第23話 ロッコとトーマスはサミエラについて考察する


「じゃ、とりあえず算数は今日はここまでね。今日は夕方に用事があるからあまり長くはできないんだ。今日の授業は3点鐘で終わりにするから残りの時間は読み書きの練習ね。アタシが黒板に聖句を書いていくから読み上げと書き取りをしていくよ」


「「「はーいっ!」」」


 サミエラが黒板に白墨チョークでマタイの福音書にある主の祈りを書き記していく。


「これはあんたたちもよく知ってるイエス様が教えた模範的なお祈り──主の祈りだよ。これから先の人生で何度も唱えることになるからちゃんと覚えておこうね。まずはアタシの後について読み上げだ」


 サミエラが該当部分を指でなぞりながらゆっくりと読み上げる。


「天にまします我らの父よ、み名がたたえられんことを」


「「「天にまします我らの父よ、み名が讃えられんことを」」」


 教会の孤児にとって聞きなれた聖句なので全員が淀みなくすらすらと復唱する。


「み国の来たらんことを。ご意志の成されんことを」


「「「み国の来たらんことを。ご意志の成されんことを」」」


「今日この日のかてをお与えください。我らの罪をお許しください」


「「「今日この日の糧をお与えください。我らの罪をお許しください」」」


「誘惑に陥らせず、しき者の手からお救いください」


「「「誘惑に陥らせず、悪しき者の手からお救いください」」」


 サミエラがパチパチと拍手する。


「みんなすごいじゃないか! 難しい言い回しなのに淀みなくすらすら言えてるね。じゃあ、この黒板の見本を真似してそれぞれの書き板に写していきな。書き上がった順にアタシに見せにおいで」


 『書き板』は木板の表面にろうを塗った物で、先の尖った金属の棒『尖筆せんぴつ』を使って軟らかい蝋に文字を刻む筆記具の一種だ。一度刻んだ文字も蝋を温めて溶かしてならせば綺麗に消して何度でも繰り返し使えるし、値段も安くて庶民でも手に入れやすいので文字の練習に重宝されている。

 子供たちは張り切って黒板と見比べながら聖句の書き取りを始めていった。やがて、1人、また1人と書き上がった子供たちがそれぞれの書き板を手にサミエラのところに向かう。


「お、上手に書けたじゃないか。……あ、でもここの綴りが間違ってるね。正確にはこうだよ」「ありゃ。間違えた」「間違えた単語を何度か練習してちゃんと覚えようね」


「早く書き上げたね。すごいじゃないか。……でも、急ぎすぎて字が雑になってるよ。焦らなくていいからまずは綺麗な字を意識しなよ」「はーい」


 その時、講堂の出入り口のドアが開いてサミエラを迎えに来たロッコが入ってくる。ロッコは講堂内の様子をざっと見回し、子供たちの相手をしているサミエラに片手を上げて合図だけ送り、子供たちから少し離れた席に座っているトーマスに近づいた。

 ロッコは立ち止まり、軽く曲げた右手の甲をトーマスに向け、指先で自分の額に触れて小さく会釈した。


「ロッコか。ちょうどいい。君と少し話したいと思っていたのだよ。座ってくれ」


 トーマスもまた同様の仕草で返礼し、自分の隣の空いた席をロッコに勧める。その姿は先程までサミエラと話していた時のような好好爺こうこうやではなく、彼が高い社会的な立場にあることを感じさせるものだった。


「それじゃあ失礼させてもらいまさ。……閣下は今日はまたどうしてここに?」


 ロッコに閣下と呼ばれたトーマスが肩をすくめて見せる。


「この場で閣下はよしてくれ。今はただの干しオレンジ好きのトーマス爺だ。教会にくる途中でサミエラ嬢と偶然会ってね。孤児たちに勉強を教えているという話だからどういう内容か気になって見させてもらっていたんだが……ロッコ、あの娘はいったい何者だ?」


「何者だと言われましても、うちの商会長ですぜ」


 すっとぼけるロッコにトーマスがジト目を向ける。


「そんなことを訊いているのではないことぐらい分かっているだろう? 知識、理解、知恵のどれをとっても彼女はあまりにも規格外だ。私は彼女の父親をよく知っているが、彼は有能ではあったが凡庸な男だった。誰が彼女を教えたんだ?」


「あー……実は俺もよく分からねぇんですよ。昔から賢い子じゃあったんですがね、ジョンの死、というかやっこさんの喪が明けて商会を継いだあたりからまるで人が変わったようになっちまいやして」


