25.昔語り
人通りの少ない狭い路地へ入ると、クロは大きな木の陰へ入った。古い家屋のブロック塀を越えて、枝が道路にはみ出すほど大きな木で、垂れ下がった枝葉の下へ入ってしまうと、クロの姿はほぼ見えなくなる。
「……クロさん?」
不安に思って呼びかけてみたが、出てきた彼の姿を見て驚いてしまった。
真夜中の配達につきあった日に見た、黒い布で口元を覆って全身黒装束の、背中に黒い翼が生えたあやかしの姿になっている。
「えっ……」
それまで空は、雲一つない晴天だったのに、クロが木の陰へ入ってから、ぶ厚い雲が太陽を隠してしまった。
クロが姿を変えて木の下から出てきて、辺りはいっそう暗くなったように感じる。まだ真昼なのに、急に陽が翳ったからか、気温まで下がったようだった。
半袖姿の私は、思わず自分を抱きしめる。
(寒っ……)
クロは私に手をさし伸べて、短く命じる。
「来い」
手の甲まで黒い装束で覆われたその手を、本当に取っていいのか迷うほどの低い声だったが、これはクロなのだからと私は必死で自分に言い聞かせた。
(大丈夫……不安になることはない……)
クロは私の手を掴むと、近くへ引き寄せた。
腕に抱きしめられて、私の足は地面から浮く。
「…………!」
そうなることはわかっていたのに、あまりの密着具合と突然の上昇に驚いて、けたたましく鳴り始めた心臓の音がクロにも聞こえてしまいそうなほど大きい。
「怖いのなら目でも瞑ってろ」
そう告げると、クロはどこかへ向かって移動を始めた。
高さのほうは、河太郎さんの想い人の里穂さんが住んでいる五階建てのマンションを遥か足の下に見るほど高いが、速さはそうでもない。
だから私は必死にクロにしがみつきながら、飛ぶように過ぎていく足もとの景色を眺めていたのだが、ふと気になった。
「あの……これってもし誰かに見られたら、騒ぎになりません?」
クロが呆れたとばかりにため息を吐いた。
「もちろん、姿は見えなくしてある。人間には見えない」
そう説明されて、私はほっとする気持ちよりも、少し残念な思いのほうが大きかった。
「そうなんだ……」
「なんで残念そうなんだ」
咎めるように訊かれても、どうしてそういう感情になったのか、自分でもよくわからない。
「なんでだろう……」
私の返事にクロはまたため息を吐いて、腰のあたりに回していた手に力を込めた。
「少し上がるぞ」
私が返事をする前にもう上昇を始めていて、私はクロの胸にしがみつく。
「ひぇえええええ」
「せめてもう少し女らしい悲鳴を上げろ」
(とっさにそんなことできるわけないでしょ!)
クロは、怒りの反論を私に言葉にさせないためにわざとやっているのではないかと疑うほど高度を上げ、一つの山を越えてから、山際へ向かって降下を始めた。
見る見るうちに山の緑が足の下へ近づき、その中の少し拓けた場所の、大きな瓦葺の屋根の建物の近くに、ゆっくりと翼を羽ばたかせながら降り立つ。
私の足が地面に着くとすぐに抱きしめていた腕を解かれたので、私は足に力が入らず、よろめいてその場に座りこんでしまった。
「うっ……」
「そのまま少し休んでろ」
そう言い残してクロはどこかへ行ってしまい、帰ってきた時には、家を出た時のようなスーツ姿だった。
「え? 上着……車に置いてきましたよね?」
思わず問いかけた私に、クロは少しバツの悪い顔をして、しっかりと着こんだ自分の黒い上着を見回す。
「そうだったな……まあ、気にするな」
「しますよ!」
叫び返すと、小さなペットボトルの水を放ってよこされた。
「いいから、それでも飲め」
「…………ありがとう」
確かに喉は乾いていたので、ありがたくそれで潤してから私は立ち上がる。
人の気配のない、静かな場所だった。
神社の社殿にも似た古い木造建築が点々と建っており、それらの間に植栽された生垣も、見上げるほどに大きな木も、綺麗に剪定されて手入れが行き届いている。
地面も箒の跡がわかるように掃き清められており、そこに足跡を付けてしまうのが申し訳ないほどだったが、クロは迷うことなく革靴で歩いていく。
「どこへ行くんですか?」
私の質問には答えず、一番大きな建物をまわりこんで、正面へと向かっているようだった。
慌ててそのあとを追い、右方に大きな鐘が吊るされた鐘楼があり、正面の建物の奥に仏像らしきものが見えたので、どうやら寺院のようだと私は判断する。
(お寺か……)
意外な気持ちで見つめる大きな背中は、一礼して門を潜り、鐘楼前の建物へ向かうので、私もそれに倣う。
建物の中から法衣の人物が出てきて、クロと挨拶を交わしているが、お互いによく見知った間柄のように感じた。
(よく来るのかな……)
あやかしとお寺とは、不思議な組み合わせだと思いながら見ている私を、住職と話が終わったらしいクロが呼ぶ。
「瑞穂」
正面にある大きな仏堂の前まで行って手を合わせ、中には入らず、クロは鐘楼の奥から、建物群を抜けていった。
私は何をどうしていいのかわからず、彼がやることをそのまま真似しながら、全てにおいて説明が少なすぎることにだんだん不満が募る。
(シロくんのフォローがないと、クロのやろうとしていることも考えてることも、全然わかんない……!)
