第5話:犬山ことりの憂鬱


「ことり、行ったよー!」

「オッケー! 任せて!」


 体育館を半分に仕切るネットの向こう側、元気良く返事をしたコートの中のことりは、タイミングを合わせて飛び上がり、落ちて来たボールを勢い良く叩き付ける。


 バスン!

 鋭い音を立てて相手コートで跳ねたボールは、そのまま体育館のふちっこまでコロコロと転がって行った。

「やった!」

 ガッツポーズをしたことりは、両手を上げながら駆け寄ったチームメイトの大口朱音おおぐちあかねの手に、自分の手をパチンと当ててそのまま握り、ピョンピョン跳ねて喜び合っている。



 ……一方ネットのこちら側では、ことりに見惚れた皆がぴたりと動かなくなって静止した時間ときの中でコートに転がるボールを拾った僕が、独りでドムドムと空気を読まない音を立てながらドリブルでボールを運び、フリースローラインからほかって相手ゴールに潜らせる。

 左手は添えるだけ。

 無言で歩み寄って来た信行と、音を立てずにハイタッチをした。


 横目にちらりと見ると、「ふう」と息を整えながら額の汗を拭ったことりがネットのこちら側からの無数の不躾な視線に気付き、「ひっ」と声を上げて両腕で胸元を隠して身を退かせている処だった。

「ちょっと、男子! 何見てんのよ!!」

 ことりと特に仲の良い大口さんや飛島とびしまさんなんかを筆頭に女子軍団がネットの所まで飛んで来て、それを両手で掴んで破れないかと思う程に上下させながら捲し立てている。

 ……ちょっと体育教師、皆に注意しろよ。……と思ったけど、そいつは誰よりもネットに齧り付いて、単身コートに残ることりを凝視している。

 何だ、この世界……。

 ……先生、バスケがしたいです。


 因みに僕は、終わった後にもずっと見ていたらいつもの死にたくなる様な視線を向けられるのが分かり切っているので、スパイクをする為に空中で華麗に海老反った躍動感溢れる姿を網膜に焼き付けておくに留めた。

 その後は、群がる皆を冷めた目で見ながら、チラチラと。

 ……まあ、これだけでも充分ギルティなんだけど。


 ことりの胸が目立って大きくなり始めたのは、小学5年生の終わり頃だった。

 その容姿も有ってか男子からの揶揄からかいも多くなり、ことりはいつもそれを、顔を真っ赤にして凄く嫌がっていた。

 …………うん、やっぱり今の僕は重罪人。


 その内に男子の揶揄いは、そんなことりといつも一緒に居た僕にも向かって来たんだったな。

 そうして、僕は……。

 ……………………うん。

 正直、今の男子皆の顔は見たくないから、取り敢えず信行に視線を送って、苦笑いを交わしておく。

「犬山みたいな運動神経が良い奴が何で文化部かとも思ったけど、これの所為なんかな……」

「……ああ、そうかも。中学入学時はそれでもまだ今程じゃ無かったから、小学校の時から好きだったバスケ部に入っていたけど」


 ことりは、幼稚園の時はまだしも、小学校に入ってからバスケを好きになって、一緒に練習する内に運動神経を上げて行った。

 容姿とスタイルが最高で運動神経が良い活発で弾ける様な笑顔が素敵な女子がモテない筈は無く、御多分に漏れず、僕が離れ始めた小6の頃からかなりの数の人に告白されて来た様だ。

 僕自身も偶々その現場を何度か目撃した事が有ったけど、告白男達の視線は例外無く、ことりの顔と胸の間を何度も往復していた。

 中学の時にはもう事務的な事以外はろくに話をしなくなっていたのでその心中は推し量るしかないけど、胸元は極力隠す様になっていたし、そのコンプレックスは小6の時よりも大分増していた事と思う。

