07 冥途カフェ

 いつの間にか日が暮れていた。ゾンビのような人々が湧き出して、人通りが増えた割に静か過ぎ、不穏な空気が漂っている。

 川端康成を知らない女の子にシェイクスピアを教えられ傷心の俺は、コインパーキングに車を停め、XXXX(天使)の階段を上った。二階のボクシングジムのドアは閉じたままで、「見学者歓迎」の文字が消えていた。どうやらまだ部外者に見せられるような状態まで回復していないらしい。

 三階の廊下には、相変わらずベースとギターでこんな不気味な音がよく出せるな、と感心したくなる陰鬱なへヴィ・メタルが漏れ聞こえていた。


 リ・リ・リ・リル・リル・レ・レ・レ・クイェー


 ユキがまたあのフレーズを口ずさみだし、俺は溜息をつきながら冥途カフェ・ポルカのドアを開けた。白塗りメイド達にまた親不孝を詰られるのかと思いきや、

「キヨコちゃん!」

 俺を完全に無視して、店長がユキに駆け寄って来た。

「心配してたんだよ、どこへ行ってたんだい」

「ちょっとサンドバッグに詰められてた」

 店長は息を呑んで言葉を失ったが、すぐに気を取り直した。

「とにかく、はやく着替えてきて。君のバッグはロッカーの中に入ってるからね」

 揉み手しながらユキをロッカールームの前までエスコートした店長の肩を俺は背後から掴んでこちらに向かせた。

「なんだ、あんたか」

「なんだじゃない。色々聞きたいことがある。落ちついて話ができる場所はないのか」

 照明が極限まで抑えられた店内では、飽きもせずに「ポルカ・ポルカ・ポルカ」が爆音で流れていた。数年前のヒット曲だというが、こんな陰気で呪われそうなヘヴィメタが大流行するとは世も末だ。

「仕事中なんだけどねえ」と露骨に顔をしかめる店長に

「XXXの大家に伝言を頼まれて、キヨコを連れてきてやったんだぞ。サンドバッグの中からあいつを救出したのも俺だ」


 俺は気の弱そうな店長相手に強気に出る作戦をとった。店長は顔をぐっと近づけて睨みつける俺からそわそわと目を逸らし、ついて来いとゼスチャーで示した。俺は客――チルドレンの積み上げた河原の石を蹴散らしながら店長の後を追った。

 言われなければそこにあることも気付かないであろう、ほとんど壁に擬態というか同化したドアを抜けると、そこはビルの外だった。畳半畳もないが、錆びついた非常階段の踊り場だった。隣のビルの壁がすぐ側に迫っているので解放感はない。腰の高さの細い柵は、もたれかかるには度胸がいるほど錆びてぼろぼろだった。表通りの喧騒と店からのBGMが微かに聞こえてくる以外は静かだった。冷たい外気に触れて俺は身震いした。


「何が訊きたいの?」

 と店長が拗ねたように言う。俺は下を恐々覗き込んで可能な限り柵から離れていようと試みるが、狭い空間なので無理だった。密着せざるを得ない店長の体が生温かく不快だった。

「ロッカーで死んでいた男だが」

「しっ。その件はもう済んだって、そう聞いたでしょ」

 店長が人差し指を突っ立てて俺の唇に押し当てた。顔が近い。日光を浴びない不健康な生活のせいで色白で髭の剃り跡が青々としていることが夜の人工的な明かりの下でもわかった。ぶ厚い眼鏡のレンズの奥の目は驚くほど睫毛が長く、濡れたような瞳をしている。

 俺は胸の内にモヤモヤするものを感じたが、こいつなら口を割らせることができそうだと踏んだ。そう、少し我慢さえすれば……

「あいつがここでやっていた仕事について知りたい」

 ああ、と店長は溜息をついた。

「いいじゃない、あんな男。もう二度と戻って来ないんだから」

「あんたの彼氏だったのか?」

「あんな奴、タイプじゃないから」

 店長は俺の腰に腕を回して体を更に密着させながらそう言った。俺はロッカーの中から転げ出てきた男の顔を思い出してみたが、あいつと俺は瓜二つだ。

「彼、キヨコに夢中だった。どうして男って、若ければ若いほどいいのかな」

「あんた、キヨコと同棲してるんだろう」

「行くところがないっていうから、家に置いてあげてるだけ。僕の彼氏にわざと手を出すの。どうしようもないアバズレだけど、ここじゃ稼ぎ頭だから」

 腰の辺りに硬いものが当たる度に俺は突き飛ばして逃げたくなる気持ちを抑え、店長の背中をドアに押し付け、肘をドアについて顔を近づけた。大丈夫だ、俺には柔道の心得がある。いざとなればこんなもやし、ちょいと締めあげれば数秒で落とせる。

