宵の太陽 白昼の月
冴木黒
第1話 旅立ち
太陽の東 月の西
黄道巡る 星と星
二つの光が 交わりし時
世界を繋ぐ 扉が開く
『アルバ族に伝わる民話』
***
少しの食料と使えそうな道具類。それとお金になりそうなものをいくつか。
できるだけ荷物は少なくして、鞄に詰め込む。
埃除けに箪笥や棚には布をかけて、窓や扉はしっかり閉めておく。
「それじゃ、行ってきます」
開け放った玄関の扉の前で、誰もいない空間にそう告げたのはまだ幼さの残る少女だ。
捻り編んだ長い髪は艶のある黒色で、大きな瞳は燃えるような赤色。丸く小さな鼻は愛嬌がある。身に纏った衣装は、獣の皮と、草の繊維を用いて作られていて、独特の紋様が刺繍されていた。
扉をしっかり閉めて、少女は最初の一歩を踏み出した。
森の中を続く道を一人歩く。天を覆う葉と葉の間から零れ落ちる朝の光が清々しい。
ディア・アレーニは今年十五の年になる。
森の奥にある一軒家で母と共に暮らしていたが、母は先日他界してしまった。旅に出ることを決めたのは、それから二日後のことだ。
幼い頃、語り部だったという母から聞かされた御伽噺。
世界のどこかにあると言われる扉。それは別の世界に繋がっていて、そこにはもう一人の自分がいるのだという。
もう一人の自分はどんな子なんだろう。
見た目はそっくりなのかな。
年齢はきっと同じ。
友達になれるかな。
会ってみたいな。
ずっとそう思っていた。
軽い足取りで森を抜けて、街道沿いに歩いて行く。
途中、通りかかった荷馬車に乗せてもらい、夕方過ぎには目指していた港街に辿り着いた。
初めて訪れる街は潮の匂いに満ちていた。
商店が連なる通りを行き交う人の波。肌の色も髪の色も、衣装も様々だ。店先に並ぶ商品も珍しい物がたくさんある。
ディアにとっては、全てが新鮮だった。
全て見て回りたい衝動に駆られたが、まずは船を探さないといけない。
「すみません、船着場はどこですか?」
近くにいた人に尋ねると、その人は一瞬驚いたような顔をして言った。
「ああ、あっちだよ。まっすぐ行って先の角を右に曲がったらすぐ。あんた船に乗るのかい? だったら急いだほうがいい。もうすぐ出航の時間のはずだから」
「はい! ありがとうございます!」
ぺこりと頭を下げて、ディアは走り出す。
胸が弾む。船に乗るのは初めてだ。
初めて目にした船は想像していたものよりもずっと大きかった。渡し板に列を為しているのは木箱を運ぶ人々で、その中にはちらほら旅装姿の人も見られた。
列の脇には船員らしき服に身を包んだ男が立っていて、旅装姿の人から金を受け取っている。ディアもそれにならって列の後ろに並ぶことにした。
「はい、次の方ー」
財布から銀貨を一枚取り出して渡し、前の人達に続いて船に乗り込む。
足元が少し不安定な感じだ。
きょろきょろと周りを見渡していると、背後から声を掛けられた。
「お客さん? 部屋はそこの扉を入ったところだよ。どいたどいた」
荷箱を抱えた船員が、言うだけ言ってどたどたと忙しなく走って行ってしまった。
「お嬢ちゃん、こっち。そこ邪魔だから」
扉のノブに手を掛けながら手招きしているのは大きな袋を背負った商人風の男だ。ディアは自分が通行を妨げていることに気づいて、慌ててその場を離れる。
「船は初めてかい? 女の子の一人旅は珍しいね」
「あ、はい」
扉を押し開けると、まっすぐに伸びた廊下とその両脇にはそれぞれ部屋があった。
「女の子はそっちの部屋。空いてるところで好きな場所を選んで、荷物はそこに置いておく。ただし貴重品だけは手放さないようにね。食堂は下の階にあって、階段はこの廊下の奥。他に何か聞いときたいことある?」
「いえ、ご親切にどうもありがとうございました」
男が入っていった方とは反対側の部屋に入ると、自分の他に数人の女性客がいた。皆それぞれ荷物の整理をしたり、くつろいだりしている。
床には折りたたまれた毛布が二枚ずつ並べられていた。
