第1話

 四鹿よつしか跡永賀あとえかの朝は早い。

 というのも、隣室からの打撃音で否応なく目が覚めてしまうからだ。

「またか」


 イライラで頭を掻き、短い髪が揺れる。跡永賀は早々に廊下を渡り、くだんの部屋のドアを開く。そこから漂う悪臭には、悲しいことに、もう慣れてしまった。

「壁殴るのやめろって何度言えばわかんだよ、この豚野郎!」

「ぶひぃいいいいい!」


 そこにいたのは、肥満体型の男だった。四鹿初無敵そんてき、跡永賀の兄である。十代後半だが、その肥えに肥えた体と、油ギッシュな肌と髪でそれはすでに中年の様相である。

「だ、だってね、アット。こいつがボクティンの嫁をね……」


 太い指が差した先には巨大なテレビがあり、高画質の映像が流れていた。

「またアニメの主人公に嫉妬かよ」

 何のことはない、ごくありふれたラブコメがそこでは展開されていた。典型的なイケメン主人公と美少女のやりとりである。


「深夜アニメの昼夜逆転生活も、アホみたいに高いアニメの有料放送にも文句はつけないけどよ、一々そんなことで叩き起こされる身にもなれよ。こっちには学校があるんだからさ」

 すっかり汚れ曇った窓からは、まだ日は見えない。深夜と黎明の狭間だ。老人でさえ布団の中であろうこの時刻に、なぜニートのごくつぶしに叩き起こされねばならんのか。


「くそっ……また壁を殴っちまった」

 言っているそばから、また壁を叩く兄。彼にとっては、弟の会話よりこちらの方が優先される。録画しているため、見逃しても問題はないはずなのだが、『放送そのものを楽しむことが大事』ということだ。


 サブカルチャーに疎い――初無敵と比べれば、誰でもそうである――跡永賀にとって、その深みにある兄の言葉は、日本語であるはずなのに理解できないことが多々あった。

「それより、用が済んだなら速く出て行ってくれないか。ボクティンも暇じゃないんでね」

「毎日が日曜日の奴が何いってんだ」

「あーくそ。やっぱこの声優だめだな。声に処女らしさがない……っと」


 跡永賀をそっちのけに、初無敵はテレビの横にあるディスプレイ、その前に置かれたキーボードをカタカタ叩く。なんでも、アニメをネット上で実況しているらしい。同じようなことをする人が何人もいるらしく、それゆえ盛り上がり、連帯感が生まれるんだそうな。社会で盛り上がれず、連帯できない人間のすることではない。

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