「ロッカーの男の話だが」

「どうしても知りたい?」

 店長が潤んだ目で見つめてきた。



 店内に戻った俺は、うきうきとした店長に「何か飲む?」と訊かれ「強い酒」と答えた。店内が暗いのが救いだった。俺が打ちひしがれている様子は誰にもわかるまい。

「お酒はないの。ここは健全なカフェですから」

 と店長はしなを作って言い

「特製ブレンドコーヒー煎れてあげる。自慢のアップルパイもサービスするわね」

 俺はカウンター席に腰かけ、体を張って店長から得た情報を整理していた。

「三途の川クリームソーダと鴉がつつく腐乱死体のブルーベリーパイ」

 と客からの注文をとってきた白塗りのキヨコが、俺と店長の顔を交互に眺め、思い切り顔をしかめると

「うえあがああ」

 と意味不明な音を喉の奥から絞り出し、首を振りながらフロアに戻っていった。


 ちりんちりーんと仏壇の鈴の音が鳴り響き、新たな客が入って来たのが分かった。

 メイド達がわらわらとドアの前に集合し「この、親不孝者めが!」と通常のメイドカフェにおける「お帰りなさいませ旦那様」に相当する歓迎の意を述べるのを俺はぼんやりと聞き流していたが、急に腕をきつく掴まれてはっと顔をあげた。

 逼迫した顔の店長が、いつの間にかカウンターの中から出てきており、黙ってついてくるよう顎で示した。俺は半ば引きずられながら肩越しに振り返って、新たな客が下の階のボクシングジムの会長であることを確認した。奴はまだ暗闇に目が慣れていないから、俺には気付いていないはずだ。

 店長は途中でキヨコの腕も掴んで引きずって行き、俺達をスタッフルームに押し込んだ。俺達は明るい照明の下で目をしばたたかせた。男の死体は勿論消えており、ロッカーが並び段ボール箱が雑然と積み上げられた狭苦しい部屋だ。


「まずいわ。あいつ、乱暴なの。現役時代にパンチを浴び過ぎておかしくなったのね」

「XXXの大家が話をつけたんじゃないのか」

「つけたのよ。でも、首を振ると忘れるの、あいつ」

「金魚か鶏じゃん」

 とキヨコ、いや白塗りメイド姿のユキが悪態をつく。

「キヨコは稼ぎ頭だから手を出すなって言われてるのに、すぐ忘れるから質が悪いわ。あなた、私のために彼女を守ってあげてちょうだい」

 俺はしなだれかかってくる店長の体を押しのけて

「こんなデッドエンドに逃げ込んで奴が帰るまで隠れてろっていうのか」

「抜け道があるの」

 と店長はポケットから鍵を盗り出しユキのロッカーを開けた。

「ちょっと、プライバシー」

 ユキを無視して、店長はロッカーの中のハンガーにかかった爺さんの服を放り捨てると、取り出した鞄をユキの胸に押し付け、俺をロッカーの中に押し込んだ。

「おい」

 次いでユキの体が押し込まれてきた感触があり、俺は不本意ながらも前に進むしかなかった。ロッカーは腹を引っ込めればどうにか通過できるぐらいの細さで、その中で一歩踏み出し更に数歩進むと、少しだけ幅が広くなった。だが、あとから来るユキと並んで歩くことは不可能だった。

「行って。必ず生きて戻って来て」

 店長の声が背後から追いかけてきた。通路の中は暗く、前が見えないので両側の壁に手を這わせながら前進した。後ろに続くユキは俺のコートの裾を掴んで連なっている。

「これは、どこに出るんだ?」

 俺は背後のユキにそっと尋ねたが、彼女は答えず、ふんふんふんと低い声でハミングしているのが聞こえてきた。あの流行り歌の節だ。


 リ・リ・リ・リル・リル・レ・レ・レ・クイェー


 ユキに教えてもらわずとも、俺は答えを知っていることを思い出した。

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