05 会長

 非常階段のドアは、閑散とした室内に直接連絡していた。

 ブラインドやカーテンの類は設置されていない窓からは陽光が差し込んでいる。ワックスがかけられ一足ごとにきゅっきゅっと音を立てる床、ロープで囲まれたリングが二面。天井からはサンドバッグがぶら下がっているところを見ると、ボクシングジムのようだ。

 サンドバッグの一つは、側面の低めの位置に穴が開いて砂が細い筋を作って零れ落ちていた。

 別のサンドバッグは、床上に置かれ、中身の砂を半分以上床にまき散らし、くたりとひしゃげている。その傍らには、手足を縛られ口にダクトテープを貼られた男が、芋虫のようにのたうち回っていた。

 怪鳥のような奇声を発しながら、全裸で走り回るガリガリに痩せた小柄な爺さんを追いかけまわしていたジムの会長は、非常口のドアが音もなく開いたのを目ざとく発見し、足を止めた。

 入って来たのは、上の階のカフェで働くメイド――一番人気の、奇与子だ――と、見たことのない柄の悪い中年男だった。

 もうそんな時間か、と会長は思う。

「お爺ちゃん!」

 と奇与子が呼びかけると、爺さんは足を止めて、「姉ちゃん!」と嬉しそうに近寄って行く。

 まったく、いくつになっても、自分が何者か思い出せなくても、肉欲だけは衰えないんだから大したもんだ、と会長は半ばあきれ、半ば感心している。

 まあ、そのおかげでこういう副業が成り立つわけだが。

 奇与子がこの状況を見てもたじろぎもしないので、境もすました顔で背後に控えているが、爺さんは素っ裸である。

 床に転がされている男が縋るような目つきで自分を見ていることが、そちらを見ないようにしている境にも手に取るように感じられた。

 そんな境の挙動から目を離さないようにしながら、会長が尋ねる。

「誰でえ、あんた」

 老人を追いかけまわしていたせいで息が切れ、汗だくだ。新顔に情けない姿を見られた会長の機嫌はあまりよろしくない。

 それを何となく察している境が、会長と目を合わせないよう、自分の靴の爪先に視線を落としていると、奇与子が助け舟を出した。

「この人、新しい運び屋。名前、なんだっけ?」

 境は咄嗟に「タカシ」と答えた。偽名を騙るには微妙過ぎると我ながら思ったが、もう遅い。

「運び屋? 寅蔵はどうした」

「あいつ、態度が悪いから、変えてもらった。タダで胸を触ろうとするんだもん」

 会長は舌打ちした。

「そりゃあ、悪かったな。売り物は大事に扱えって口を酸っぱくして言ってるんだが。だからいつまで経っても、チンピラなんだ。で、このあんちゃんは信用できるのか」

「傍家山の旦那の紹介」

 坊っちゃんの紹介なら間違いなかろう、と会長はひとりごちた。

 会長は境の方を向くと

「タカシ。悪いんだが、見ての通り、ちょっと取り込み中なんだ。爺さんの服がロッカールームにあるから、着せてやってくれるか」

会長が顎で示した先には、「取り込み中」の主因たる縛られた男が床をのたうち回っていた。

 境はそちらを見ないようにしながら頷いた。

 奇与子に腕をとられた爺さんは、案外素直であった。

 男性用ロッカールームのドアは開け放たれていた。境はそれを敢えて閉めずに、無言であちこちに脱ぎ散らかされた衣類をかき集め、手早く爺さんに着せた。

 ドアに背を向けてジムの方を見ないようにしていても、会長が境の様子を窺っていることはわかっていたし、向こうの声は筒抜けだった。

「うるせえな、てめえは。年老いた母親や父親にはえらく強気だったくせに、今更涙なんか流すんじゃねえよ、この屑が。たった一人の我が子でも最早耐え兼ねるんだとよ。暴れると指一本ずつへし折るぞ」

 爺さんに服を着せ終え、奇与子と共にロッカールームを出ると、縛られていた男の姿はなく、床に置かれたサンドバッグがはちきれんばかりに膨らんで、直立していた。少し揺れている気がしたが、境はそれを直視しないようにした。

「ああ、やっと大人しくなったな、爺さん。じゃ、頼んだぜ」

 会長の言葉に、境は黙って頷くと、爺さんの肩に手を置いて非常口に向かった。

「よお、タカシ」

 ドアの手前で足を止めた境が振り向くと、会長は鼻の潰れたいかつい顔に満面の笑みを浮かべていた。

「おめえ、見た目より賢いな。無口な男は好きだぜ」

 とウインクされ、境は無理矢理口角を引き上げると軽く頭を下げた。

 非常階段で一階まで下りると、そこはビルの裏側だった。

 隣の建物との間の細い通路を通って正面の通りに停車してある境の車に向かう一行の先頭を務めていた境は、片手をあげて停止の合図をしたが、爺さんは境の背中にぶつかり、奇与子は爺さんにぶつかって停止した。

