第196話土下座

 王国から帰ってきたエルピスは、月の明かりが照らす渡り廊下で地面に膝を曲げ頭を地面にこすりつけていた。

 木造の床であるとはいえ夜の廊下は肌寒い、そんな中でもエルピスはそれを気にすることなく誠心誠意謝罪の言葉を述べていた。


「本当にすいませんでしたっ!」


 エルピスが謝罪の言葉を述べるのにはもちろん理由がある。

 それは今日の、正確には昨日の出来事ではあるがレネスを恋人にしてしまった事だ。

 エルピスがこの世界に来て初めてアウローラ達に告白した時になんと口にしただろうか。

 覚えていないわけではない、もちろんあの時の言葉はすべて覚えているし、アウローラ達が口にした言葉だって覚えている。

 平等に愛する、浮気をしたら殺される。

 それがたった二つの彼女たちから提示された条件であり、エルピスが守るべき絶対条件である。

 今回エルピスは後者である浮気をしないという条件を破ってしまったのだ、だからこうしてエルピスはただ謝罪をもって彼女たちに説明をしていたのだった。


「母さん、あれは……」

「お兄ちゃんも大変なのよ。イロアスもああしてよく土下座していたわ」

「父の尊厳がぶっ壊された音がしたよ今」


 ひそひそと後ろで会話をしている家族の事はまあ今回に関しては無視しよう。

 この羞恥の感情も含めて土下座というのは効果を増すのだ、謝罪を行う上でそれが重要な要素なのだとしたらエルピスはそれも甘んじて受け入れようではないか。


「えっと……何してんのエルピス」

「師匠の件は全て俺の不徳が致すところ。願うなら腹を切って――」

「ちょっとちょっと! エラこの馬鹿取り押さえて!!」

「エル、お酒でも飲んできましたか? そんなに錯乱して」

「とりあえず廊下寒いし回収しましょ」


 土下座した状態で首根っこをつかまれたまま引きずられていったエルピスは、部屋の中央に優しく置かれる。

 後ろでは障子がぴしゃりと閉まる音がして、エルピスにはこれから始まる審問の開始の合図のようにも感じられた。

 エラとアウローラの二人部屋に引き込まれたのは普段なら少しはドキドキするイベントだが、今日は別の意味でドキドキしているのだから勘弁してほしい。

 下を向いたままのエルピスは両サイドにあるベットがギシリと音を立てるのを耳にしながら再びゆっくりと口を開く。


「今回は私のせいでお二人に大変不快な思いをさせてしまい……」

「まって話が見えないわ。本当に酔ってる?」

「酒は入れてないから酔って無いよ。時差ぼけはあるかもしれないけど」


 朝と夜を何度も繰り返せば時差ボケも相当なものである。

 エルピスが人間と同じように時差ぼけするのかという前提の話は抜きにしてだが。


「ということはエル、夜のお店にでも行ってきた?」

「え!? ホントに!? どう、お店の人可愛かった?」

「アウローラそっちは大丈夫なのね。てっきりダメなのかと」

「だってエルピスついてないからできてもボディタッチくらいじゃないの、それに男の人は多少遊ばせないと本気になるってお母さんが昔言ってたわ」

「なんの話をしてるのさ二人とも」


 頭を下げたままでいるつもりだったエルピスは、そんな二人の会話に耐え切れなくなり頭を挙げる。

 二人の表情を見てみればどうやら怒っているわけではなさそうだ、冗談を口にできるのだから心に余裕はあるのだろう。

 もしかすればまだエルピスがレネスに告白された事すら知らない可能性もある。

 そう考えた結果エルピスは素直に昨日有った出来事を一から詳しく説明し始めた。


「――と、こんな感じで師匠に告白されてオッケーしちゃいました」

「ようやくなのね、おめでとうエル」


 反省して肩身が狭くなっているエルピスに対し、謝られる側であるエラは随分と笑顔である。

 彼女は一夫多妻制についても疑問を感じていないエラはそんな反応だろう、エルピスもそれは予想していた。

 問題はアウローラ。

 彼女の顔色を伺ってみると意外にも驚いた表情すら浮かべておらず、それがエルピスにとってはまた怖い。


