09 依頼人
運び屋の仕事から戻ってくると、事務所のドアの前に大家が立っていた。合鍵を今まさにドアノブに差し入れんとするポーズで振り向き、階段を上って来る境を見て、ぎょっとした顔をした。
「なんか用かい」
境は大股に近づいていくと、さっとドアを開けた。出かけるときに鍵はかけていなかった。
「不用心やな」
「こんな廃墟に二度も泥棒は入らないだろう」
「失礼言いな」
事務所内は可能な限り片づけてあったが、切り刻まれたソファは大家が雑に縫い合わせた修繕跡が痛ましく、ところどころ詰め物がはみ出てフランケンシュタイン博士のこしらえた化物を彷彿とさせた。
女性のための護身術コースの講師を務めるなどしてボクシングジムの会長に気に入られた境は、時々出入りしているというトラゾウなるチンピラの情報をいくつか仕入れていた。安物の事務用品や粗大ごみ置き場から失敬してきた家具はともかく、きっちり落とし前をつけずにはおれないこともあるのだ。
長椅子に腰を下ろした境の前にとぼとぼと歩み寄った大家は
「これ、派手すぎひんかの」
境の前に左手を翳した。その薬指には、真新しい指輪が光っていたが、見るからに老婆の萎びた指には大きすぎだった。
「俺にアクセサリーのことなんか訊くなよ」
と長椅子にだらしなく身を預け、一旦顔を背けた境だが、うん、と眉を寄せて大家の手を取り、指輪をまじまじと見た。どうにも、見覚えがあった。
「おい、これ――」
「下の郵便受けに小包、届いててん。ありがとうさん」
「なに勝手に開けてんだよ」
二三が数日前に購入した指輪の送り先を境の事務所宛にしていたのだと境は気付いた
「悪いが、あんた宛じゃない。友人の品物を代わりに受け取っただけだ」
「ふろむていーとうーわいって書いてあるがな」
「あんた、イニシャルはYじゃないだろ」
「わいや」
「嘘つけ」
「『なおちゆき』て表札出とるがな」
境は、ビルヂングの隣にある密林のように鬱蒼と木々が茂った大家の自宅の表札を思い出した。
奈落行
「『ならくいき』じゃないのか?」
「そんな縁起の悪い名前、親がつけまっかいな」
すっかり拗ねた大家が帰って行った後、取り戻した指輪を掌に載せて境は途方に暮れていた。いくらわけありの結婚指輪とはいえ、自分より先に別の女が指にはめたと知ったら、恐らく二三は怒るのだろう。だが、そもそも中古で結婚指輪を買う神経の持ち主だ。
ノックの音がした。境はコートの内ポケットに手を入れ、立ち上がった。すりガラスに映る人影は一つ。女のようだ。指輪を急いでコートのポケットに突っ込み
「開いてるよ」
と声をかけると、すっとドアが開いて、スーツ姿の女がヒールの音を響かせながら入って来た。女の姿を確認した境は、「よお」とフランクに声をかけようとして、やめた。女の後から、着物姿の老婦人がしずしずと入室してきたからだ。境は一瞬あっけにとられてから、言った。
「わざわざ四階まで階段でご足労頂き恐縮だが、ここは探偵事務所だ。何かの間違いではないかな」
境の言葉に、スーツ姿の三十前後の女が口を開いたが、それより早く、着物の婦人が落ち着いた声で答えた。
「浮気調査が専門、ということは存じております。人を探していただきたいのです。私の息子を」
上品な銀髪をひっつめた婦人は、矍鑠とした外見より歳をとっていそうだ、と境は内心値踏みをする。着物は、間違いなくお高いのだろう。
身振りで二つ並んだ肘掛椅子を勧めると、老婦人は躊躇いなく腰を下ろした。先の訪問で登が座っていた場所だ。スーツの女は、婦人の背後に立ったまま控えている。境と目が合っても、女は無表情で黙りこくっていた。
「まったく、どうなってんだ」
境は顎の無精髭をさすりながら、長椅子に腰かけた。
「あなたの息子さんなら、もういい歳だろう。自分で姿をくらましたんなら、多分見つけてほしくないんじゃないかな」
