第二十三話「お前、心当たりがあるんじゃないか」

 藤枝邸ただ一人の男である俺は、使用人用のお風呂を一番、最後に使うことになっていた。


「お帰りなさい、父さん」


 風呂からあがって、ミコトと二人で使っている使用人部屋に入ると、ベッドにうつ伏せになったミコトが出迎えてくれた。ミコトはすでに寝間着代わりのジャージ姿だ。枕にあごを乗せて、俺のスマホをいじっている。


「何、調べてんだ」


「アクションスターの次走情報です」


 アクションスターはミコトお気に入りの競走馬だ。

 色々と調べたいこともあるだろうと思って、俺のスマホは好きに使っていいと言っておいたけど――。


「まさか、調べてるのが競馬についてだとはな……!」


「次、いつ走るんですか。アクションスターはいつ走るんですか!」


「知るか……って、お前! 腕を引っ張るな、爪を立てるな!」


「……ぶにゃ」


 俺の腕にしがみついてジト目で見上げてくるミコトの顔面を、アイアンクローの要領で掴んで引き剥がす。踏まれた猫みたいなダミ声で鳴いてジタバタしたあと、ミコトはようやく俺の腕から離れた。

 自分のベッドの端に腰かけた俺は、自分のベッドの上にぺたんと座り直したミコトと向き合った。


「なぁ、ミコト」


「なんでしょうか、父さん」


「お前、千鶴ちゃんが夏希ちゃんを避けてる理由に心当たりがあるんじゃないか」


 ミコトの肩がぴくりと跳ねた。

 今日、千鶴ちゃんと夏希ちゃんが廊下で鉢合わせたとき。二人の顔を交互に見たあと、ミコトは眉間に皺を寄せていた。それで、もしやと思ったのだが――。


「……どうして、ですか」


 妙な間があったあと、ミコトはそう言って唇を引き結んだ。その表情を見て確信した。ミコトには何か心当たりがある。少なくとも、何か引っ掛かっていることがあるのだ。


「なぁ、教えてくれよ。千鶴ちゃんは、なんで夏希ちゃんのことを……」


「父さん」


 俺の言葉を遮って、ミコトは淡々とした口調で言った。


「父さんは僕が過去ここに来た目的を覚えてますか?」


 ――僕は……僕を死刑に処すために、過去ここに来たんです。


 ミコトがいつかの夜に言った言葉がよみがえった。

 俺とミコトの母親が出会わないようにするため。もし出会っても、仲良くならないよう邪魔をするため。ミコト自身が生まれて来ないように過去を変えるため。

 そのためにミコトは、未来からここに来た。

 突拍子のない話過ぎて完全に信じているとは言えない。でも、全くの嘘だとも思えない。少なくとも、ミコトの目的が〝それ〟だということは信じている。


「夏希と千鶴を仲直りさせたら父さんの株が上がってしまいます。秋穂、夏希、千鶴の誰が僕の母さんかはわからないけど、とにかく僕は父さんと母さんの仲を邪魔するために来たんです。父さんと母さんの仲が深まるきっかけになるかもしれない情報なんて、絶対に教えません」


 だから、ミコトがツンとそっぽを向くのも予想できた。


「この、野良猫……!」


 予想できたからと言って、腹が立たないわけでもないけれど。


「父さんこそ、なんで夏希に協力してるんですか」


 拳を握りしめて震わせている俺のことなんて完全無視で、ミコトは尋ねた。


「なんでって……夏希ちゃんが秋穂さんに一言、言うだけで、俺はせん馬ルートなんだぞ! お前は女だから追い出されるだけで済むだろうけど、俺の場合は……」


「だから、秋穂に追い出されたり、せん馬にされる前に、自分から出て行ったらいいじゃないですか。秋穂も、早々に次の仕事を見つけて出て行くようにって言ってたわけですし」


 ミコトの言葉に、うぐっ! と、言葉を詰まらせた。


「僕は、父さんと母さんの仲を邪魔するために父さんのそばにいます。この邸にいたいわけじゃない。父さんが出て行くなら、喜んでいっしょに出て行きます。夏希の脅迫に大人しく従う必要なんてない。父さんが頑張る必要なんて、何もないんです」


 ミコトは無表情な目で俺をじっと見つめた。正論と言えば正論だ。

 でも、ミコトが望む通りにするか、ミコトの邪魔をするか。まだ俺は決断できていない。

 それに――。


「夏希ちゃんが困ってるんだ。目の前で困っているやつがいるんなら、助けてやるのは当然……だろ」


 俺はぎんじいちゃんの言葉を呟いて、唇を引き結んだ。


「また、それですか」


 ミコトの眉がほんの少し動いた。わかりにくいけど、顔をしかめたらしい。

 俺にとっては大切な言葉だから、ことあるごとに口にしてしまう。未来の俺も繰り返し言っていたようだから、いい加減、しつこいと思っているのかもしれない。

 唇を尖らせるミコトに苦笑いして、枕元に置いてある馬のぬいぐるみを手に取った。


「この馬のぬいぐるみ、ぎんじいちゃんがくれた物なんだ」


 ぺたんとおすわりしたポーズの、黒っぽい毛の馬。日本競馬界で最も有名な競走馬かもしれない。ディープインパクトの引退レースで販売されたアイドルホースぬいぐるみだ。


「お前、俺の母親のことって聞いてるか?」


「僕のお祖母ばあちゃん……ですか? 聞いてないです、何も」


 やっぱり、そうか。

 首を横に振るミコトを見つめて、俺は苦い笑みを浮かべた。

 今の俺も、母親の話を積極的に人にしたいとは思わない。自分の娘かもしれない相手なら。血が繋がっているかもしれない相手なら、尚のこと。

 未来の俺も同じ気持ちだったのだろう。そういう妙なところが一致するから、未来から来たとか、俺の娘だなんて突拍子もない話も鼻で笑えなくなってくるのだ。


「あんまり、したくない話だから簡単に話す。……うちの母親は未婚で俺を産んだ。すごい男好きでさ、俺ができちゃったのもうっかりだったって。父親もわからないらしい」


 ミコトの顔を見るのが怖くて、俺は馬のぬいぐるみを見つめた。


「もっと早くに気付いてたら、ろしたのにって。お前は腹にいるときからチビで、隠れるのが得意な卑怯者だったって、頭を小突かれながらよく言われた」


 黒いたてがみをそっと撫でながら早口で話す。


「俺が小さい頃はよく男を部屋に連れ込んでた。ボロアパートのあの部屋。そのあいだ、俺は外に追い出されんの」


 朝でも夜でも、夏でも冬でも、お構いなしだ。小学校に入るか入らないかのガキが家から追い出されて、行く当てなんて大してない。


「俺がガキの頃にはもう、ボロアパートの住人はうちとぎんじいちゃんだけだった。それ以外は空き部屋」


 俺が住んでいたのは二階の部屋だ。すぐ隣の部屋も空いていたんだから、そこに入り込んだって良かったのだ。でも、毎回のように違う男と母親の声が薄い壁越しに聞こえるのが嫌で。住んでいた部屋から一番遠い一階の部屋に潜り込んでいた。


「あの日も空き部屋に潜り込もうとして、ぎんじいちゃんに見つかったんだ」

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