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***
神戸の宿場町に降り立った奈津は、療養施設である宿坊を訪れていた。
「ごめんください。ここに桐ヶ崎がいると聞いて来たのですが」
「はい、どちら様でしょう?」
「私は桐ヶ崎の妻の奈津と申します」
自分の口から"妻"を名乗ると、得も言われぬ感情が体を駆け抜ける。
「ご案内しましょう」
女将に着いて二階へ上がる。一段一段踏みしめるたび、成臣との距離が近づくことに奈津は緊張して身を固くした。
「こちらですよ」
小さく深呼吸してから、襖越しに「成臣さん」と声をかけた。
しばらくの沈黙の後、
「奈津?」
と声がする。その一言だけで奈津は胸がいっぱいになった。まだ成臣の姿は見ていない。ただの襖越しだというのに、成臣の落ち着いて優しい声は奈津の心をあたたかく包んでくれるようだ。
「どうした?入らないのか?」
「……今、行きます」
込み上げてくるものを抑えながら、奈津はゆっくりと襖を開けた。
その目に飛び込んできたのは奈津の知っている洋服を着た成臣ではなく、ゆったりとした着物をまとった成臣だった。
「……成臣さん」
「奈津、わざわざ来てくれたのか」
「……はい」
「長旅だっただろう。疲れてはいないか?」
「……はい」
「どうした?入らないのか?」
廊下に立ち尽くす奈津に、成臣はこちらに来いと自分の横をトントンと指す。畳張りの部屋は桐ヶ崎邸とは違い、歩くたびにギシギシと小さな音を立てた。和布団を敷いた上に上半身を起こした状態の成臣に近づくたび、奈津の胸はどんどん締め付けられていく。
「ここに座りなさい」
言われた通り成臣の横にストンと座ると、奈津は唇をぎゅっと噛みしめた。
「あの、お体は……?」
「うん、大したことはないよ。心配をかけてすまなかったね」
「……いえ」
「アヘンの闇取引きに巻き込まれて負傷しまってね。ああ、俺の身の潔白は証明されているから安心しなさい」
「……そう、ですか」
「おかげでせっかくの商談がなくなってしまったよ」
「……はい」
「奈津?」
「……はい」
「泣いているのかい?」
「……っ」
その言葉に奈津は瞳を揺らす。成臣は目頭をそっと指で掬った。
「成臣、さ……ん」
「奈津」
「うっ……ううっ……」
成臣に触れられたのはいつぶりだろうか。ほんのわずかに指が触れただけだというのに、そこから熱を帯びていくように奈津の体の血が巡り出す。ずっと冷え切っていた体がぽかぽかとあたたかくなっていくようだ。
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