第59話 失ったもの

夏休み最後の朝が来た。

いつの間にか机に突っ伏して眠ってしまったようだ。

部屋に差し込む日の光の中に雀の鳴く声が聞こえた。

時計を見ると午前6時。

母親は既に起きているようで居間と一緒になった台所からは朝食の準備をする音がした、父親は何があっても決まった時間に必ず朝食を摂るからだ。

顔を洗いに風呂場に向かう龍一。

洗面所と言うものが無いので、風呂場で洗面器にお湯をためて洗濯機の上に乗せてお湯をこぼさぬように顔を洗う。台所を使っていなければ台所のシンクで顔を洗うのだ、裕福な家ならば洗面所と言うものがあると思うが、龍一の家はこれが普通だった。


『ごはんだよ』


顔を洗い終わると、母親のぶっきらぼうな呼び声がしたので席に着く。父親も一緒なので正座をし、手を合わせてからいただく。味噌汁とお茶が必ずセットなので幼少の頃からお茶には慣れ親しんでいた龍一。目玉焼きと焼いたベーコン、龍一は目玉焼きには醤油、がっちり焼いても半熟でも問題ないが、半熟の場合はごはんに乗せる、卵と醤油が染みこんだご飯が好きだった。


『龍一、お前昨夜も夜遅くまでラジオ聴いて遊んでただろ、夏休みは今日までだろ、勉強してんのか』


突然ご飯の時間を切り裂く父親の言葉。


『勉強してたけど』


『ラジオ聴きながらか?そんなんで頭に入るわけがないだろ、真面目にやれ』


『勉強の仕方なんか人それぞれだろ、うるせぇな!』


『うるせぇってなんだ!』


『うるせぇからうるせぇって言ってるんだよ!何にも知らないくせに!』


『何を知らないって言うんだ』


『知らないじゃねーわ、知ろうともしないクセにだわ』


『まぁまぁ、親父さん、少しは話しを聞いてやったらいいじゃない』


一触即発の空気に割って入った珍しい母親の助け舟だったが、父親である康平のヘイトを買って出る結果を招いてしまい、康平は食べ終わった茶碗を母親に投げつけた。オデコに当たってよろめくと片足に全体重をかけてしまい、バキっと言う音を立てて崩れ落ちる様に倒れ、立てなくなって目を閉じたまま『うーん、うーん』と唸り声をあげた。


『親父!救急車!』


龍一の叫びで康平が救急車を呼び、母親は運ばれて行った。

付き添いで康平が同乗して行った。


嵐の様な朝が終わり、母親が心配ではあるが…


心配?


心配ってなんだろう、どういう感情なのだろうか。

気がかりではあるけれど、心配ってものが何だったか思い出せない。

龍一の心の中から心配と言う感情が抜けている事に気が付いた。

ドキドキもしない、オロオロもしない、悲しくもなければ苦しくも辛くもない、母親が救急車で運ばれたと言うのに何とも思わなくなっていた。


『心配ってどうやってするんだっけ…まいっか』


抜け落ちた感情を探るより龍一にはやる事があった、勉強だ。

どんな状況になるのか自分でもわからないし、どんな選択が正しいかもわからない、それ以前に何をしたいのかどうなりたいのかがさっぱりわからなかった、決まっていないと言うのが正しい表現だろう、しかし世の中はそれを『まだ決まっていないのか』と言い放つ、逆に自分の進むべき道を早急に決めれば『そんなに早く決めて大丈夫か?ちゃんと考えたのか?』と言う、好き勝手言いやがる。では自分の時はどうだったのか?偉そうに人の事が言えるのか?大人である自分が子供に対して物申して優越感に浸りたいだけだろう、龍一は人嫌いでもあり、疑心暗鬼でもあった。人の言う事は全て簡単には信用できないようになってしまっていた、心配も出来ない、人の事を信用できない、心が病んでしまっているのかもしれない。


