発車する馬車。同乗者は魔法を看破する。
「それではグレイス夫人。またの機会に」
馬車に乗り込んだ婦人に向けて、恰幅の良い紳士が一礼する。彼のエスコートでここまでやってきたレイラ・グレイス子爵夫人は、完璧な所作でお礼を述べた。
だが、それも馬車の扉が閉まるまで。
馬車が動き出し、今宵のパーティー会場から離れた途端、彼女は真紅のドレスの裾をたくし上げ小麦色の足を晒した。そして、美しいエナメルの赤い靴を、蹴り飛ばすかのように脱ぎ捨てる。
「ああ〜、まったくもう。しんどいったら」
宮殿中の視線を攫った絶世の美姫たるレイラ・グレイスは、美しく結い上げられた栗色の髪に手を入れて、ぶちぶちと音が鳴りそうなほど乱暴に髪飾りを引き抜いていった。一つ二つと真珠の髪飾りが座席の上に捨てられる。ようやっと波うった髪が剥き出しの肩に下ろされると、雫を払う犬のようにぶるりと頭を左右に振った。
「なんと、まあ」
思わず漏らしてしまった声に、レイラはいま同乗者の存在に気付いたかのように視線をこちらへ留めた。
「公爵の心を奪った美姫の仕草とは思えませんね」
眼鏡の下の黒い瞳を光らせて続けた苦言に、しかし彼女は怯んだ様子はまるでない。海のものとも空のものともつかぬ不思議な色合いの青い瞳は、煩わしい、とばかりに細められた。
「なぁに、ポー」
一層低められたハスキー・ヴォイスで、彼女は向かいに座るヨハン・ポーの名前を呼ぶ。腕と脚を組み、不遜な態度で背もたれにもたれたレイラの振る舞いは、まるで女王のようだった。
「アンタ、恩人にずいぶんな口の効きようじゃないの」
会場の視線を集めた美貌が歪められる。レイラは獰猛な獣を思わせる笑みを突き出し、挑むようにヨハンを見上げた。
「一般階級のアンタが貴族の夜会に顔を出せたのは、アタシのお陰だろう?」
ヨハンはこれに、沈黙で応じた。一応、事実ではあった。
ヨハンは実業家だ。五年前、まだ二十四のときに小さな会社を立ち上げた。志ばかりで伝手もなく、事業に対する周囲の理解も乏しい中、全て手探りだった毎日。それでも細々と着実に信用と実績を積み重ね、ようやく軌道に乗ってきた頃に、レイラの夫であるジュリアス・グレイス子爵から声を掛けられた。
ジュリアスは、古きに
それから一年、ヨハンはジュリアスの援助の下、事業を推し進めていった。現在では一蓮托生のビジネスパートナー。新航路を共に行く同志である。
そして此度、ヨハンはジュリアスの勧めに従って、事業拡大のために他の貴族たちの援助を願うことにした。そのための顔繋ぎの方法としてジュリアスが提案したのが、彼の妻のエスコート役として夜会に出るというものだ。レイラの言う〝お陰〟とは、そのことを指している。
「で? どうだったの、成果は。良いスポンサーは見つかった?」
「ええ、流石はジュリアスです。理解のあるご友人ばかりで、とても助かりました」
ヨハンは事前にジュリアスから会うべき相手を教えられていた。そして夜会でレイラに紹介してもらったのだ。相手はヨハンの事業に興味を持ってくれ、詳しい話を聴きたいとまで言ってくれた。ジュリアスの目論見は大成功だったと言えるだろう。
「ああ、そう。そうかい」
良かったじゃないか、とレイラはつまらなそうに呟いた。ドレスの下で組まれた脚。裸足の爪先が退屈を示すように上下に揺れた。
「……対して貴女は、ご友人が少ないようだ」
会場でのレイラ様子を振り返りヨハンは言う。紳士とお喋りをしたりダンスをしていたりした彼女だが、一方で淑女と会話する様子はほとんど見られなかった。むしろ遠巻きにされていたくらいだ。それだけで彼女の評判がどんなものかわかるというものである。
「いらないよ。あんな、
レイラはヨハンの言葉を鼻で笑い、皮肉げに唇を歪めるものだから、ヨハンはますます眉を顰めずにはいられない。
「そうやって鼻に掛けている様が、
「アタシが、お高くとまってるって?」
心外だ、とばかりにレイラの眉が跳ね上げられた。
「主役を独り占めにして、殿方を侍らせて。まるで、女王の振る舞いだ。立場をわきまえないその様を、他になんと呼びましょう」
「……主役に関しては、あの若い公爵が女慣れしてないのが悪いんだろ」