「ありがとう……ってそうじゃなくて、約束守れなかったから」

「レネスさんはまた別口じゃない? 見てたらエルピスが好きになるだろうなって分かってたし」

「うっ、そんな分かりやすい?」

「自立できる人でかつ気の強い人物、アンタの好きな女のタイプどストライクじゃん。

 学園で見た時から好きになるだろうなぁと思ってたわよ、最初に美人な女の人が来たってあんたを呼んだの誰だと思ってるの」


 怒っていなかったのはエルピスにとって嬉しい出来事ではあるが、趣味趣向がここまで周知の事実であると多少は羞恥の感情も覚える。

 だからと言って許されることだとは思っていないが、先ほどまでに比べれば多少は心も軽くなる。


「まぁ、私達にそうやって謝罪する意思があるのは良い事だと思うわよ。私もレネスさん以外なら多分切れてたし」

「私は別に構いませんけどね、メイドですし」

「エラ何度も言っているけれどその考えは良くないわよ、貴方も私と同じ立場なんだから」

「そうは言ってもアウローラ、私の今の状況は奇跡みたいなものなのよ?」

「いいのよ、奇跡には甘えなさい。エルピスもしっかりしなさいよ?」


 改めてじっとりとした目線で見つめられ、エルピスは背筋を伸ばして言葉を返す。


「はい。すいませんでした」


 エラの認識についてはエルピスも言いたいことがある。

 メイドという立場であることを受け入れて一歩後ろに下がるのはエラの悪いところだ、できれば他の人達と同じようにして接してほしいという思いもある。


「謝ってばかりじゃダメよ、反省しないと」

「ところでエルピス、今日いくら使ったか私聞いてないんだけどそろそろ聞いてもいいかな?」

「えっと……後じゃダメ?」


 だがそんな立場を保っているからこそエラは金銭について誰よりも厳しいい。

 後からこうして説明する機会が発生することは予想していたが、改めて聞かれると答えにくいものである。

 どうしようかと一瞬迷った後にエラに対して言葉を投げかけてみるものの、下手に出ながら機嫌を伺っているエルピスにたいしてエラの表情が揺らぐことはない。


「メイドとして彼女として、エルピスのお財布を管理してあげるのは当然だと思うの」


 したから覗いてみればその目の奥にあるのは確かな決意。

 どうやっても動かせない決意がそこには確かにあった。


「仕方がない、アウローラ骨は拾ってね」

「庭に埋めといてあげる」

「これが今日の領収書です」


 王国の中でも有数の店舗なだけあってわざわざ手書きで書かれた商品名と値段が記載されたそれをエラに対して手渡すと、その視線は長い長いメモに書かれた数字をただひたすらに追っていく。

 既に支払い終えているのだから値段がどれくらいかはエルピスも理解している、だが何かの手違いで間違った数値が記載されているのではないかと願ってしまうのもきっと仕方のないことなのだ。


「どれどれいち…じゅう…せん…まん…」


 数字の桁が増えていくたびに彼女の声音は暗いものへと変わっていく。

 想定していたよりも遥かに多い金額に彼女の頭は考える事をやめてしまったのだろう。


「領収書なっが、スーパーで2万円分買った時よりあるわよこれ」

「――き、金貨10万枚? 10万枚!?」

「ああ、エラが先に壊れちゃった」


 なんのけなしにアウローラがそう口にするが、エラ本人としては頭が痛い。


「やっぱり使いすぎかな?」


 そして使った本人はこんな事を口にしているのだ、さらに頭は痛くなる。

 いっそ割れてしまった方が楽なのではないかと思える頭を動かしながら、エラはポケットから帳簿を取り出すと改めて取り付け出す。

 そんなエラの横でエルピスの言葉に対してアウローラが何気なく意見を述べる。


「別に良いんじゃないの? だってエルピスが稼いだお金でしょ、そりゃ家計簿つけようとしているエラがこうなっちゃうのは仕方がないけど私は別に自分のお金なら好きに使って良いと思うわよ?」


