ねこじゃらし 松平太郎と


苦労の滲んだ頬骨が春のうららに照らされて、綺麗に白くなった短髪はまぶしく光っている。着流しにあぐらをかいて外を眺めるその人は、どうやっても洒脱な古い男だった。

「おい、あのブチ猫はもう来ねえのか」

嗄れた声には奥底に檄を飛ばしたあの頃の気迫が残っている。いや、残っていればいいのに、という願望がそう聞かせているのかもしれない。それほどまでに彼は痩せ細っている。けれどその目が時折あの頃と同じような鋭さで己を突き刺すものだから、榎本はそう信じたくて堪らなかった。

「丁度去年タロさんが来てからもうすっかりさ。あいつも野良だし、長い付き合いだったからな」

「そうか。ろくな挨拶も出来ないままだったな」

ふふ、と溢したそれが酷く自嘲的だったのが、年老いた榎本の胸に嫌に残る。

何より榎本自身が「猫は死に場所を選べていいな」と思ってしまっていた。生き延びて称賛も浴びたが、最後に残ったのは無惨な失敗で、逃げるようにここまでやってきた。開き直るとは難しいものだ。幾度経験しても慣れない。

「タロさんも難儀だな。俺ときたら猫への手向けなんざゴロゴロニャーゴでそれっきりだ」

 戯れに猫の手で虚を招く。諧謔なんて仰々しいつもりはないが、うつろが欲しい訳でもない。

「いやあカマさん、俺は呑気なもんさ」

 声は楽しげにかろやかで、丁度降りしきるのどけさによく似合う。

「こうして呑気に梅だって眺められりゃあ文句はないね」

雲が引いて日向が一段と眩しくなり、松平は目尻の皺を深める。榎本はその光のなかにふっと彼が消えてしまいやしないか気掛かりだった。

永井は赦されたのち絶海で果てた。今井は再び体制へ刃を向けようとした。あんただって抗いたかっただろう。そう尋ねられないのは、彼を抗えないまま地に落としたのが他でもない自分だからだ。榎本は慣れた素振りで溜息を隠す。

「一等難儀なのはカマさんだ。手前さんもう何十年と堂々巡ってやがらあ」

可笑しそうな声に榎本は顔を上げる。松平の目尻は、先程とはまた異なる皺を深める。 

「いいかい、俺が呑気なのはカマさんのお陰さ。大体あんたの才と海律全書がなけりゃあ副総裁の首なんかチョンだ」

喉笛を親指で掻き斬ってみせるその爪の先まで松平はいなせな往時の江戸っ子だった。誰も彼もみな彼にあの時代を託していってしまったのか。彼だけはいつまでも往時の江戸を見ているのか。

「そんな事はないだろ、タロさんの才は皆知ってた」

「その知ってた連中が俺の代わりに凍土の下だ」

松平は穏やかに口を閉じた。つられて榎本は随分と重たくなった瞼でゆるやかにまばたきをする。そうか。これだけで互いの存念が知れてしまうのが榎本と松平だ。

過去は振り返っても戻りも変わりもしない。その代わり残された者たちは否が応でも変わっていく。生きているから、生きていくために。

それなら、変わらず変わっていくことが揺らぎないのなら、時折振り返るくらいはどうってことないのかもしれない。行く川の流れは絶えずして、春の日差しは今年も暖かい。

どこかで猫が鳴いた。けれどぶち模様の小さな耳はどこにも見えない。

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