まるで子どものように膨れてそっぽを向く。それから恨みがましく視線だけをこちらに向けた。
「そもそもアンタが勝手にどっかに行ったから、逃げ場がなくなったんじゃないか」
「私が商談を目的としていたことは、ご存知だったはず」
「だから邪魔しちゃ悪いと思って、アタシはアタシで好きにしていたんだけどねぇ?」
歯を剥き出しにして威嚇するように笑うレイラに、ヨハンは苛立ちを隠しきれなくなってきた。
「ご主人が居ないところで男を漁るのが、貴女の好き勝手ですか」
たまらず吐き捨てると、レイラはうんざりだと言わんばかりに大袈裟に肩を竦めた。
「……もういいや。アンタがアタシを嫌いだってことは、よく分かったよ」
それから座面に両手を置き、後ろにふんぞり返って天を仰ぐ。
「まったく、嫌になるねぇ。こんな嫌味な奴と、この狭い馬車の中で、一時間も膝突き合わせてないといけないなんてさ」
同感だ、とヨハンは内心独りごちた。いくら目の覚めるような美人でも、身の程を弁えない高慢ちきな女と一緒に居なければならないとは、まったく気の重たい話である。
叶うなら途中下車して帰りたいところだが、レイラのエスコートという形で社交界に立ち入らせてもらった以上、ヨハンには彼女を邸まで送り届ける責任がある。
王都の真ん中にある公爵邸から郊外にあるグレイス子爵邸は、馬車でおよそ一時間。レイラもそうかもしれないが、ヨハンも忍耐の時である。
「だいたい貴女はもう少し、ご主人の恩恵に感謝すべきでは?」
ただ居心地の悪い空気に身を置いてばかりなのも気が滅入り、ヨハンはなおレイラを苦言を漏らすことにした。今ここでジュリアスのために、少しでも彼女を矯正しようという意識が働いた。
「貴女の見せかけを飾り立てたそのドレスも、先程脱ぎ捨てた靴も、乱暴に取った装飾品も、全てジュリアスが貴女に与えたものでしょう」
「……そうだけど」
よほどヨハンの説教が不愉快だったのか、こちらを向いたレイラの眉間には深い皺が刻まれていた。
「それだけではない。破産しかけ、路頭に迷うところだったご実家の伯爵家を救ったのもご主人。才能に恵まれた貴女を、ご結婚前に学院に入れたのもご主人。現在子爵家夫人として贅沢をできるのも、全てご主人のお陰ではないのですか」
痛いところを突かれただろうのか、レイラは押し黙る。強く引き結ばれた唇に、ヨハンは手応えを覚えた。
「だというのに貴女は、ジュリアスの居ないところで好き勝手してばかり。お立場を忘れているとしか思えない」
「しょせん政略結婚だ。アタシは金で買われただけの女だよ?」
「だから責任がないとでも? 経緯はどうあれ、妻となった以上は、それ相応の責務というものがあるはずです。貴女はそれを成しておられるのですか?」
少なくとも、ジュリアスは浮気もせず、レイラに尽くしているように見えた。なら、政略結婚だろうがなんだろうが、それに値する義理というものがあるはずだ。
そう固く信じるヨハンは、自分でも気付かぬうちに気分が高揚していた。するすると言葉が口から出てくるのに任せて、レイラに畳み掛けていく。
「王子に見初められ、妃の座に納まったことで自惚れているようですが、しょせん貴女は灰かぶり。魔法はただのまやかしで、ご自分は卑しい身であることをお忘れにならないことです」
青い眼差しが、真っ直ぐに自分を射抜いていた。少しだけ見開かれた目。膝の上で握りしめられた両の拳。彼女はただただヨハンの説教に衝撃を受けて固まっている。
その姿に、ヨハンもまた硬直する。理由も解らず、ただ自分がやらかしてしまったことにだけ気が付いた。
「……はっ。ずいぶんな言われようじゃないか、アタシも」
凍り付いた空気の中で、レイラの口元が歪む。目を伏せ、長く息を吐き、身体の力が抜けていく。
「認めるよ。アタシが見てくれだけの卑しい女だっていうのも、旦那のお陰で今の暮らしができてるっていうのもね」
座席にしなだれるように座った彼女は、諦観と憂いが混じった視線でヨハンを見た。
「で? だから? 離婚でも勧める気?」
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