だが、進路が決まっていないものは決まっていないのだ。


『そもそも進路って今決めなくちゃならんのか?』


仮に今決めないでいつなら良いのか?後でも良いと言われれば恐らく龍一は30歳になっても決めないだろう、長らく続く世の中の受験システム自体にクレームをつけながら勉強を始める龍一。


2時間ほど経過すると、父親から電話が来た。


『龍一か、その…母ちゃんは無事なんだが、股関節が悪いから手術することになったから、頼むな』


頼むって何を?いつ手術?いつ退院?文法的にはよくできた報告ではあるが、要点に何一つ触れていないのでイラッとした。人に勉強勉強言うくせに、てめぇは文法出来てないじゃねーかよ、そんな思いもあった。しかしここで大変な事に気が付いた、母親の退院まで父親と2人きりの生活が始まるじゃないか。気まずいと言ったらありゃしない、父親の仕事はランダムシフトなので朝帰って来ることもあれば夕方出かける事もあり、休みの間隔も一定だ、逆に言うと分かりやすく、色々と計算した生活は出来るとは言えるが、食事はどうしたらいいのか、一緒に食べるのか、仲が良いとは言えない関係性なのに2人きりで過ごさなければならない日々が来る、これは龍一にとっては地獄が来るようなものだった。


『ま、まぁいい、そんなことはどうでもいい、明日から学校なんだ、準備しなくちゃ』と自分に言い聞かせるように声に出して呟いた。そして更に1つづつ確認しながら、明日必要なものを声に出しながら鞄に仕舞い込んでいく。


『股関節が悪いからって言ったな…と言う事は前から悪かったのか…全然気づかなかったなぁ…』龍一は母親の股関節の悪さに気付けなかった事を振り返り、考えた。だが、やっぱり心配すると言う感情が湧かなかった。


そこへ父親の康平が帰宅した。


『母ちゃんの着替え取りに来た』


『うん』


『龍一…母ちゃんの具合どうだとかないのか?』


『あぁ、具合どうなの?』


『なんだそれ、お前は感情をどこかに忘れて来たんじゃないのか?』


龍一が気になっていた感覚と康平の一言がリンクした。

心配の仕方がわからないのではなく、感情自体が欠如しているのだった。

少しづつ少しづつ龍一の心は闇に侵食され、気が付くと感情表現が出来なくなっていた、そう言えば母親が『嬉しかったら嬉しい顔しなさいや!』なんてよく言っていた事を思い出す。


『そうか…俺…』


自分では気づかないものだ、思い起こせばクラスで爆笑が起きても自分は何一つ面白いとは思えない事が度々ある、辛いとか悲しいとか寂しいと言う気持ちもあまり感じなくなり、無に近かった、自分でスイッチを切ってるつもりでいたが、もしかすると感情を失っていたのかもしれない。笑えないと言うより心配と同じで笑い方がわからないのだ、面白いと感じる事が出来ないので笑うと言う表現に至らない。


『記憶喪失ってこんなイメージだろうか』


不安にはなる、いや、なれる。

ドキドキもワクワクも残っている。

イラッとするのは怒りだからそれもある。


喜怒哀楽で言えば『怒』以外は全て残っていなかった。

それに気づいてしまったから尚更違和感を感じずにはいられない。


『変だなぁ…変だなぁ』


いくら不思議に思ったところで、それは不思議と言うだけの話し、だから悲しいとか苦しいとか、そんな感情は一切湧いてこなかった。


龍一が生きて来た中で起きた様々な出来事は、龍一から感情を奪った。


父親、康平の『お前は感情をどこかに忘れて来たんじゃないのか?』と言う言葉を思い出していた。


『どこに忘れて来たんだろう…』


と口で言ってみても、悲しくもなければ寂しくも辛くもなく、苦しいとも感じなかった、感じない…その感情ってどうやるんだっけ?と言った方が良いだろう、少し呆然とした龍一だったが、スッと立ち上がると、一心不乱にシャドウボクシングを始めた、全てを振り払うように。


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