私のことを一度もふり返らずに、歩き続ける背中を小走りで追った。
クロが向かっているのは、本尊が祀られた仏堂の奥にある講堂の、更に奥にある建物のようだった。
大きな樹木に囲まれて、ほぼそれに埋もれるような形で、ひっそりと建っているお堂は扉が閉じられている。
クロが手にした鍵でそれを開けたので、おそらく先ほどの住職から鍵を借りたのだろう。
閉じられていたお堂の中には、そこに置かれているものの匂いがこもっており、花とお香のいい香りがした。
花器に活けられた見事な枝ぶりの花は、匂いに反して茶色く萎れてしまっていたのに、クロが手に取ると、見る見る生気を取り戻す。
(すごい……)
どうやら桜の花だったようだ。
クロが満開になった花を花器へ戻し、堂内の埃を軽く払い、手を合わせて頭を垂れるうしろから、私もお堂の中をのぞいてみる。
祀られていたのは思っていたよりもずいぶん小さな仏像だった。金箔などは貼られておらず、素朴な木彫りで、誰かの手作りだろうか、優しい顔の女性に見える。
クロに倣って手を合わせてから、いつまでもその体勢から動かない大きな背中に、私はそっと言葉をかけた。
「優しいお顔の仏さまですね」
「そうか……」
クロがほっとしたように息を吐いたのがわかった。
ようやくお堂の前から移動し、脇に生えている大きな木の下に立って、その表皮を撫でながら、私には背を向ける。
「昔、馬鹿な男がいた」
いきなりそう切り出されたので、少し面食らいながらも、私は頷いた。
「はい」
「それなりに長く生きているあやかしの男だったが、ある時人間の女に恋をして、女のことが頭から離れなくなった。幸か不幸か女も男を好いてくれて、二人は永遠の愛を誓った」
突然始まった昔話が、とても幸せな結末を迎えそうにはなく、私は少し緊張しながら、相槌を打つ。
「はい……」
「だけど幸せは、長くは続かなかった……」
やはりという思いで、私はクロの次の言葉を待った。
少し間を置いてからクロはまた語りだす。声が若干低くなったように聞こえた。
「女は病にかかり、男はなんとかそれを治そうと努力したが、何をやっても効かなかった。女は次第に弱り、最終的には亡くなった。男は自分の力不足を悔いて、いつまでも女のことを忘れられなかった……ずっと……」
そこで昔語りは終わったらしく、またクロの声音が変わる。
「どれほど想っていても、どれほど想われていても、いつかは終わりの時が来る。それは人間同士でも同じだろうが、あやかしと人間だと、あやかしにとっては呆気ないほどすぐに終わってしまう。それから先も長い時間を、生きていかなければならないのに……だから俺は……」
クロは、あやかしと人間が深く関わることを良しとしていない自分の気持ちの根拠を、私に伝えようとしてくれたのだろう。
河太郎さんの恋がとても叶いそうになくて、落ちこんだ私を慰める意味もあったのかもしれない。
口を噤んで私をふり返ったクロの表情は、とても悲しそうなものだった。
それが見る見るうちに、驚きの顔に変わっていく――。
「瑞穂……お前……?」
珍しくうろたえた様子で、クロに呼びかけられて初めて気がついた。私はいつの間にか、涙をぽろぽろ零して泣いていた。
「え? ……あれ?」
自分でもまったく自覚がなかった。クロの話を聞いて、やるせない気持ちになったのは確かだが、まさかこんなに涙が湧いてくるとは思ってもいなかった。
「あれ? ……あれ?」
拭っても拭っても零れる涙に、すっかり困惑している私を、クロが懐かしいものを見るような目で見つめる。それは私を見ているのに、見ていないような、不思議な眼差し――。
「お前が泣くことか?」
いつもの呆れたような言葉が、優しい声音で発せられて、胸がぎゅっと痛くなった。
それはどういう痛みなのか、どうして涙が止まらないのかが理解できなくて、私は困って訴える。
「だって……」
クロは私との間の距離を詰めて、大きな手を私の頭の上にそっと乗せた。
「ありがとう」
とても優しい口調で言って、軽く頭を撫でてから、お堂の前へ帰り、扉を閉めて鍵をかける。
私はその一連の動作を、身動きもせずにただじっと見ていたが、クロが頭を下げてお堂の前を立ち去る前に、「また来る」と小さな声で呟いたので、なんとなく察した。
(そうか……今の話は、クロ本人の話だ……)
だとすると、彼が長く祈りを捧げていた、あの優しい顔の木彫りの仏像は、彼が昔愛した女性に所以するものだろうか。
(たぶん……きっと、そう……)
来た時と同じように、静かにお堂を去っていく背中について歩きながら、また新しく湧いてきた涙で、木々の濃い緑が印象的な光景は、ぼやけて見えなくなった。
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