第15話 こいつから逃げる術などないと分かっていても、この現状は辛い③
(あのやろう、ガッチリホールドしてきた)
桂華は抱き枕にされたことで寝返りがあまり打てなかったせいか、少しばかり身体が痛い。その原因は昨日の不機嫌さなど感じさせずに爽やかに微笑んでいたので腹を殴っておいた。
ぶつぶつと呟きながら駅を出た桂華は自宅に帰るべく夜道を歩き出した。今日は月が出ていていつも以上に明るい。街灯の光もあって更にそう感じる。そんな慣れた道を歩いていけばいつもの公園の前までやってきた。
「テケ……リ、テケリ……」
声がする。振り返るも誰もおらず、周囲を見渡すも気配はない。そういえば、昨日も聞いた気がした。公園のほうを見てみるが、寂れた遊具があるだけで人一人いない。風に揺られるブランコがきいっと音を鳴らすだけで静かなものだ。
なんとなく気になった桂華は公園へと足を踏み入れる。見渡すがぎり人影はないのだが、耳を澄ますと囁き声が聞こえた。テケリ、テケリと声がするのを頼りに歩く。
すると側溝の蓋が浮き上がったのが見えた。何だろうか、じっとそれを見遣る。ウゴウゴと蓋が動いてぬるりと隙間から何かが這い出た。
それは玉虫色をした粘液の塊だった。異様に臭くて身体全体が微光を発している。それは大きくはなくて、けれど小さくもない。大型犬ならば丸呑みにできるのではないかという大きさだった。
「……何、これ」
鼻を押さえて桂華は一歩、後ずさる。精神値の賽投げに勝利したものの、少しだけすり減らしてしまった。化け物だ、桂華はこれが危険なものだとすぐに理解した。早く逃げなくてはいけない。
桂華が走り出そうと足を出した瞬間、その玉虫色をした粘液が触手のようにしゅっと飛び出した。捕まれそうになった足を桂華は咄嗟に避ける。
空を切った触手はするすると引っ込んで、ぬるりと玉虫色をしたその化け物が桂華の退路を防ぐように前に出る。
これはどうしたものか。逃げ場を失い、この化け物をどう対処するべきなのか考える。桂華は力に関しては無力だ。この化け物に敵うほどの力を自身は持っていないと分かっている。そもそもその粘液に物理が効きそうにないのは見て取れた。
飲み込まれてしまう気がした。この化け物の触手に捕まれば飲み込まれて食われてしまうと。じわり、じわりとにじり寄ってくるそれに桂華の表情は強張っていく。死ぬかもしれない恐怖がそこにあった。
ぬるりと触手が桂華を捉えんと放たれて、避けようとして身体がふわりと浮いた。
「これはまた随分と面倒なものがいる」
すっと現れたかと思うと桂華は横抱きに抱えられて、玉虫色の化け物の後ろへと移動していた。
「ショゴスとはまた厄介な」
桂華を横抱きにしているのはニャルラトホテプだった。彼は面倒くさげにショゴスと呼んだ玉虫色の化け物を見つめる。
ショゴスは途端に動きを鈍らせた。ニャルラトホテプがどういう存在なのか、理解しているように困惑しているような動きを見せる。
「このままここにいても面倒ごとが増えるだけだ……」
ニャルラトホテプは面倒くさげに息を吐いた。桂華を下ろすと彼はぱんぱんっと手を叩く。するとショゴスが黒い影に飲み込まれていった。それは一瞬の出来事で、跡形もなく消えたそれに桂華は目を瞬かせる。
「何……」
「捨ててきた」
「どこに!」
「此処とは違う世界かな」
ニャルラトホテプは「大丈夫、人間には迷惑かからない場所だから問題はない」と笑って桂華を見遣る。
彼女に怪我がないことを確認すると「本当に幸運だね、キミ」と言われた。確かに幸運だったかもしれない。触手を避けれたことには自分でも驚いていた。
「何処から見てたの」
「キミがショゴスに捕まりそうになっていた辺りから」
愉快そうに口角を上げながら「あれは怖かっただろう」とニャルラトホテプに言われ、桂華はむっと頬を膨らませた。
「キミね、気をつけなよって言っただろう」
「それは、そうだけども……」