教えられたとおり空いている場所に行き、毛布を広げて、その上に鞄を下ろした。大事な物は腰のポーチに入れて、ディアは早速食堂に向かうことにした。
少し早いけれど、夕食を済ませてしまおう。昼は持ってきていた保存食を少し齧っただけだったから、お腹はぺこぺこだ。
廊下を進んで階段を降りる途中、肉を焼く良い匂いがしてきて唾を呑む。
階下は広くて、いくつか置かれた丸い木のテーブルでは人々が既に食事にありついていた。
「ああ、さっきのお嬢ちゃんじゃないか。ここ空いてるよ」
声の方を振り向くと、先程の商人風の男がいた。
同じテーブルには他に同じような風貌の中年の男が二人と若い男が一人、それと誰かの家族だろうか女が一人に小さな子供一人がいた。
勧められるままに椅子に座って、取り皿を受け取る。女が焼いた鶏肉を切り分けてくれ、隣に座る若い男がグラスに水を注いでくれた。
「君の目の色、珍しいね。出身はどこだい?」
水差しを置きながら男が言い、ディアはきょとんとする。
「ルーシュイです」
「え、じゃあ両親は?」
「父はわかりませんが、母は昔、西の大陸の北側から来たんだって言ってました」
「北? ジェアダかな? 確かにそこの人達は黒髪だったけど。一度だけ行商で行ったことあるけど、そんな赤い瞳は初めて見たなあ」
首を傾げる男に、女が窘めるように言った。
「まあまあ、西大陸に行けば髪も目も色とりどりだからねえ。南方の国では肌が小麦色だと聞くよ。それよりも女の子の一人旅ってのも珍しいわね」
「そうだそうだ。私もそれが気になっていたんだよ。お嬢ちゃんはどうして一人で旅を?」
視線がディアに集まる。
皆興味津々といった様子で、ディアは素直に旅の目的を話した。
すると隣から噴き出す声が聞こえた。
「別の世界って、もう一人の自分って、俺も聞いたことはあるけどさ、それ御伽噺だろ? 何だっけ? アルバの民話?」
呆れたような顔やクスクスと笑う声に、ディアは急に恥ずかしくなって俯いてしまう。
そんなにおかしいことだろうか。
膝の上でぎゅっと手を握るディアの頭上で突然声がした。
「全くありえない話ではありませんよ」
顔をあげると、そこには眼鏡を掛けた背の高い男の人が立っていた。
目と髪はありふれた黒色で、鼻筋がすっきりとした優しそうな顔立ちの人だ。全体的に短い髪型に見えるが、後ろの部分だけ長く伸ばしていてうなじの辺りに一つに纏めている。
彼は続けざまに言った。
「無数にある星の中には生命が存在すると考える研究者は数多くいますし、もう一人の自分っていうのも魂の共有者ってイズラ・アルメトスの有名な論文があります。天文学の講義でも取り扱われたことがあるんですが、俺もこれは興味深いなって思ってます」
にこにこ顔で淀みなく話す男の人に、皆呆気に取られている。
最初に我に返ったのは、ディアの隣に座る若い男だった。
「星ってあの空にある星のこと?」
「はい。俺たちが住むこの世界も、その星の一つだと言われています。この世界と同じように、水、酸素といった生命維持に必要な要素が揃っている星が他にもあるとするなら、そこに生命が宿っていてもおかしくありません」
男の人が何を言っているのか、ディアにはよくわからない。
それは周りの人たちも同じみたいだった。
「ひょっとしてお兄さん、学者さんかい?」
「はい、まあなりたてホヤホヤですけど、地方の文化とか民俗学とか専門にしてて」
「へえー、じゃ今は研究の為の旅ってわけ?」
「あ、それもいずれはしたいなって思ってるんですけど、今回はグレイスゼベル大学から招かれて。共同研究しませんかって声かけてもらって」
「な、何かよくわかんないけどすごいんですね」
話についていけないまま、ディアがぽつりと漏らせば、商人風の男が目を見開いてちょっと興奮気味に言う。
「いや、すごいってもんじゃないよ。グレイスゼベルっていや国立大学でしょ? 大陸一って聞くよ。学者さんあんた一体どこの出だい?」
