8.烏天狗の諫め

 背に乗った私がそれきり黙りこんだことをシロがどう思っているのかはわからないが、「これで今夜の配達は終わりー」と連れて行かれた先は、街の中心からはかなり離れた場所にある、小さな神社近くのお屋敷だった。

 古い立派な日本建築の邸宅で、周囲を白塀に囲まれており、手入れの行き届いた庭を進んだ先のとある建物の前で、シロは小さな荷物をどこからかとり出す。

 彼が胸の前でてのひらを上向けると、何もなかった空間に、自然と小箱の輪郭が浮かび上がったようにも見えた。


(あれも、いったいどうなってるんだろう……?)


 目を擦る私の前には、見上げるほど高い白壁の建物がある。


(蔵……?)


 窓はかなり高い位置に小さなものしかなく、木製の扉には大きな錠前がかけられていた。

 瓦葺の立派な屋根まで見上げてから、ゆっくりと視線を下ろすと、誰もいなかったはずの扉の前に若い女性が佇んでおり、私は上げそうになった悲鳴を必死に呑みこむ。


(さすがに慣れた……! もう慣れたわ……!)


 なんとか自分に言い聞かせる私になど目もくれず、シロをじっと見つめる黒髪の女性は、日本人形のように綺麗だった。

 見た目はシロや私と同じくらいの年齢で、色鮮やかな振り袖を着ている。腰まである長い黒髪も艶やかで、抜けるように色が白く、切れ長の大きな目を覆う睫毛はびっしりと濃い。


(すっごい美人!)


 思わずまじまじと見てしまう私など完全に眼中になく、静かにシロに歩み寄る彼女に、シロは心持ち距離を取りながら小箱を手渡す。


「はい、綾音ちゃん。今週もやっぱり三回きっかりと、宅配屋が営業している日には必ず、通販を頼むの? もう、髪飾りも化粧品も着物も、この蔵に入りきらないほどあるでしょ? そろそろいらないんじゃないかなー……」


(通販……!)


 あちらの世界からこちらの世界のあやかしのもとへ届けられる宅配便にも、そういうものがあるのかと、もの珍しさに目を瞬かせながら、私はシロと美女を見る。

 これまでどんな相手に対しても、常に余裕のある態度で接していたシロとしては、かなり焦っているようにも見えた。


 それもそのはず、彼に『綾音ちゃん』と呼ばれた美女は、シロの言葉が耳に入っているのかいないのか、とろんと蕩けそうな目をして、二人の間の距離をじりじりと詰める。

 それからさりげなく逃げているシロは、蔵の前からもうかなり後退してしまっている。

 しかし美女は、そんなことは気にしない。真っ直ぐに彼に歩み寄る。


「蔵はまだまだ大丈夫。百年買い続けたけれど余裕があります……シロさまと週に三回お会いするためなら、あと二百年でも、三百年でも……」

「そ、そうなんだ。見かけ以上にすごい蔵だね。ははは……」


 困ったように笑うシロが、ちらりとこちらへ目を向けた時、私は嫌な予感がした。彼の大学の友人だという男女と遭遇した際、都合よく女の子除けに使われた記憶が頭を過ぎる。

 全力で脱兎のように逃げ出したつもりだったが、一歩遅かった。シロに腕を掴まれ、彼の傍にひき寄せられる。


「ちょ、シロ……」


 抗議の声を上げる途中で、私の口はまた動かなくなった。


(ちょっとーーーー!)


 心の中で文句を言っても、誰の耳にも届かない。


 私たちの目の前に立つ綾音さんは、シロに抱きしめられた私を見ると、驚いたように瞳を見開き、白い首が折れそうなほどにがっくり俯いてしまった。


(ほらー、可哀そうでしょ!)


 華奢な肩が、何かをこらえるようにぶるぶる震えている。

 このままでは泣かしてしまうと、私はシロに抗議の目を向けたが、彼はそ知らぬふりだ。


「…………そのかたは?」

「瑞穂ちゃんだよ。今日から一緒に働くことになったんだ。よろしくねー。家も一緒に住むんだよ」


 綾音さんの問いかけに明るく答えているシロを、いくら睨んでもまったく効き目はない。


(わざと誤解を招くような言いかたをしないで! それじゃ誰だってかん違いするでしょ!)