「本当に別人になったのではあるまいな?」


「ははっ。俺もカミさんも嬢ちゃんが産まれた時からずっと見てきやしたが正真正銘の本人ですぜ。まあ、俺は学がねぇんでよく知りやせんが、カミさんの言うことにゃ、使徒行伝しとぎょうでんのペンテコステの奇跡が起きたんじゃねえかって話ですがね」


「ペンテコステの奇跡……主の昇天後に聖なる力によって、残された弟子たちが知らないはずの異国の言葉を話せるようになったというアレか」


「それでさ。嬢ちゃんは産まれも育ちもこの街なんで、言葉もイングランド語とスペイン語がちょっと分かる程度だったはずなのに、今じゃオランダ語やフランス語、それに聞いたこともねえはずのドイツ語まで話せるみたいなんでさ。だもんで嬢ちゃんの境遇を憐れまれた主が、嬢ちゃんに奇跡を降ろされたんじゃねぇか、とまあそんな話でして」


「……ふむ。奇跡か。にわかには信じがたい話だが、そうでもなければ自分がここでまさに見聞きしたことも信じられんな。高等教育を受けていない普通の少女があれほどの教養があるなどありえんことだ。そうか、主の寵愛を賜ったか」


「はは……嬢ちゃんの奴、えらい人に目を付けられちまったな」


「ロッコ、サミエラ嬢には私のことは話したのか?」


「いえ、話してませんぜ。あくまで干し果物屋の常連客の1人と思ってると思いますがね」


「ならばあえて言わなくていい。いずれ折を見て明らかにするかもしれないが、私としても立場を気にせずに気楽に付き合える関係というのは貴重なのでね」


「お察ししまっさ」


「……ああ、そういえばサミエラ嬢にはジョンが遺した莫大な借金があるという噂が流れているが……あれは嘘なのだろう?」


「へえ、やっぱり分かりやすか。嬢ちゃんの資産狙いで近づいてくるハゲタカ共を追い払うための方便ってやつでさ」


「副王庁が金貨鋳造の為に純金を集めるなんて大きな話が私の耳に入らないなんてことはありえないからな。それに、私の知るジョンという男はそんなリスクの高い商売に手を出すような人間ではなかったよ」


「ですな。でもこいつはここだけの話ってやつで」


「もちろんだ。これを訊いたのもあくまで確認のためで、もし本当に困っているなら頼ってくれていいというだけのことでな」


「……ずいぶんと嬢ちゃんのことを気に入ってくれてるようで」


「ふふ。正直、息子の嫁に欲しいとは思っているぞ。だが、あの才をこの目で見てしまうと彼女を家庭に縛り付けてしまうのは勿体ないとも思えてくるな。女の身でどれほどのことができるのか楽しみでもある」


「嬢ちゃんは普通じゃ思いつきもしないようなことを次々に始めるんで、いずれ歴史に名を残すようなでけぇことをやってのけると楽しみなんでさ」



 サミエラは子供たちの相手をしながら少し離れた席に座っているトーマスとロッコのことを気にしていた。

 トーマスとロッコがこそこそと話し合っている内容はサミエラには聞こえていないが、時々こちらにチラチラと目を向けているのでおそらく自分のことを話しているのであろうことは容易に想像がつく。

 サミエラが微妙に居心地の悪さを感じているその時に午後の3点鐘が鳴り響く。


──カラァン、カラァン……カラァァン……


 30分後の4点鐘に交易所で奴隷商人のジョージ・パーシグと会う予定なのでそろそろ向かわねばならない。

 サミエラは子供たちに授業の終わりを告げた。






【作者コメント】

今回はサミエラのような自重しないプレイヤーが周囲から見てどのような存在で、どのように受け止められているかというお話でした。


中世から近代のヨーロッパ、およびその文化圏を舞台にした文学を読んで思うのは聖書とその教えが人々の価値観や生き方に深く根付いているということです。この時代に無神論者はまずいません。自分はどうせ地獄に落ちると開き直っている、腐敗した僧職者や極悪人はいますが、どんな悪党でも神を信じて畏れていますし、人々は日常的に祈ったり感謝したり会話の中で聖句を引き合いに出したりして神の存在を身近に感じています。そんな周囲の価値観に配慮しないとプレイヤーは地雷を踏み抜くことになります。


サミエラは普段から信心深く(見えるように)行動しているので主の寵愛を賜ったと好意的に受け止めてもらえましたが、逆の行動を取っていたら異端扱いされて魔女呼ばわりされていたかもしれません。実際そういうプレイヤーも少なからずいることでしょう。他のプレイヤーの動向についてはまたいずれ扱うこともあるかと思います。

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