20.神車のお札②
出張所へ帰ってガラス扉を出てみると、確かに麦わら帽子を被った豆太くんが、筒を手に持って泣いていた。
「じいちゃーん! あーん!」
尻尾と耳が人目につかないように、腕に抱きこんで隠して、ひとまず出張所の中へ帰る。帰る準備をして、戸締りをし、出張所を出ると、二人で私の車に乗った。
豆太くんを助手席に座らせ、耳と尻尾はいつものようにしまってくれと言い含めて、シートベルトを留めてやりながらも、実際はまだ迷っている。
(どうしよう……豆太くんを連れて、田中さんの家へ行こうかな……)
クロとシロが早めに帰してくれたので、今日はまだ日が暮れ終わっていない。田中さんの家へ着く頃には真っ暗だろうが、まだ訪問しても許される時間ではあるはずだ。
(問題は帰りよね……)
誰も通らない山道を、二時間も運転して帰らなければならない。道に外灯もない悪路は、本当に自分のライトしか頼りになる光源は存在しない。心細さは半端ない。
(でも……)
ようやく泣き叫ぶのはやめてくれたが、やっぱりまだぐすぐすと鼻をすすっている豆太くんに、せめて田中さんと最後の別れをさせてあげたい。
だけど明かりもない山道を、もしもの時に頼りになりそうもない小さな子と二人きりで、二時間もドライブするのは怖い。
二つの感情を天秤にかけ、私は豆太くんを田中さんに会わせてやりたい気持ちのほうを優先することにした。
(ええい、ままよ! もしもう運転できないと思ったら、どこかの道の端にでも車を停めて、夜が明けるまで待てばいいんだし……うっかり寝ても、凍死するような季節でもないし!)
念のために二人分の毛布を後部座席に積んで、私は豆太くんと田中さんの家へ向かうことにした。
「豆太くん、田中のお爺ちゃんに会いたい?」
「え……うん」
だけどそれは無理なんだろうと怪しむような顔をしながらも、豆太くんは涙を拭いて頷く。
「帽子のお礼を言って、さよならも自分で伝えようか? 豆太くんが渡したかったものも最後に渡して、お見送りしよう!」
私の言葉を聞きながら、豆太くんの顔が、見る見るうちに活き活きしていくのが、手に取るようにわかった。
(そう、こんな顔……こんな顔が見たくて、私は誰かの荷物を誰かに届ける仕事をしてるんだもの……!)
「じゃあ、行こう、豆太くん」
「うんっ!」
彼が大きく頷き、私が車のエンジンをかけた時、ダッシュボードの下のほうがぼんやりと光った気がした。
「え?」
いったいどうしたのだろうと、私が確かめようとする間にも、それはみるみる車内に広がり、あまりに眩しくて目を開けていられなくなっていく。
「いったい何⁉」
目を射るような眩しい金色の光に、車全体が包まれたと思った時、ぶーんと低いエンジン音が響いた。
「え? やだ……」
こんな状態でエンジンがかかるのは危ないと、いくらなんでもわかるので、急いで切ろうとするのにまったく切れない。
「豆太くん! 豆太くん! 危ないからシートベルトをしっかり掴んで!」
「わかった、姉ちゃん!」
声はすれども隣に座っているはずの豆太くんの姿も見えない中、車が少しずつ動いている気配がする。
「うそ⁉ 私ギア動かしてないよ? アクセルだって踏んでない! ブレーキ踏んでるのに!!」
出張所の隣の空地に停めている私の車がもしそのまま前進したとしたら、どうなるのかを想像してみた。
(……神社の鳥居にぶつかる? あの立派な朱塗りの鳥居に⁉ やだ! とても弁償できない!)
懸命にブレーキを踏み、ギアがパーキングのままなことを何度も手探りで確認するのに、車が前進している感覚はなくならない。
(どうしよう! どうしよう! どうしようっ!!)
なんとか、何にもぶつからずに止まってくれることを祈りながら、自分自身も豆太くんに言ったように、もしもに備えてシートベルトを握っておかなければと強く掴んだ時、ふいに瞼の裏の眩しさが消えた。
「え……?」
恐る恐る目を開けてみると、黄金の光がどんどん薄れて、ちょうど最後の残光が消え去るところだった。
隣で豆太くんも、大きな目をぱちぱちさせている。
「あー、眩しかった……どうしたの、姉ちゃん……今度こそ本当に出発する?」
無邪気に問いかけてくる豆太くんに、私はとっさに返事をすることができなかった。
「そんな……」
車のフロントガラスの向こうに見えるのは、神社前の参道の景色ではない。少し暗くなりかけた山道。
ここは少しの時間なら車を停められるくらい、わずかに開けた場所で、この場所に駐車して坂を上ると、どこへ行けるのか私はよく知っている。
「そんな馬鹿な……!」
ここしばらくの間、一日おきにずっと通っていた場所なのだから間違いない。
(夢でも見てるのかしら……?)