「にわかに信じられませんねえ」

 ビルの正面入り口から声がして、二人の男が姿を現した。

「あんないかがわしい場末の店に通いますかね、ハタカヤマ・グループの御曹司が」

「誰にだって、人には言えない秘密の一つや二つあるだろう。タレコミ屋の情報だ。一応確認しないとな」

 二人の刑事、溪山と高城だ。高城刑事とは、警察をやめて以降、境は会ったことがなかった。

 随分老けたなあ、ギッさん。と境は申し訳なく思う。元大先輩の心労の大半は、かつての自分であったからだ。元々上背のある方ではなかったが、当時は岩のようだった体躯が、かなり縮んでさえいるようだ。

「寅蔵の持ち込む情報なんて、あてにならないと思いますけどね」

「わかってるよ。だが、早いとこ奴さんを見つけて、通常業務に戻りてえんだよ、俺は。殺しは待っちゃくれねえからな」

 二人は建物のすぐ前に停めてあった黒いセダンに乗り込んで走り去った。

 黒いセダンが角を曲がって姿を消すのを見届けると、境は覆面パトカーが停まっていた場所から少し離れた位置に停車中の車に老人とメイドを誘導した。

「なにこれ。動くの?」

 奇与子が顔をしかめて言う。

「わかる人にはわかる、クラシックカーだ」

 と境は言って爺さんを後部座席に座らせシートベルトを締めた。

 奇与子は首を振りながら爺さんの隣に乗り込んだ。

 車は、シトロエンDS21のナントカ。車にはさして興味のない境自身「わかる人」ではないのだが、屋根がグレーでボディはメタリックブルー。現在この国で主流となっている、あんこ型の相撲取りの臀部を思わせる車とは似ても似つかないクラシックな形は、ただでさえ人目を引かずにはおれないうえに、左ハンドルときた。

 境がつい最近まで愛用していたポピュラーな軽自動車が車検切れで使えなくなり、やむなく女友達から借りているものなので、文句は言えない。

 いや、こんな目立つ車、探偵の乗り物ではない、と境自身思う。

「うわっ、窓、電動じゃないんだ」

「だから、クラシックカーなんだよ」

 境は慎重に車を発車させた。傷でもつけようものなら、古い外車である、高くつくに決まっている。

「で、どこに行く?」

「お爺ちゃんの家。鷹の宮のでっかいマンション」

「鷹の宮なら、この近くだな」

「うわ、この車、ナビもついてないの」

 悪態をつきながらも、道を熟知しているらしい奇与子が道案内を務めることになった。

「で、この爺さんを『客』と呼んでいたが、老人送迎タクシー代わりなのか、『運び屋』っていうのは」

 奇与子から「仕事」の内容を簡単に説明された境は、急ブレーキを踏んで路肩に車を停止させた。簡素な住宅街の中を走っており、周辺には人気がない。

「なんだ、そのリアル川端康成みたいな――要するに、それはバイ――」

「肉体関係はないよ。だって、お爺ちゃんたち、立たないんだから」

 バックミラー越しに奇与子を睨みつけた境は言葉を失った。

 いつの間にか白塗りメイクを落としてすっぴんになった彼女はまるで――

「仏像か、お前。随分地味な顔だな。しかもお前、未成年じゃないのか」

 発育がよいので二十代の初めぐらいかと思っていたが、色つやもよく瑞々しい肌は、十代、それも、高校生よりも若いのではないかと思われた。

「徳が高そうって爺さん達から拝まれるんだから」

 奇与子はむくれて言う。

「おじさん、登から聞いてないの」

「泥酔してたから覚えてねえんだよ。――登が関与してるのか、その怪しいビジネスに」

 運転席から身をよじって振り向いた境に、奇与子は大袈裟に溜息をついて見せると、言った。

「心配しなくていいから。とにかく、お爺ちゃんの家に送り届けてよ。でないと、大変なことになるんだから。タカシちゃんは、運び屋でしょ?」

 そう言われて、境は渋々車を発車させた。手付金の札束で登の横っ面を張り倒して返却してやりたい気分だったが、そうすると大家に支払われた事務所の家賃を返済する当てもない。

 あいつ一体、どこへ行きやがった。

 刑事が登の跡を追っているらしいのも気にかかるところであった。

 一体、何に首を突っ込んでいやがる。

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