中編:無雲に転機が訪れる
大型連休が来て、おいたんは浮かない顔をしている
いつものEDO川。
とても穏やかな休日だった。
キラキラとした水面を見ていた。
そして無雲はボーっと思った。
「この川に飛び込んだら、楽になれるのかな」
その時自覚した。私は死にたいのだ、と。今のどうにもこうにも重苦しい心から抜け出すために、この川に飛び込んでしまいたい、と思った。そうすれば、今の状況からは抜け出せる、逃げられる、と思った。
頭の中に、釣りの事は一切無くなっていた。とにかくこの川に飛び込んでしまおう。それだけを考えていた。
その時だった────
「釣りはやっぱり楽しいな!」
おいたんがこちらを振り向いて満面の笑みでそう言った。
無雲はハッとした。
「この笑顔を守りたいと思って結婚したのに、私がここでこの川に飛び込んだら、その笑顔を失ってしまうじゃないか」
そこからの頭の回転は速かった。
「あ、仕事辞めよ」
その時脳裏に浮かんだのが、二日前のテレビ番組だ。その芸能人も、ひらめきで仕事を辞めてミュージシャンに転身したと言っていた。自分にも、その『転機』が来ていると悟った。
そして、すぐにM先生にメールを送った。
「死にたいから、仕事辞めます。診断書を書いて下さい」
M先生は、私が就職して二カ月後くらいからずっと無雲に退職を促していた。
「あなたの職場はどう考えてもおかしい。そんな所今すぐ辞めて他に行け!」
両親もおいたんも、再三再四無雲に退職を促していた。しかし無雲も頑固だったから、一年間そこにへばりついていた。
だが、この時だけは違った。おいたんの笑顔を守るためだったら、仕事なんて捨ててしまえばいいと思った。仕事は他にいくらでもある。しかし、無雲の命はひとつしか無い。おいたんの笑顔を守れるのは私しかいない。だから、今ここで死ぬわけにはいかないのだ!
***
退職の意思を固めて一番偉い上司Aに連絡をした。
「体調不良なら、何故すぐに病院に行かないんですか?」
「大型連休で病院が休診だからです」
「でも、緊急外来とかあるでしょう?」
「精神科は、そういう所ではありません。主治医に診てもらわなければ意味がありません。大型連休が明けたらすぐに診断書を貰いに行きます」
上司Aは、大きな病院のリーダーをしている割にとんちんかんだった。メンタルの病気をまるで理解していない。その病院は精神科が強い事でも有名な大きな病院だったが、請負事務の会社のリーダーはこんなレベルなのである。
このやり取りにさらなる絶望を感じ、退職の意思を強固にした無雲は、大型連休が明けるとすぐにM先生に診断書を書いてもらった。
「やーっと辞める気になったか! あなたの病状は確実に悪化している。薬もこの一年間で激増している。よく今までへばりついたね」
M先生はスラスラと『統合失調症 増悪』と診断書を書くと、万が一会社側に保険関係でうだうだ言われたら、自分の所に連絡を寄こすように言え、と私に指示を出してくれた。
それから、退職の手続きをしに、現場と本部に行かなければならなくなった。無雲はもう誰にも会いたくなかった。その職場に足を踏み入れるのも怖かった。だから、情けないが母に同行してもらった。
「この子、今目が離せないんで! 電車に飛び込むかもしれないんで!」
母は強かった。母が同行しているからか、現場の人間も本部の人間も、無雲に暴言を吐く事は無かった。そそくさと事務処理を終わらせて、その会社とおさらばした。
「いつ離職票届くのよ! もう一カ月以上経っているでしょ! 病院代十三万円を十割で立て替えているんですからね! 早く離職票送って下さい!」
こんな風に、その後のやり取りでもいつも母は強かった。
「おいたんの笑顔も守りたいけど、いつか母の事も守れるくらいに強くなりたい」
無雲は、そう新たな決心を胸に秘めた。
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