 思ったとおり、はっと顔を上げた綾音さんは、すっかり顔色を失ってしまっている。


(ほらね……)


 しかし、大きな瞳に見る見る涙が膨らみ、それが白い頬にこぼれ落ちそうになった次の瞬間、その形相ががらりと変わった。

 きりっと眦を吊り上げて、私へ向けられた双眸。それは怒りに燃えている。


「あ、ヤバイかも……」


 シロが呟いたのと、吹き飛ばされそうなほどの突風がいきなり彼女のほうから吹いたのは同時だった。


「きゃああっ」


 衝撃で私の口を縛めていた何かは解かれたらしく、悲鳴を上げながら飛ばされようとする私を、獣型になったシロが背中で庇ってくれる。


「瑞穂ちゃん!」


 すっかり触り慣れた毛並み越し、少しだけ顔を出してみると、長い髪を逆立てて、爛々と目を光らせている綾音さんがいた。

 可愛らしかった口は耳のあたりまで裂け、その間から蛇のような長い舌がチロチロと出ている。


「嘘でしょう……⁉」


 あまりの変貌ぶりに、絶望ぎみに呟く私を、シロがひょいっと背中に乗せた。


「瑞穂ちゃんはしっかり掴まってて、綾音ちゃんはちょっと落ち着こうか、ね?」


 言いながら、彼女から逃げる。

 しかし綾音さんも負けてはいない。私たちの横をぴったりついてくる。


「シロさまの背中……私だってまだ乗ったことないのにぃ……!」

「――――!」


 私としては、出来ることなら今すぐこの場所を彼女に譲りたいくらいだが、振り落とされそうな速さで移動している最中のことなので、簡単にそうもいかない。


「ごめんなさい! ごめんなさーい!」


 私の精一杯の叫びは、謝罪にはならないようだ。かえって彼女の形相が鬼のように恐ろしくなる。


「悔しい……悔しい……っ」


 ぎりぎりと唇を噛みながら、こちらへ手を伸ばした彼女の長い爪が、私の頬を掠めた。


「痛っ」

「大丈夫? 瑞穂ちゃん!」


 私の悲鳴を聞いたシロが、心配そうに声をかけたことで、綾音さんの中の何かがブチッと切れたように見えた。

 大きく手を振りかぶり、長い爪を私に向かって躊躇なく打ちこむ。その速度は、目にも留まらないほど速い。

 かわそうとしたシロの動きより、彼女の腕のスピードのほうが完全に勝っており、私は覚悟を決めた。


(殺されるっ!)


 しかしその時、私たちの間をすり抜けるようにして、とんでもなく速い風が通った。

 シロの背にしっかり掴まっていたはずなのに、私の体は風に煽られて宙に浮いてしまい、このまま地面に叩きつけられると絶望を感じた瞬間、下から掬い上げるようにして何者かに抱きかかえられる。


「え?」


 シロと高速移動していた高さより、かなり上空へ、そのままぐんぐん上っていく感覚があった。

 恐怖と諦めからぎゅっと瞑っていた目を恐る恐る開けてみると、すぐ目の前にあったのは漆黒の翼――。


「ええっ……⁉」


 首をめぐらして見ると、その翼で空を飛びながら、私を抱きかかえているらしい者と目があう。

 頭の上に小さな箱のような帽子を乗せ、鼻から口もとにかけてを黒い布ですっかり覆ってしまっているが、三白眼ぎみの切れ長の目には、確かに見覚えがあった。


「クロ……さん?」


 困惑ぎみに訊ねた私への返事代わりのように、背中から生えている黒い羽を大きく羽ばたかせると、彼は更に空へ上昇する。

 間一髪、ほんの今まで私たちがいた位置まで、綾音さんの手が伸びた。


「きゃあああああ」


 ぎりぎりそれをかわすことができた緊張感と、ここで落ちては本当に死んでしまう恐怖から、全力で首にしがみつく私を、半分人間、半分鳥のような格好をした彼は、本当に嫌そうな目で見る。


