地上で溺れる探偵は

春泥

PART I

01 依頼人

 今日も今日とて一人の客も来なかった。まだ夕刻と呼ぶにも微妙な時間帯だったが、他にすることもないので俺は酒瓶の入ったデスクの引き出しに手をかけた。

 その途端、遠慮がちなノックの音がした。

 デスクの真正面に位置するドアのすりガラスに貼られた『サカイ探偵事務所』の文字(こちら側からだと裏向きに見える)の隙間越しに佇む人影。女だ。俺はデスクの上に載せていた足を下ろしながら声をかける。


「開いてるよ」


 ドアの向こうの女は躊躇っているようだった。数秒の間を置いて、ドアノブが静かに回った。

 女の姿を確認した俺は、「よお」とフランクに声をかけようとして、躊躇した。おずおずと部屋のなかに足を踏み入れたユミの顔は強張り、真剣そのものだったからだ。

「どういうご用件で」

 俺は依頼人にそうするように、デスクに両肘をついて顔の前で指先を合わせた。

「ある男性の行方を捜してほしいの」

 ユミはハイヒールの音を響かせながらデスクの前まで来ると、ハンドバッグの中から取り出した一枚の写真と封筒をデスクの上に置いた。

「名前はわからない。でも、住所は知ってる。少なくとも、最近まではそこに住んでいたはずなの。XXXっていう雑居ビル。知ってるかしら」

 女は机の端にうっすら積もった埃の上に、人差し指で×バツを三つ横並びに書いてから、俺の目を見て尋ねた。

 勿論、知っていた。俺は頷いて封筒を手に取った。厚みからして五十万は入っていそうだった。

「当座の経費として、それで足りるかしら」

「この写真の男、あんたのなんなんだい?」

「それは聞かないで。ただ、今どこでどうしているのか教えてほしいの。お礼はいくらお支払いすればいいのかしら」

「成功報酬は三百万円。どうやら相当厄介なケースらしいからな。追加の経費が必要になった場合はそれも」

 俺はしかつめらしい顔で封筒を振りながら言ったが、笑いをかみ殺すのに必死だった。何かの冗談だと思ったのだ。しかし、そろそろ種明かしが欲しいところだった。

 ところが、ユミは真顔のまま頷いて部屋を出て行こうとした。

「待てよ」俺は慌てて呼び止めた。

「あんたの名前も教えてくれないのかい? この男を見つけたとして、どこに知らせればいいんだ?」

 ユミは少し躊躇った。

「ルミよ。三日後にまた来るから」

 そう言うと、女は振り返らずに出て行った。


 安酒のせいで頭がおかしくなったのではないかと不安になりながらデスクの一番下の引き出しからウイスキーの瓶を取り出した。琥珀色の液体が半分ほど残っているボトルから直にぐいっとあおったが、味がしない。二口、三口と喉を鳴らしたが、同じ。これではいくら飲んでも酔える気がせず、底に数センチ残したところで蓋を閉めて元の引き出しに放り込み、乱暴に足で蹴り閉めた。内側でガラスがぶつかる派手な音が、どこか空虚に響いた。

 気を取り直して、俺はまず、デスクの上に置きっぱなしになっている写真を手に取った。

 いつ撮られたのかわからないスナップ写真。オフィス街の雑踏の中、スーツ姿の中肉中背の中年男。上半身だけだから最近ウエストがかなりきつくなってきているなんてことは幸いわからない。少し顔を右に向けているが、ほぼ正面からのショット。見紛うことなく、俺だ。写真に写っている男は、どう見ても俺自身だった。

 次に封筒を手にとった。中身は手の切れそうな新札、全て一万円札で、きっちり五十枚あった。ユミだかルミだか知らないが、一体どういうつもりだ。


 ルミと名乗った女の名前はユミのはずだった。少なくとも今まではユミだと思っていたのだが、改めて考えてみると、そもそも知り合った時に二人ともいい加減酔っぱらっていたし、泥酔して見ず知らずの相手とベッドに倒れ込むような場合、名前などあまり気にしないものだ。

 だが女とはその後も何度か関係を持ったのだ。ユミが偽名だったとして、今になって「設定」を変更する意味がわからない。俺たちの関係は、至ってカジュアルなものだった。互いに束縛せず、気が向いたら寝る、そういう間柄だ。俺はあいつの前から黙って姿を消したわけでも、電話に応答せず音信不通になったわけでもない。現に女は俺の職場に会いに来たではないか。わけがわからなかった。


 しかもこの大金である。


 部屋の中には、女の安っぽい香水の匂いがまだ残っていた。服装も化粧も、ファッションには疎い俺の目から見てもそんなたいそうな代物とは思えなかった。こんな大金を使って質の悪い冗談を仕掛けてくるタイプとは思えなかった。俺を騙して得をするとも思えない。こっちは長いこと仕事にあぶれて完全なおけらだ。大がかりなペテンを仕掛ける値打ちもない。

 悩んでいても埒が明かないので、俺は依頼人の意向に沿って調査を開始することにした。どうせ暇だったのだ。顧客は顧客、ありがたくお引き受けすることにしよう。

 俺は来客用のソファに放り投げてあったコートを掴んだ。事務所のドアに鍵をかけ、ノブからぶら下がっている『OPEN』の札を裏返し『CLOSED』にした。そして車の停めてある場所に向かいかけて、やめた。俺の車は事務所の近くの路上に駐車してあった。ここから目的地である雑居ビルXXXまでは、徒歩で三十分程度の距離だ。最近はガソリン代もバカにならないし、久しぶりの収入を、飲酒運転でパアにするのは御免だった。この商売で免許を取り上げられるのも大痛手だ。

 真っ先に目についた自販機でスポーツ・ドリンクを購入すると、がぶ飲みしながら件の雑居ビルを徒歩で目指した。

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