「あの子は繊細な子です。私は、最悪の事態を恐れています」
老婦人が僅かに頭を動かすと、後ろに控えていた女が抱えていた茶封筒の中から一枚の写真を取り出した。B6サイズに引き伸ばされた、写真。
以前見たものと同じだった。
「息子の傍家山登です」と老婦人は言った。
「何故警察に行かないんです。ハタケヤマ・グループの跡取りなら、その気になれば海外に高飛びだってできる。こんな」と境は顎で周囲を示し「しがない探偵に探し当てられるのは、せいぜい近隣の呆けた徘徊老人ぐらいなものですよ」
「失礼ですが」
老婦人は口元にうっすらと笑みを浮かべる。薄く紅を指した唇が艶めかしい。
「蛇の道は蛇、と申しますでしょう。どうやら息子は、あまり大っぴらには言えない事柄にかかわっていたようなのです」
「ほう。もし見つけたらどうするつもりです。いや、俺にどうしろというんですか。抹殺する?」
老婦人の背後に控えている女が眉を吊り上げ「ちょっ」と言いかけ、慌てて口をつぐんだ。
しかし傍家山会長は厳しい表情になり、
「お前は黙っていなさい。元はと言えば、お前がしっかりしないからこうなったんです」
と叱り飛ばした。
スーツの女は傍家山登の秘書だという。
「殺すぐらいなら、捜したりしません。それに、元警官がよい殺し屋になれるとも思えない」
あなたなら、痴呆の老人を一生懸命捜すのでしょうね、とハタケヤマ会長は冗談なのか褒めているのかわからない口調で呟いた。
*
手すりに縋りながら一階に降り立った老婦人は、流石に苦しそうに肩で息をついていた。
「会長――」
スーツの女が差し出した手を払いのけて、婦人は「早く車を」と言った。その声は冷たく突き放す感じであった。
「はい」
スーツの女は、小走りに少し離れた路上に停めてある車に向かう。
女の引き締まった腰回りやふくらはぎを苦々しく見送った婦人は、ふと顔をあげた。ビルヂングというすすけた文字がかろうじて読めるみすぼらしい建物の窓――四階の階段の踊り場に、先程別れたばかりの探偵の姿があった。探偵は彼女と目が合っても身じろぎもせず、じっと見降ろしている。
彼女の方でも、いつものように体裁を取り繕うことはせずに、顔に貼りついた怒りの表情で探偵としばし見つめ合った後、ふと微笑んで、頭を下げた。探偵も僅かに礼を返したようだったが、眼鏡をかけていない時の彼女の視力は、それほどよくない。
腹の立つ男だ、と彼女は思う。金で動かない男は厄介だ。
境は、四階の踊り場に立ち、二人連れが建物から出ていくのを眺めていた。
ハタケヤマ・グループの会長は、「金はいくらでも出す」と言った。今、仕事が立て込んでいる、と境は実質断ったのだが、相手は聞き入れなかった。強引に札束を置いて出て行こうとするので、ならば、息子さんの自宅を調べさせてくれ。と境は言った。それが引き受ける条件だ、と。
まさか、あいつの勤め先が、ハタケヤマ関連の会社だったとは。
この界隈では、本人あるいは家族や親類が何らかの形で手広く事業を展開しているハタケヤマ・グループにかかわりを持っている、と溪山が言っていた。二三の勤め先がハタケヤマ系列の企業であっても、それは不思議ではない。
それでも、傍家山会長に顎で使われる二三を見るのは、良い気分ではなかった。境の前では取り繕っていたが、外部の目がないところでは、一体何をされていることか。
境には一生手が出そうにない運転手付きの高級車が会長と秘書を載せて走り去ったのを見届けた境は、ゆっくり事務所に戻りかけ、コートのポケットに入れた指先が硬いものに触れたのを感じた。
取り出してみると、二三の指輪だった。
すっかり忘れていた。会長が横を向いた隙に、あいつのポケットにでもねじ込んでやればよかった。
境は溜息をついて指輪をポケットに戻した。
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