「怖いのはわかったから、わめくな。耳をやられる」


 その冷たい声は、まちがいなくクロのものだ。


 彼は私を抱きかかえながら、脚を大きくふり上げ、履いていた下駄を下にいる綾音さんに向かって飛ばす。

 スコーンと下駄が彼女の額の中央に命中した瞬間、クロが凄みのある声で言い放った。


「落ち着け、鬼女。また蔵の中に閉じこめられたいか?」

「――――!」


 怒りで逆立っていた綾音さんの長い髪が、力を失ったかのようにふぁさりと彼女の肩に落ちた。

 耳まで裂けるようだった口が閉じられ、ふりかぶっていた腕を下ろしてしまうと、可哀そうなほど落ちこんだ可愛い女の子の姿に戻る。

 そこまでを見守って、クロはもう片方の脚もふり上げた。


「お前もだ、シロ。わざわざ問題を起こすようなことをするな」


 シロに向かって飛んでいったもう一つの下駄は、いつの間にか人型に戻ったシロの額に命中する直前で、ぱしっと手でキャッチされた。


「だって、せっかくなら有効活用するべきだって思うじゃーん」


 人懐っこい笑顔で、彼が真っ直ぐに見上げているのは私――。


「有効活用⁉」


 それはどういう意味だと、私は怒りに任せて彼に詰め寄りかけたが、実際はクロの腕の中だった。しかも、まだ遥か上空だ。


「おいっ!」


 私のせいでバランスを崩したらしいクロに、至近距離でギロリと睨まれる。


「ごめんなさい……」


 首を竦めて謝った私を抱え直し、クロは地上へ向けて降下を始めた。


「迷惑ばかりかけるな、能天気狐」


 大きく翼を羽ばたかせて、地面の砂や小石を巻き上げ、ゆっくりと降りながら苛立たしげに吐き捨てたクロに、シロは笑顔で応戦する。


「小言が多いよ、はぐれ烏」


 ふんとその言葉を鼻で笑ったクロは完全に地面に降り立ちはせず、少し浮いた状態で止まった。私だけを先に腕から降ろす。


「ありがとうございました……」


 私のお礼の言葉に返事はない。クロは腕組みをして、そっぽを向いている。


「こいつは芦原瑞穂。ひさしぶりに狭間の宅配屋に迷いこんだ人間だ。せっかくだからこちらの世界での仕事に使ってやろうと、今、試用中だ。ただ……それだけだ」


 どうやら可哀そうなほど落ちこんでしまった綾音さんに、私の説明をしてあげたようだ。


(かなり語弊がありますけどね⁉)


 クロの言葉にはっと顔を上げた綾音さんが、少しほっとしたようだったので、言いたいことはあるが、私はもう口を挟まないことにした。


「えー、それを言っちゃったら、俺の計画がだいなしじゃーん」


 不満の声を上げたシロは、クロから凍るような目を向けられる。


「知るか」

「ちぇっ」


 シロが投げ返した下駄を履いたクロは、綾音さんが手渡してくれたもう片方も履いて、地面に降り立った。

 背中の羽は、地面につきそうなほど大きい。羽と、全身黒ずくめの装束がいつもの物と少し変わっていること以外は、人型の時とあまり変化がないようにも見える。でも体の中で見えているのは目と手だけで、あとは全て闇に解けてしまいそうに黒い。


「あの……これからも、荷物を頼んだらシロさまが届けてくださいますか?」


 おずおずと訊ねる綾音さんに、クロは目を向けはしないが、さっさと答える。


「それが俺たちの仕事だから、もちろんだ」

「ありがとうございます!」

「ちょっと!!」


 嬉しそうに頭を下げてうきうきと蔵の中へ帰っていった綾音さんにも、すかさず抗議の声を上げたシロにも、クロが表情を変えることはなかった。


「配達が終わったんなら、買いものして帰るぞ」

「はいはい」


 不満そうにクロのあとを追うシロは、私をふり返って訊ねる。


「瑞穂ちゃん、どっちと行く? 俺がいい? クロがいい?」


 振り落とされないように掴まることにもすっかり慣れたシロの白い背中と、クロに抱きしめられていた感触を天秤にかけ、少し焦りを覚えながら私は答えた。


「シロくんがいいかな……」

「やっぱりそうだよねー」


 嬉しそうに笑ったシロの背に揺られて、少し街中へ戻ったところにあるコンビニへ行った。

 

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