ほっぺたを少しつねってみたが、ちゃんと痛いので、現実に違いないと認識する。
「なんで……?」
呆けるばかりの私より一足先に車を降りた豆太くんが、周囲を見回して喜びの声を上げた。
「ひょっとして……もう、じいちゃん家に着いた? とっても遠いって聞いてたのに、びっくりするくらい近く感じたんだけど……それともおいら、途中で寝ちゃってた? ねえ、姉ちゃん!」
豆太くんに呼びかけられて、私もひとまず車から出て、周囲をうかがってみることにする。
(夢にしてはリアルだし、つねったほっぺは痛いし、ちゃんと足が地に着く……)
何度か地面を踏みしめて、ひとまず田中さんに会いに行ってみようと決意した。
日はまだ暮れていない。それどころか出張所横の空き地で車に乗ってから、ほとんど時間が過ぎてもいないだろう。山と山の間に、まだ太陽の光の名残りがある。
このぶんならもしかすると、まだ深夜とは呼ばなくてもいい時間に、山の上出張所まで帰ることができるかもしれない。
「よし、豆太くん、行ってみよう!」
「うんっ!」
豆太くんは大喜びでスロープを駆け上がり、玄関の前に立ったが、呼び鈴を押してみても誰も出てこなかった。
「おかしいな……じいちゃん、出かけてるのかな?」
田中さんの軽トラは、そこに停めてある。
「ごめんくださーい」
声をかけてみても、敷地内から返事は聞こえない。日が暮れかけてからどこかへ行くということも考えにくいが、畑へでも行っているのだろうか。
掃き出し窓が開けっぱなしになっている縁側へ、ふと目を向けると、カーテンの陰に足のようなものが見えた。
「え……」
慌てて駆け寄ると、田中さんが床に仰向けに倒れている。
「田中さん!」
「じいちゃん!」
靴を脱ぐのももどかしい思いで、豆太くんと先を争って縁側から家の中へ入ると、倒れている田中さんに必死に呼びかけた。
「田中さん! 田中のお爺ちゃん!」
「じいちゃん!」
幸い意識はあるようで、田中さんはゆっくりと目を開けると、豆太くんを見てとても優しい顔になる。
「おんや、わしゃ夢でも見ちょるんか……家に豆太がおる」
「じいちゃん俺だよ! 本物だよ!」
「それとも、あの世からお迎えが来ちょるんかな……はは」
かすかに笑いながら、田中さんの胸は激しく上下している。呼吸音に喘鳴が混じる。
熱も出ているようだと額に手を当てた豆太くんが、「そうだ!」と麦わら帽子の下から葉っぱをとり出した。豆太くんがいつも頭の上に載せている大きな葉だ。
「熱を下げる物になれ!」
豆太くんが両手の指を複雑に組んで、小声で唱えると、葉っぱはポンッと煙に包まれて、それが消えたあとには、氷の入った氷嚢に変わっている。
「じいちゃん、これ!」
豆太くんがそれを額に載せると、田中さんは嬉しそうに笑った。
「いいのか、豆太、秘密の力をわしの前で使って……」
「じいちゃん、本当はわかってたんだろ、おいらが人間じゃないって」
「はあて、なんのことかのう……耳が遠いからよく聞こえんわ……」
氷嚢で少し気分がよくなったらしい田中さんが、豆太くんと問答をしているうちに、私は急いで一一九番に電話をした。しかし救急車が来るのは街中からなので、田中さんの家までは急いでも二時間かかるという。
「そんな!」
焦る私に、田中さんは豆太くんに膝枕をしてもらいながら、弱々しく手を上げた。
「不便なところじゃけんのう……いいよ、瑞穂ちゃん。豆太が来てくれたからすぐ元気になる」
まさかそんなわけはないと思いながら、私は考える。
(私の車に乗せて街まで運んだほうが、早いかもしれない……)
そう提案しようと口を開きかけた時、豆太くんがきりっと顔を上げた。
「姉ちゃん、ごめん。姉ちゃんの車でじいちゃんを病院まで運べないかな? 車まではおいらがおぶって行くから……」
小さな子どもだとばかり思っていた豆太くんが、田中さんのためにしっかりとした顔になり、私は胸が熱くなった。
「うん、そうだね……そうしよう! 私も手伝う!」
「なんの……ちょっと熱が高くて、咳がひどいだけじゃ……病院なんぞ行かんでも……」
「ダメ!」
豆太くんの叫びは鋭かった。
「じいちゃんいつも言ってたじゃないか! ばあちゃんは具合が悪くなっても、大丈夫だからって病院に行かなくて、だから間に合わなかったんだって……おいら……そんなの絶対に嫌だよ!」
田中さんが寝た格好のまま、ぐるっと首を巡らした。
部屋の奥には大きな仏壇があり、たくさんのお供えものの中に、笑顔の女性の写真が飾られている。
「そう……じゃの……」
こちらへ向き直った田中さんの目は涙に濡れており、豆太くんと私に支えられてゆっくりと体を起こす。
「あの時は豆太が来てくれて、おかげで命拾いしたんだって……あとで何度も語らんといかんよな」
「そうだよ!」
二人で田中さんを支えながら、車までなんとか歩いてもらった。毛布を持ってきていたおかげで、後部座席が簡易ベッドのようになり、私は田中さんに寝てもらって、改めて運転席に座る。
(ここへ来た時みたいに、病院へも一瞬で行けたらいいのに……)
私が心の中で思ったことを、豆太くんが言葉にした。
「姉ちゃん……来た時みたいにすぐ着ける? おいらが目を閉じている間に、もう着く?」
不安と期待が入り混じった表情に、私は安心させるように笑いかけるしかなかった。
「もちろんだよ! さあ、行くよ!」
「うんっ!」
今度こそはっきりと、ハンドルの下あたりのダッシュボードが光った。
(あれ? そこって……)
ごく最近、私はそこをのぞきこんで何かをした気がする。
(確か……)
考える間にも光が大きく強くなり、目を開けておられず、固く瞑る。
その時、脳裏に閃いた。
(あ……みやちゃんからもらったお札だ……)
『本当に助けが欲しい時、瑞穂ちゃんが本気で願ったら、きっと助けてくださるよ』
千代さんの言葉も、心に蘇る。
(もしも本当に私の願いを叶えてくださるのなら、御橋神社の神様、どうか、どうか……一刻も早く、田中さんを病院に運ばせてください!)
心の中で柏手を打って、実際の手はハンドルをしっかりと握りしめた。
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