただきましょうね」


「そんなに早く下げて良いの?」


「良いの良いの。拓真のことだから、あっという間にぺろっと食べちゃうわよ」


 母はそう言っておかしそうに笑った。


「そうだな」


 父も言って微笑む。真守はそんな両親に嬉しくなって目尻を下げる。


 弓削ゆげ家再生の始まりだった。まだ完全には程遠い。傷はまだんでいる。だがこうした小さな笑顔のひとつひとつがそれを埋めて行く。


 完全に塞がるまでどれだけ掛かるか判らないし、もしかしたら一生じくじくしたままかも知れない。それでも癒されるために生きて行くのだ。

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