第三十一話「悪いな、ミコト。お前の望みは叶えてやれない」

 高速バスに乗り込み、ようやく落ち着いた俺は、茶封筒の中身を確認した。お給金と退職金だと言っていたけど――。


「これは、ちょっと……」


 あまりにも多すぎる。十日前に中山競馬場で全十二レースの三連単を的中させたとき。そのときの払い戻し金額と同じくらいの札束が入っている。つまり二百万円近く。

 返さないと……と、思ったけど。今更、藤枝邸に戻れるわけもない。


 ――残念です。


 秋穂さんは俺に背中を向けて、最後にそう言った。

 長い髪をひるがえして背中を向けたとき。一瞬、見えた横顔には明らかに失望の色が浮かんでいた。肩を落として、眉を八の字に下げて、今にも泣き出しそうな顔をしていた。

 千鶴ちゃんにホットケーキを作ってあげたことが秋穂さんにバレてしまったとき。

 ミコトに告げ口されて、秋穂さんに呼ばれて。秋穂さんの部屋で千鶴ちゃんたち妹にも自分にも近付かないようにと改めて忠告されたとき。


 ――……男なんて同じと、私を失望させないでくださいね。


 そう言った秋穂さんは人形のように無表情で、ガラス玉のように無機質な目をしていた。失望させないでと言いながら、何の期待もしていない、諦めた目をしていた。

 でも、今日の秋穂さんは失望していた。あきらかに失望していた。

 それはつまり期待して、裏切られたということだ。他でもない、俺に――。

 高速バスのイスに深々と腰かけて、俺はため息をついた。

 秋穂さんに呼び出されたのは今朝、夏希ちゃんと千鶴ちゃんが車で高校へと向かうのを見送ったあとだった。

 ミコトと二人で使っていた使用人部屋を片付けて、ボロアパートから夜逃げするつもりでまとめた荷物を詰め直して、昼前には藤枝邸を出た。

 夏希ちゃんと千鶴ちゃん、ノエルにお別れを言うことはできなかった。でも、満足はしている。

 車に乗るとき。これまでは後部座席に夏希ちゃんとノエルが、助手席に千鶴ちゃんが乗っていた。でも、今朝、見送ったときには千鶴ちゃんも後部座席に乗り込んでいた。

 夏希ちゃんは犬のぬいぐるみを抱きしめて嬉しそうに笑っていた。千鶴ちゃんも、はにかんで微笑んでいた。二人の顔を見上げてノエルもゆっさゆっさと尻尾を揺らしていた。

 広い藤枝邸のすみにある荒れた裏庭で、迷子の子供みたいに頼りなげな表情をしていた千鶴ちゃんが居場所を見つけた。夏希ちゃんと薄っぺらいホットケーキでお茶会をして以来、荒れた裏庭には行っていないらしい。

 千鶴ちゃんと本当の家族になりたいという夏希ちゃんの願いも、きちんと叶えられた。

 秋穂さんも、夏希ちゃんと千鶴ちゃんが仲良くなったことを喜んでくれていた。誤解とは言え、最後に期待を裏切って傷つけてしまったのは心残りだけど――。


「目の前で困っている人たちを、助けられた……んだよな」


 ミコトだってそうだ。

 ミコトは、目的は果たせたと言って俺の前から消えた。ミコトが望む通りになった。なら、これで良かったのだ。

 その結果、千鶴ちゃん、夏希ちゃん、秋穂さん――藤枝家の三姉妹に二度と会えなくなるとしても。

 その結果、未来が変わってミコトが生まれて来なくなるとしても。

 ミコトが、消えてしまうとしても――。


「あいつがそれを望んでいるんだから、これで良かったんだ」


 言い聞かせるように呟いてみたあとで、俺は乱暴に襟首をかいた。

 どっちにしろ藤枝邸に戻ることはできない。ミコトの行き先もわからないから、追い掛けることもできない。

 考えたところでどうしようもないのだ。

 それよりも、この先のことを……東京に戻ってからのことを考えないと。

 新しい部屋を借りて、火事で焼けてしまった家具や家電を全て買い直さないといけない。ただ、まぁ、お給金と退職金を十分すぎるくらいにもらったから、お金の心配は全くないけれど。

 高校を卒業したあと、バイトを掛け持ちしながら貯めたお金もある。介護系の専門学校に通うために貯めていたお金だ。

 ぎんじいちゃんが老人ホームに入ったとき。まだ小さかったから漠然とだったけど、そういう仕事に就こうと心に決めた。

 今からだと今年の受験にギリギリ、間に合うだろうか。頭がいいわけじゃない。一年間、試験勉強や授業内容の予習をして。来年、受験した方が安心かもしれない。


「いや、その前に……」


 俺は腕組みをして呟いた。

 まずは部屋を探さないといけない。部屋自体は不動産屋で調べてもらうにしても、どこの駅周辺で借りるかくらいは候補を決めておかないと。

 できるだけ専門学校の近くがいい。学校は決めてあるから最寄り駅を確認して――。


「……」


 専門学校のサイトを開こうとスマホを取り出した俺は、すぐに手を止めた。

 ミコトが検索したのだろう。検索履歴の真ん中あたりに〝アクションスター 次走情報〟とあった。お気に入りの競走馬の次走情報を調べたのだろう。

 思わず選択して、検索ボタンを押した。しばらく検索結果を眺めていた俺はため息をついた。昨日だか一昨日だかも検索していたはずだ。検索してもわからなかったらしく、


「次はいつ走るんですか」


 と、言って唇を尖らせていたのだが――。


「あの野良猫、思いっきり見逃してるじゃねえか」


 一週間以上も前に、情報サイトに次走情報が掲載されている。確定ではないけれど、そこそこ信ぴょう性の高い情報だ。

 ミコトお気に入りの栗毛の競走馬が次に走るのは今週末。今日が月曜だから、ほぼ一週間後の日曜――二〇一九年二月一〇日だった。


「あいつ、気付くかな」


 呟いて、高速バスの窓から外の風景を眺めた。来たときは夜行バスだったから暗くて何も見えなかった。それでもミコトは窓にへばりついて、流れ去っていくライトを猫みたいに目で追いかけていた。

