第4話 朝霧の庭
内向的な父とは逆に母は友達が多かったそうです。だから、定期的に別邸で母を慕う人達が集まり宴を開くのはよく見かける事でした。私たちは母によく似ているので、母を慕う人はみんな私たちを見てきます。
「まぁ、まぁ! とってもよく似ているわ!」
「双子でもこんなに可愛らしいのなら、お父様もさぞお喜びでしょうね」
「はい! お父様はとても優しくしてくださいます! この髪飾りも、あたしたちが勉強をがんばったご褒美だそうです!」
「そうなの!? まぁ、とても似合っていますわ! 嶺ちゃんはつけていないの?」
「……私は」
「嶺も持っているんですよ! でも、嶺ってば折角の宴なのにいつものままなんて!」
雛はそう言って、人の輪に入っていく。
(雛に任せよう)
私は宴を抜け出して、庭に出ることにしました。月明かりに照らされて、浮島のある庭にやってきた。宴の会場とは少し離れているから、人の声はあまり聞こえない。宴が終わるまで、浮島の中央にある椅子に座ってやり過ごそう。
先客がおりました。しかも、すやすやと眠っているではありませんか。自分とそう変わらない歳の青年です。
(お客様なのに、変な人)
その人が天才と呼ばれる方だと知ったのは程なくしての事でした。
客間は一人一つ与えられ、羽は久々に見知らぬ天井で目覚めた。身を起こすと、やわらかな絹の衣。空気を吸い込むと、冷たく鋭い味がする。目をこすって、周りを窺うと、まだまだ日は山の向こうのようだ。
「朝の練習をしなきゃな。今日は何にしよう、笛かな……」
うつらうつら。夢うつつの中で、羽は持ち込んできた荷物の中から、笛を入れた布袋を取り出した。少し寒いので、寝巻の上からもう一枚羽織る。実家なら、そのまま台所に行って、湯でも沸かせるけれど、他人の家で好き勝手することははばかれる。
家の形はよく分からないけれど、笛の練習にはうってつけの場所はもう見つけてある。
「うわぁ……鏡が沈んでいるようだ」
向かったのは、館に包まれるように作られた巨大な池。都でも人口の池はいくつもあるけれど、これは自然にできたものだと分かるほど、曲線が目立つものだった。大岩には苔が張り付き、池同士を繋ぐ赤い橋は今はその鮮やかさを霧に濡らしている。
沈んだ雲のような霧は、羽が歩を進めるたびにかき混ぜられ、次第に消えていく。
「やっぱり、温石でも作ればよかった。指動くかな」
はぁ、と手に息を吐きかけ羽は歩いていく。少し湿っただけの手はその先から冷たくなっていく。池の中央にある長椅子に腰かける。そのままだときの冷たさが直に来るので、肩にかけていた衣を敷く。
何度か指を温め、羽は笛を構えた。
つぃ、つぃ。
(………届かないな)
どうやっても、あの音には届かない気がする。楽器の質は悪くないはずだ。それだけじゃない、この音もどこか浮ついて本来の音ではないような気がした。
(…………だめだ)
本当の楽士になるのだと、決めたじゃないか。そして、その足掛かりはすでにできているはず、だ。宴に出て、殿中曲を奏で、そして子牙を送り出すことができた。
(でも、何かが足りない)
あれから、何度指南書を読み込んだだろう。弟子達や他の楽士の宴で研究しただろう。それなのに、心のどこかでまだだ、と誰かが叫んでいる。
いけない、と羽は頭を振る。せっかくこんな幻想的な景色の中で吹けるのだ。都にいたら騒がしく、こんな風景はないだろう。
「そうだなぁ……曲を変えるか」
落ち込んでいては、良い音は出せない。それは至極当たり前のことだ。どの曲にしようかと思案していると、人影が近づいてきた。
「御曹司、こんな朝早くから稽古とは、せいが出ますね」
「嶺さん!?」
「そんなに驚くことではないでしょう。私も日中はいないとはいえ、きちんと家にいるのですから」
「画題探し、難航しているんですか?」
「………そう、ですね」
羽が長椅子をすすめると、嶺はぺこりと頭を下げ横に座った。
「いつもそうなのです。私にはどうも、華やかな絵は苦手なようです」
「雛さんとは合作をしないのですか?」
「いつもしていますよ。あの子と私で、二人で伯燕なのですから」
「策叔父上の所には――――」
「まだ戻りません。この依頼が終わるまでは、絶対に」
強情な、と言いたかったけれど口をつぐんだ。景色のせいか、嶺の気配が薄く感じられたからだ。このまま霧に溶けてしまいそうに、彼女の気配は日に日に削れていくような気がした。
「まるで、あの人と初めて会った日のようです」
「?」
「あの人はいつもここに座って笛を吹いていました。ここが一番音がよく聞こえると言って」
「それは分かります。かすかに聞こえる水の音が心地いいです」
そうでしょう、と嶺がくすくすと笑う。
「あの人が曹家に来た日もそうでした」
「………」
そうだ。策は嶺の家、つまりは曹家に半ば隠れるように移り住んだのだ。おそらく二つ名を得た後、あの事件が起こり、家を追われて。
「曹家としては彼が陛下から命じられた物の成果を知りたかったようです」
「殿中曲、ですね」
「はい」
殿中曲はその当時の技術の髄を集める、それと同時にその当時の皇帝の趣味なども反映される。刻一刻と移り行く歴史を記していくことを使命に帯びている曹家にとって殿中曲はこの上ない史料だろう。
「ですが、あの人は……」
「おーい! 羽! 朝ごはんにしよう! 姉上もお早く!」
嶺の言葉はにこにこと駆け寄ってくる淳によってかき消された。なんとなく重要なことを聞き逃したような気がしたので、羽はちょっとだけ幼馴染を小突いた。
「………」
羽はその日、午後の稽古を早めに切り上げると、書庫に籠った。古い楽譜がいくつも転がっているのを見つけたからだ。たいていの楽譜は実家にもあるけれど、ここにあるものは昔の二つ名の私物であったり、作曲家たちの習作と言ったりする手合いが多い。
そこで、正式な楽譜ではないけれど、何かの手掛かりになると思った。その上、楽譜に書き込みをしている物であれば、細かな差異も気づけると思った。
(多分、俺の知っている楽譜と本来の音は違うんじゃないか?)
