第四章 迷宮ノスタルジア
1
今日は曾祖父のところへ行く日だ。前日の重い雲は去り、朝からよい天気だった。日差しがうんざりするほど眩しい。
「私も行ってもいいだろうか」
出発の準備をしていると、ジンが訊いた。二台の車に分散して行くことになっているが、ジンが乗るスペースはありそうだ。砂原家の子どもたちはそれを了承した。
「外の世界が見たいのかしら」
芽衣がそっと耕太に言った。それはあるかもしれない、と耕太は思った。ジンがこちらに来て以来、特に出かけたりはしていない。ジンはずっとこの家にいたのだ。せっかく人間の世界に来たのだから、あちこち見て回りたいと思うこともあるだろう。
曾祖父のいる施設は車でさほど遠くない場所にある。耕太はジンと同じ車に乗った。ジンはずっと黙っている。彼の姿は砂原家の子どもたちにしか見えないのだ。他の人がいるところでは話しかけないように、気をつかっているのだろう。
それにしても、何を考えているのかな、と耕太は思った。今日のジンは妙に口数が少ないと思う。ジンの整った横顔を耕太はちらりと眺めた。その顔からは中身が読めない。
そもそも出かけると行っても、さほど楽しい場所に行くわけでもないのだ。もっとも、ずっと家にこもっていたのだから、場所がどこであれ家の外に出られるというのは嬉しいことかもしれないけれど……。
やがて車は目的地に到着する。子どもたちとジンは続々車から降りた。
――――
曾祖父はかなりの高齢で、日中は眠っていることが多い。今日もそうだった。
曾祖父の個室へと入る。そんなに広くはないものの、清潔でかわいらしい部屋だった。かわいらしいのは、芽衣の母が家から置物や絵などを持ってきてあちこち飾っているからだ。
部屋の主が眠っているので、特にやることはない。子どもや大人たちはあれこれとおしゃべりを始めた。ジンは扉のところで立ち止まって、奥に入ろうとしない。
「ジン」
耕太がそっと声をかけた。他のみんなはおしゃべりに夢中で、耕太の動きに気づいていない。
「ちょっと建物の中を歩いてみる?」
耕太の提案に、ジンは、ああ、と頷いた。
二人で部屋を出て歩く。辺りに人はいない。綺麗な施設だな、と耕太は思う。掃除がちゃんとされてるし、狭苦しくないし、スタッフは親切だし。廊下の掲示板には写真が飾られている。少し前にイベントがあったらしい。そのときの写真だ。入居者の、笑顔の写真。
ジンはやはり口数が少なかった。耕太は話しかけることもなく、考え事にふけりながら歩いた。こういうところで暮らすというのは――どういう気持ちなんだろう。
ここは快適な空間だと思う。暑くもないし寒くもない。今日は朝から陽射しが強かったけど、ここは冷房が効いている。清潔で明るくて、餓えることも凍えることもなくて、そして――ここにいる人たちは、みな高齢だ。
すごく年をとるってどういう気持ちなのかな、と思う。自分が90代も後半になれば、確実に、これから先そんなに長くは生きられないと思うだろう。そういう状態で、一日一日を過ごすというのは……。でも受け入れていくのかな。
自分はまだ13歳だから、時間はいっぱいあると思っているから、なんだかぴんと来ないけど。でも自分だって年をとるのだ。90代になった自分はどんな自分なんだろう。どこにいて、何を考えているのかな。もっとも――それくらい長生きできるのかな、というのもあるけど。
考えてみれば、自分がいくつまで生きるかなんて、誰も知らないのだ。明日、何があるかわからない。僕もまた――でも僕は、自分はずっと生きられるのだと思ってる。夏休みがうんと長くて、いつまでも続くと思っているみたいに。
でも夏休みにも終わりがあるし、そう、あと少しで今年の夏休みは終わってしまう。宿題……まだ結構残ってるけど……。
考え事が身近な問題になった。と、そのとき、ピアノの音が聞こえた。歩いているうちに、ホールにやってきたのだ。ホールにはピアノが置かれており、誰でも弾いてよいことになっている。
おばあさんが一人、ピアノを弾いていた。そういえばこのおばあさん、前にもピアノを弾いていたな、と耕太は思った。そのときと同じ曲かな。懐かしい、童謡みたいな曲。簡単な、子どもの練習曲のような。
ジンがふと足を止めた。耕太はジンが前に言っていたことを思い出した。
「魔物って、音楽が好きなんだよね」
「そうだな」
ジンが短く答える。そして続けた。「砂原家の居間にもピアノがあった」
「そうなんだよ。芽衣が昔習ってたから。今はそんなに弾いてないみたいだけど。でも祐希兄さんは上手だよ。今度、弾いてみてもらったらいいよ」
「うん」
そう言って、ジンは黙った。やはり今日は物静かなのだった。けれども、他の人がいるために黙ったのかもしれない。ジンの姿はあのおばあさんには見えないのだから。
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