男の人は隣のテーブルから椅子を持ってきて、輪の中に混じった。
人々はすっかり興味の対象を彼に移して、次々と質問をぶつけた。そして彼は嫌な顔ひとつせずにそれに応じた。
ディアも彼らの話に耳を傾けながら、出された食事を存分に味わった。
初めて食べるものもいくつかあって、それがまた美味しくて次々口に運んでいくと、「いい食べっぷり」なんて言われて、どんどん勧められた。
気づけば、皿の上はすっかり空になっていた。
そして腹が満ち、話にも満足した人々はそれぞれ部屋に帰っていった。
「少し話せるかな?」
食堂を出ようとしたディアを呼び止めたのは、さっきの男の人だった。
二人で甲板に出る。
外は夜で真っ暗だった。空は晴れていて、細い弧を描く月と小さな星がいくつも散りばめられていた。
欄干に寄りかかって、下を覗き込む。夜の海はどこまでも深い闇色で、ずっと見ていると吸い込まれそうな気がした。同じように欄干に体を預けて、学者だというその人が口を開いた。
「ディアって言ったよね? さっきの話だけど君、宛てはあるの?」
「あて?」
「だから、異世界、二つの世界を繋ぐ扉、もう一人の自分。君はそれを探してるんだろ? どこをどう探すつもりなのかな?」
「ええと、歌がヒントになってるのかなって思って」
「うん」
「だからアルバ族がいたっていう西の大陸の北を目指せば何かわかるかなーって」
「うん、それで」
「え?」
「えって……まさか君それだけの情報を手掛かりに探すつもり?」
「え、だ、ダメですか?」
ぽかんと口を開けて固まる学者に、ディアは何かおかしかっただろうかと焦る。
「ダメっていうか無謀すぎるっていうか。肝心のアルバ族はもういないし……」
それはディアも知っている。
彼らは千年近く昔に滅びたという話だ。
だけど現地に行けば、新しい発見があるかもしれない。ディアの胸にあるのは、そんな微かな希望だけだ。
「だったらさ、君さ。俺と一緒に来ないか?」
「え」
「俺は、さっきも言ったけど、ゼべルの大学に向かうところなんだ。ゼべルには大きな図書館もあるし、大学では君の探してるその世界について研究してる可能性だってある。何なら研究仲間に聞いてあげられるし。もしかしたら何か手掛かりが掴めるかもしれないよ」
「でもわたし、字読めないし……」
「それくらいだったら道すがら俺が教えてあげるよ。大丈夫、文字なんてすぐに覚えられるから」
「ほ、本当に!? いいの!?」
ああ、と学者が頷く。
魅力的な提案だった。一人で闇雲に探すよりも、ずっと近道に違いない。それに文字の読み書きができるようになるなら、これから先役に立つだろう。
そこまで考えてから、ディアはハッとする。
「あ、待って。でもわたし何も返せるもの持ってない。見知らぬ人に色々親切にしてもらっておいて何も返せないなんてのは、やっぱりダメよ。悪いもん」
「そういうの別にいいんだけどな」
「そういうわけにもいかないわ!」
「じゃあこうしないか? 俺も君の話に興味あるんだ。異世界やもう一人の自分なんて考えるだけでわくわくする。その謎を解き明かそうとしている君にぜひ協力させてほしい」
「協力……」
「そう、これも一つ共同研究だ。君と俺の力を合わせて異世界への扉を探す。どうかな?」
共同研究。
知識なんて殆どない自分が。
いいのかな。
でも、これはチャンスなのかもしれない。この機会を逃したらもう、こんな幸運二度と訪れないかもしれない。
それに、もしも異世界なんてものを見つけられたら大発見だ。
そうしたら出世払いだってできるにちがいない。
「わ、わたしでよければ!」
学者は穏やかそうな顔でにっこりと笑って、ディアの前に手を差し出してきた。
「俺の名前はシオン。よろしく、ディア」
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