羽の体には周家の音が染みついている。けれど、策の笛、澄の二胡、そして子牙の馬頭琴を聴くうちに、別の音があるのではないかと考え始めた。
だからと言って手がかりもなく探すことはできなかった。時代とともに好まれる音が違うのなら、古い楽譜にこそ本来の音があるのではないか、それならば書庫を調べるのが手っ取り早い。
「とはいっても、古い楽譜はそれこそ書き方が違うからな……」
楽譜の書き方は時代によって異なり、今現在使われている書き方はほんの100年ほど前にできた。羽が奏でてきた古い曲はすべて周家が音で聴き、そしてまとめたものだ。
「読み方は福大叔父上から習っているからいいけどさ。古い楽譜、と言ってもどこまで遡ればいいんだ? 殿中での楽士の活動はおおよそ200年前だから、その辺りか? でも、それ以前からの曲も多いし、かといって古すぎても単純な音だから参考にならない気も……」
ぶつぶつと独り言をつぶやいてうろうろしている羽の頭に何かがごつんと当たって床に落ちた。どうやら本のようだ。中をめくっていくと、何やら日記のようなものだ。
(昔の楽人……いや、画工の日記か)
日記には橙、浅黄、群青、と鮮やかな色の名前が記されている。そして、あちこちの名勝地の名前もうかがえる。
「もしかして嶺さんの?」
表紙や中の紙は傷んでいるが、まだ書かれて10数年と言ったところだろう。ここにあるのは不可解だけれど、何かの本と紛れてしまいこまれたのだろう。日記を読むのは本来よくないことだけれど、羽はこのところずっと思っていた疑問を解決するためには必要なことだと割り切ることにした。
(どうして嶺さんが雛さんを名乗っているか、だ)
”今日、お母様が旅立たれました。男の子は無事だそうで、産婆さんは泣きました”
日記はその言葉から始まった。日記の日付を見るにそう几帳面な人ではないらしく、日付がばらばらだ。何か重要なことがあった時だけ書いているような印象を受けた。
「”今日、お父様が私たちの結婚相手を連れてきました”」
ぱら、ぱら。ページをめくるたびに羽の意識は日記に注がれていく。脳裏にはうり二つの容姿をした美しい双子の姉妹がいた。
「なぁ、聞いてくれよ策。またふられたよ」
べしょべ緒に泣く青年は空になった盃をけだるげに振った。向かい側に座った策はこれ以上ないくらい嫌そうな顔でため息をつく。
「だからって俺の家まで来るなよ。あとで内官殿に叱られたら俺の立場がない」
「いいじゃないかぁ。僕と君の仲じゃないか~」
「うるせぇ。なんだよその僕、とか君、とか気味が悪い」
「数年来の友人に対してごあいさつだね。僕はこのいい方が気に入っているのさ。策だって、あちこちでいろんな喋り方するくせに」
あ、と青年が急に目を輝かせる。
「友人じゃなくて、お義兄さま、と呼んだ方がいい?」
「やめろ」
据わった眼で策が言う。先程までの酔いが消えたかのような声だ。青年は策の目に少し目を丸くするが、からからと笑い始めた。
「そんなに怒らないでくれよ。僕としては職人として、商品の受け取りに来ただけさ。だのに、十五年も待っても欠片すらできてないじゃないか」
「……あんたら親子のせいで俺達兄弟は……」
「どのみち君たち周家は分裂する危機にあった。問題が深刻になる前に手を打った僕達をそろそろ認めちゃどうかね。君の兄上はちゃんと膝を折ってくれたというのに」
「認められるわけないだろう! あんなこと――!」
「じゃあ、とっとと前金を払ってもらおうか」
「っ!!!」
「優しい君の賢明な判断を信じているよ」
くくっと笑いながら青年はその場を出て行った。青年の気配が無くなると、策は力任せに柱を殴った。いつもは飄々としている彼が感情的な行動をとるのは珍しく、そして人前では見せない顔をしていた。
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