 でも、今日は昼のバスに乗った。今は十四時くらいだろうか。外は明るくて、走り去っていく車もはっきり見える。

 ミコトはスマホを持っていない。金だって、大した額を持っているわけじゃない。競馬新聞を買うなんて発想があるかどうか。

 でも、なんとなく。どこかでアクションスターの次走情報を聞き付けそうな気がする。だってあいつはボス野良猫みたいにしたたかなやつだから。

 白猫みたいなミコトを思い出して、俺は唇の片端をあげて笑った。

 

 ――あとは元の時代に戻って死ぬか、そのうちに消えるかを待つだけです。


 俺と別れる直前、ミコトはそう言っていた。ミコト自身も過去を変えた影響がいつ出るのか。自分がいつ死んだり、消えたりするのかわからない……と、いうことだろう。

 もしかしたら、来週末。アクションスターがレースに出走しているときも、元気にこの世界にいるかもしれない。

 でも、もしかしたら、いないかもしれない。明日には消えてしまっているかもしれない。いや、もう、すでに――。


「……っ」


 細くて、小さな白い野良猫が人混みに紛れて。その姿が霧のように消えていくのを想像して――。

 息が止まりそうになった。

 心臓が止まりそうになった。

 俺の手元にはミコトと出会う前にはなかった大金がある。しばらくは生活に困らないくらいの大金だ。

 ボロアパートの一室は失ったけど、夜逃げするつもりで荷物をまとめておいたから、大切な物は何一つ失っていない。ぎんじいちゃんから貰った大切な馬のぬいぐるみも、カバンの中にちゃんとある。

 なのに――。


「なんで、何もかも失った気分なんだよ……!」


 くしゃりと前髪を掻き上げて、窓の外に目を向けた。窓に映る自分自身と目が合って、うつむいて唇を噛んだ。

 どうしても、思い出してしまうのだ。

 ミコトと夏希ちゃんがどっちもどっちなことで言い合っている姿を。

 そんな二人に苦笑して、ノエルの頭を撫でながら茶々を入れる千鶴ちゃんの姿を。

 賑やかな妹たちを一歩離れたところから、穏やかな微笑みで見守る秋穂さんの姿を。

 昨日のお茶会での光景を、どうしても思い出してしまう。思い出して、胸が痛むのだ。


「……」


 高速バスのイスに深く腰掛けて、俺はゆっくりと息を吐き出した。

 決まってる。

 千鶴ちゃんと夏希ちゃんと秋穂さん、そして何より――ミコトの存在が、いつのまにか俺の中で大きくなっていたから。たった半月かそこいらのことなのに何もかもを失った気分になるほど、大きくなっていたからだ。


「あいつが望んでるんだから、これで良かった……?」


 違う。そんなわけない。

 俺はそんなこと、望んでいない。

 ミコトに死んでほしいとも、消えてほしいとも思っていない。太々しくて、図々しくて、ボス野良猫みたいに可愛げのないやつだけど。

 俺の目の前からいなくなってほしいなんて、少しも思っていないのだ。


 ――目の前で困っているやつがいるんなら、助けてやるのは当然なんだよ。


 にこりともせずに俺の頭をくしゃりと撫でて、ぎんじいちゃんはそう言った。

 その言葉を、想いを、俺は引き継ごうと決めて、今まで行動してきたつもりだった。目の前で困っている人がいたら助けるようにしてきた。助けを求めている人を助けるようにしてきた。

 でも、それじゃあ、ダメだったんだ。全然、足りなかったんだ。

 ぎんじいちゃんは俺が望んだから助けてくれたのか。助けを求めたから助けてくれたのか。近所のじいちゃん、ばあちゃんは?

 違う――!

 ぎんじいちゃんも近所のじいちゃん、ばあちゃんも俺が何も言わなくたって助けてくれた。俺は望んでないと言っても、拒絶しても、きっと助けてくれた。

 俺が引き継がなきゃいけない想いはそういう想いだったのに。なのに俺は、目の前の相手が困っているか、助けを求めているか、望んでいるか。そんなことばかり気にして――。


「……っ」


 自己嫌悪やらなんやらで髪をバリバリと掻きむしったあと、俺は自分の頬を叩いた。両頬がピリピリと痛くなるほど思いっきり。

 深く、息を吐き出す。


「悪いな、ミコト。やっぱりお前の望みは叶えてやれない。……邪魔してやる」


 低い声で呟いて、俺は腕組みをした。

 ミコトの居場所については全く見当がつかない。

 なら、俺が向かうべきは藤枝邸だ。藤枝邸に戻って、秋穂さんの誤解を解いて。もう一度、住み込みのバイトとして雇ってもらう。

 秋穂さん、夏希ちゃん、千鶴ちゃんの藤枝三姉妹との――ミコトの母親との縁が切れないように。ミコトが生まれてくる未来に繋がるように。

 俺はもう一度、藤枝三姉妹に向き合わなければならない。

 助けを求められたからじゃなく、自分の望みを叶えるために――。


「俺は、お前を絶対に、死なせたりも消えさせたりもしない」


 一人呟いて、俺はアクションスターの次走情報が表示されたスマホを握りしめた。

 いっしょでなくても構わない。俺自身が隣にいなくても構わない。

 必ず、ミコトに来週のレースを見せるのだ。

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