 自分が稼いだお金なのだ、生活に必要なお金が残っているのであれば後は好きにすればいいだろう。

 そう考えられるアウローラもやはり貴族の娘なのだろう。

 この世界で莫大な資産を有している彼等からしてみればエラの様な庶民の金銭感覚はきっと理解できないのだ。


「アウローラ先月金貨千枚のブレスレット買ってたもんね、しかも全く装飾もない無骨なやつ」

「違うのよエラ。あれはかの有名な土精霊の巨匠である──」

「言い訳無用! 二人の金銭感覚については私からも言わせてもらいたいことが山のようにあります」


 稼いだ金銭に対して自由にしていいという考えのアウローラを間違っているという気は一切ない。

 ただ考えの相違はいずれ問題となる事が多い、いまのうちに考えを擦り合わせておくのはそう悪い判断ではないだろうというのがエラの考えだ。

 一歩も引かない覚悟のエラに対して、アウローラもエルピスもその対応は軽やかなものである。


「そうは言われても……だってこの世界お金稼ぐの楽だし」

「世の中舐め腐ってるわよ隣の奴。こいつ差し出すから私は許して?」

「あーっ! 売ったねいま確実に! 俺の事売ったよね!?」

「良いじゃない今日の分の出費もそれでカバーしなさいよ」


 子供の頃に五百円が大金であったのに大人になると頼りなさを感じてしまう、それはただ単純に収入の増加によって消費が増える事が原因である。

 エラの給金は基本給として金貨5枚、少ない様に思われるかもしれないが成人二人の一ヶ月分程度の給料は出ているのでメイドとしてはそれなりに高級取りの部類に入るといえるだろう。

 一年で金貨60枚として1666年と半年働けば稼げる金額だ、それを1日で使って来たとなれば驚いてしまうのも仕方がない。

 だが貴族の娘であるアウローラは? 最高位冒険者であるエルピスは? 家計簿を管理しているエラは二人の稼ぎがどれほどなのか理解している。

 意外なことに月によってはアウローラの方がお金を稼いでいることもあるほどに、二人はこの家の稼ぎ頭なのだ。


「そもそもですね、金貨10万枚を稼ぐのがどれほど難しいことか分かりますか?」

「大商人が調子の良い年にあげる売り上げくらいの金額です」

「そうです。個人で稼ぐのにはそれ相応の時間がかかる莫大な量の金貨、それをあろうことが1日で使うとは言語道断ですよ。

 質素倹約は人の世を生きていく上で必要なものです」


 いまはそれで良いが未来がそれで通ってくれるとは限らない。

 そんな思いを込めてエラがアウローラに対して説明すると、アウローラは目を丸めながらエラの腰についた短刀を指さす。


「でもエラが使ってるその武器の値段多分結構やばいわよ?」

「えっ」

「鍛治神であり魔神と龍神であるエルピスが己の鱗や魔力を大量に使って作ったのがいまの私達の装備品でしょ? それ考えたら多分金貨10万枚どころの価値じゃ済まないわよ? その短剣すらいくらの価値がするか」


 エルピスが支給している武装は装備一式から始まり生活に必要なものから雑務のものまで、最近では魔界で農作業を始めようとフィトゥスが鍬を作ってもらっていたのが記憶に新しい。

 それら全ては鍛治神の知識と多数の神の力によって作り出された物であり、この世界の理すら変えてしまうほどの武装である。

 鍛治神達が市場にその武装をあまり流通させないのは、あまりにも過ぎた力を与えてしまい世界のバランスが崩れることを危惧した物なのだがエルピスはそんなことを知らない。

 だからこそ好き勝手やっているし、だからこそエラも頼めば数秒で出来上がるそれがそんなにも高価な物だとは思いもしない。

 分かるものにしか分からない価値というのは、使っていても結局分からないままなのだ。


「嘘ですよね、私これ今日便利だから魚捌くのに使いましたよ?」

「分かる。よく切れるよねそれ」


 確かによく切れたがそんなことに使ってよかったのだろうか。

 思い返せば本棚の留め具から始まりエルピスには様々な物を頼んでいた過去がある。

 この中で最もお金使いが荒かったのがまさかの自分、そう結論に至ったエラは顔にこそ出さないもののこっそりと落ち込んでいた。


「まぁそんなわけで金銭感覚の矯正は当分難しそうね、諦めなさい」

「そ、そんなぁ……」

「まぁ今日は三人で寝ればいいじゃないの、恋バナでもしよっか」


 そんなエラをみて少し微笑みながら、アウローラは付き合いなさいとエルピスを巻き込んで恋バナを始める。

 こうしてなんだか有耶無耶のままに、エルピスとレネスの関係は認められたのだった。

 その後エラがエルピスに頼み事をする機会が少し減ったとかなんとか。

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