言の葉が舞い降りる

SAM-L

一枚目 桜の花が舞い降りる

1-1 晴れり今、春吹雪-陽向-

 扉の向こうの光景が僕の視界を奪った。目が眩むほどの色彩を持ったそれは、言葉と色の無い僕の日常を変えるのに十分な力を持っていた。


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 四月、中学二年生として新年度が始まり、数日が経った。

 新しい教室にも慣れてきた、そんな頃である。


 放課後、校舎一階の薄暗い廊下をひとり歩いていると、どこからかギターの音色と澄んだ歌声が聞こえてきた。魔法のようなそれに引き寄せられ、僕の足は音の鳴る方へと向かっていく。


 音楽室からだ。扉が開いている。


 開かれた重い扉の隙間から身を潜めるように覗くと、そこにいたのは一人のクラスメイトの女子であった。暖かな陽の当たる位置に置かれた机の上に座り、弾き語りをしている。窓は開かれ、カーテンはたなびき、桜の花弁が教室にはらり、はらりと舞い降りている。


 その光景はとても美しく、思わず目を奪われてしまった。この世のものとは、ましてや学校の音楽室とは思えない。僕にはそこが天国のようにも見えた。頭の中に広大な野原が現れ、その中央に堂々と聳える一本の桜の樹は無数の花弁を散らしている。


『ただ花が降るだけ 晴れり今,春吹雪』


 その曲は、正に今この瞬間の為にあるように思えた。耳に入り込んでくる旋律は美しくも儚い。



 歌声に聴き惚れ呆然としていると、いつの間にか彼女は演奏を終え、視線をこちらへ向けていた。

「森本くん?」


「あ、いや、葵さん、、す、す、す、すみません、でした」


 身を隠していたつもりだったので驚いてしまう。


「いや、全然大丈夫だよ。聴いてくれてありがとう。ドア、開いちゃってたね。まあ実は私も、前に同じように森本くんが絵を描いているの覗いてたことあるし、気にしないで」


 柔らかな声でそう言うと共に彼女は笑った。


「ほ、ほ、ほ、本当に?ぜ、全然気が付かなかったです」


「うん、君とは違ってちゃんと隠れてたからね。素敵な絵だった」


 彼女は思い出すような仕草をして微笑む。


 絵は小さい時から僕が唯一のめり込めるものだった。僕の描く世界は、誰にも邪魔されない。だから絵は誰にも見せたことが無かった。初めて感想をもらって、嬉しいような、小っ恥ずかしいような心持ちだ。


 彼女は丁寧にギターをケースにしまい、それを背負う。そして扉のあるこちらに向かってきた。


「じ、じゃあね」


 僕が声をかけると、彼女は「また絵、見せてね」とだけ言い残し教室を去った。僕の「え、ちょっと待って……」という言葉は届かない。


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 僕は呆然としていた。思えば、あのような状況とは言えど、他人ひとと会話したのなんていつぶりだろう。さっき咄嗟にしたようなただの挨拶ですらも久しくしてこなかったのだな、と思い自分に落胆したが、それは自分が好んでしていることだと思い気を取り直す。


 僕は幼い頃から吃音症きつおんしょうを持っている。所謂”どもり”だ。小学二年生頃だろうか、両親の仲が悪くなり、その影響が僕にも飛び火し、ストレスで発症するようになった。

 小学校では四年生ごろから、吃音が原因でいじめられるようになった。それはまだ軽い方であったので、耐えることができた。小学五年のある日、僕はこのいじめは、逆に僕が無視をすればなくなるということに気づき、それから人と接するということをしなくなった。

 その結果、僕へのいじめは少なくなっていったが、代わりに家の外で話す言葉を失ってしまった。

 数年前に母が家を出て、帰りの遅い父との二人暮らしでは家の中でもほとんど人と話すことがない。逆にそのおかげで吃音症の事を忘れられる時間が長かったとも言えるが。


 いじめが起きる頃になって、のめり込んだのが絵だった。祖父がアトリエをやっている影響で幼い頃から絵に触れてはいたが、いじめられていた頃は、その鬱憤を晴らすようにひたすら描いていた。いつもスケッチブックを持ち歩き、暇さえあればスケッチをしていた。

 朝起きてから学校に行くまでの隙間時間も、授業中も、休み時間も。放課後は祖父のアトリエで描いた。そのおかげでかなりの腕前になった。最も、その絵は自分の為に描いていたものだったので、評価してくれるのは祖父だけだったが。


 その絵を、初めて他人ひとに見られ、「素敵だ」という言葉を貰ってしまった。いつ見られたのだろうか、と考える。一昨日だ。一昨日、美術室の中の、いつもとは違う廊下から見えるような位置に絵を置いて描いていた。

 美術室は美術部の部室でもあるが、学校が田舎にあるために生徒が少なく、美術部に入る人などごく僅かしか居ない。その上そのほとんどが名前だけの幽霊部員な為、美術室はいつも僕の貸切状態になっている。


 そんな僕だけの空間に足を踏み入れようとしている彼女—葵琴葉—は、クラスの中心的存在である。明るくて、いつも笑顔を振り撒いているようなイメージ。そんな彼女がひとり音楽室で歌をうたっていた、ということが僕には疑問だった。

 ああいう女子達は放課後みんなでワイワイしながら帰ったりするのではないのだろうか。そんなことを考えながら今日は美術室に寄らず、学校を後にした。


 家に帰り、その隣にある祖父のアトリエに入る。スケッチブックを取り出し、真っ白なそれと向かい合うと、今日の出来事が思い出された。その景色は、鉛筆を握る僕の手を止めることなく動かした。

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