 ……高校に入って、それがトラウマとなって運動部……バスケ部が選べなかったのだとしたら、さぞや悔しかっただろうな。


 ……そして今。

 ことりはと言えば、舞台下に背中を付けてしゃがみ込み、置いていたジャージの上着を前に掛けて顔を真っ赤にして俯いている。

 ……ことり……。


「先生! バスケがしたいです!!」


 気が付くと、さっきは心の中で思うだけだった言葉が、ネット越しに言い合う男女の声を掻き消す程の大きさで、口から飛び出ていた。

 瞬間的に喧騒が収まり、皆のポカンとした顔が一斉にこっちを向く。

 ……ううう。


「守!」

 声を上げた信行の方を向くと、バスケットボールをパスして来た。

 それをキャッチしてゴールの方に向き直り、そのままジャンプしてほかる。


 ポスっ。


 綺麗な放物線を描いたボールは間の抜けた音を立ててゴールリングとネットを通り抜け、ダンダンダンと何度か跳ねて転がった。



   〇〇〇



「相変わらずお前、バスケは上手いよな」

 昼放課、お弁当を箸で突きながら信行は感嘆の声を上げた。

「ああ、……まあ小学校の頃は、漫画を読んでバスケにハマったことりに誘われて、一緒によく遊んでいたから。……少なくとも当時は、僕の方がシュートは上手かったかな?」

「その漫画って、当時連載していたやつ? それとも昔の名作か?」

「昔の名作」

「……成る程な」

 …………まあ、そういう反応になるよね。

 因みに他のスポーツはと言えば、子供会でやっていたソフトボールを除くと体育で触ったくらいで、お世辞にもうまいとは言えない。

 だから、『バスケ“は”って!』とか、定番のやり取りをしたくても出来ない。

 ……バスケ以外の経験自体は、ことりも同じ筈なんだけどな……。

「じゃあ、勝ち目の薄い戦いを始めたお前に、或る言葉を授けよう」

 箸を置いて身を乗り出した信行は、僕の肩に手を置いてニヤリと笑って行った。

 ……うん。

 もう何を言いたいか分かったから、言わなくても良いよ?

 信行の口が、徐に動く。

 ……だから、分かっているってば。

「“あきらめたら、そこで試合終了”だぜ!」

 ……うん。

 最後まで、希望を捨てない……。

 分かっていたのに、ドヤ顔の信行の、その言葉に感涙した。



 〇〇〇



「ワイワイわっしょいお祭りだ! ん!」

「では発声終わり! この後は、昨日配ったシーン台本を、昨日と同じ組で配役を変えてやってみて欲しい」

 部長のその声を合図に、部員達は其々グループに分かれて、部室内の其処此処で声を出し始めた。


「……うーん。やっぱり、台本で決まっているのをやるのって難しいなぁ。エチュードの方が気が楽だよ」

 何回かやってみた後で部長の号令によって一斉の相談タイムになったので、同じグループの信行と、同じ1年でクラス違いの岩倉香苗いわくらかなえさんと3人で向かい合って座るなり溜め息交じりにそう言ったのは、僕。

 色々と自分なりに試して演じてみた心算ではあったけど、どうにも巧く行かない。

「まあ、難しいのはそうだよな。……でも、流れが全部決まっている分、俺はエチュードよりはこっちのがやり易いかな」

「うん、私も。エチュードって、これで良いのかなって周りの視線を気にしちゃったり、何か笑っちゃったりして」

 ……へえ。人に依って、その辺の感覚は違うんだ。

「じゃあちょっと教えて欲しいんだけど、2人はこれをどんな感じでやってるの?」

「……うーん、自分が喋っている時とか相手の言葉を聞いている時とかの気持ちの流れを、台詞とかから考えて?」

「うん。それを自分の中に落とし込んで台詞に乗せて出したりとか動いたりとか、そんな感じかな?」

 訊いて見た事に、2人は考え考え伝えてくれる。

「でも、……知ってるだろうけど、俺も高校で始めたばかりだからな」

「私もだよ。部長に聞いた方が分かるんじゃないかな?」

 ……部長、中村初江先輩、か。

 昨日の別れ際のことりの声が、自然に思い出された。


「時間だね。今日はここまで。解散!」

 それからまたシーン台本を何回かやった後、時計を見た中村先輩が号令を出した。



「あ、俺はこの後待ち合わせが有るからよ。じゃあな!」

「ああ、じゃあ、また明日」

 一緒に帰ろうと信行を誘ったけど、手を振って急いで行ってしまった。

 さっきの話を中村先輩に訊いてみたいけど他の先輩と話しているし、今日は帰ろうかな。

「お先に失礼します。お疲れ様でした」

「あ、美浜君、……うん、お疲れ、また明日」

 中村先輩と挨拶を交わして、部室を後にした。

 部活の時間が終わったばかりの文化部棟の廊下は、まだ人も殆ど居なくて、静かだった。

 其々の室内ではまだ活動が行われているのだろうけど、廊下に響くのが自分の足音だけと云うのは、不思議な高揚感が有る。


 ガラッ。


「「あ」」

 不意に引き戸が開いて、室内から出て来たことりと目が合って声が揃った。

 扉の上のプレートを見ると、『美術部』の表示。

 ……何てタイミング。

 ことりは表情を変えずに、ゆっくりと視線を逸らした。

「……あの」

「守、今帰り?」

「……うん。ことりは?」

「私は、……もう少し」

「そっか。……じゃあ、また明日」

「うん」

 そして通り過ぎようとした時に、ボソリと。

 ……本当に、ボソリと。


「ありがとう」


 ……そう、聞こえた気がした。

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