「人間というのは好奇心に弱いから仕方ないか」
人間はそういった誘惑に弱いものだ。気になったことは確かめずにはいられないという心理を持っている者は多い。ニャルラトホテプは「仕方ないことだ」と言う。
「でも、好奇心は猫をも殺すと言うから気をつけるように」
ニャルラトホテプに「ボクでも簡単に見殺すこともできるからね」と言われて、桂華は肩を揺らした。面白さを感じなくなった瞬間、この化け物は簡単に
桂華の強張った表情に満足げな笑みを見せと、ニャルラトホテプは「帰ろうか」と手を差し伸べる。それを桂華は取るしかなかった、恐怖がそこにあったから。
***
帰宅した桂華はソファに倒れ込む。着替えとお風呂をさっさと済ませて夕飯も食べた。
久々に死ぬかと思った。あのチャウグナーとかいう奴の方が怖かった気がするが、それでもあのショゴスとかいうのも怖かった。死ぬかもしれないという恐怖はどちらともにあって、それが桂華の精神を削っていた。
それだけでなく、ニャルラトホテプから止めとばかりに恐怖を突きつけられたのだ。疲れないわけがないし、精神が疲弊するのは当然だった。
少しは回復したと思ったのにまた削れてしまったのだから当分は化け物には会いたくない。いや、毎日会ってはいるのだけれど、あいつ以外には会いたくはない。
倒れる桂華をニャルラトホテプは起き上がらせて、コーヒーを淹れたマグカップを差し出した。
「あれ、何」
「ショゴス」
知能的で意思疎通ができ、自身の身体を自由自在に変形させることができる生き物だ。大抵は深きものどもという生き物に仕えているのだが、知能的であるが故に不満を抱いたりなどして反抗的になる個体が出てくるのだという。
「港が近いだろう。深きものどもから逃げ出した個体が流れてきてもおかしくはない」
「いや、迷惑なんだけど」
あんな化け物が逃げ出したなど被害が出てからでは遅い。怖すぎる、そんなものと桂華は思うのだが、ニャルラトホテプは「そう多くないことだから心配することはない」と言った。
「一度、逃げ出したんだ。次は逃げない対策ぐらいするさ。逃げた個体はもう始末したのだから心配する必要はない」
「信じられないぃ」
この男の言うことはなかなか信じられない。多分だが、信じたくないのかもしれない。それでも彼は問題ないと言うのだから、その言葉を受け入れるしかなかった。桂華はコーヒーを口につけて息をつく。
「なんか、甘いもの食べたい」
「あぁ、鳥の形をした饅頭ならあるぞ」
ニャルラトホテプはそう言って立ち上がると、綺麗に包装された箱を桂華に渡してきた。それは某銘菓のお菓子だった。何でこんなものを持っているのだと首を傾げれば、「桂華が好きなお菓子なのだろう?」と言われる。
確かにこの銘菓のお菓子は好きだった。可愛いひよこの姿をしているので食べるのが勿体ないと思うことはあるのだが美味しいのだ。けれど、自分はこのお菓子が好きなことをこの男には話していない。
「何で知っているの?」
こいつまたなんかやりやがったなという意味を込めて問う。するとニャルラトホテプは爽やかな笑みをみせた。
「キミのお母さんが訪ねてきた時に頂いたよ」
絶句。声が出なかった。ニャルラトホテプは認めたくない桂華の心情を察しながらも現実を突きつけてくる。
それは昼を過ぎた頃だった。ニャルラトホテプは務める喫茶店が定休日だったので部屋の掃除をしていた。そこへ訪ねてくる者がいた、桂華の母親だ。彼女はニャルラトホテプの姿を見て、最初は部屋を間違えたのではないかと思ったらしい。
そんな様子にニャルラトホテプは察したらしく、「桂華のお母様ですか?」とその爽やかな笑みで問うたのだ。
そこからはもう酷い話だった。ニャルラトホテプは桂華がいないことをいいことに、彼女とお付き合いさせていただいている「東堂司」と自身を紹介したのだ。
最近、付き合うことになり現在同棲していることを彼は伝えた上で、挨拶に行けずに申し訳ありませんと思っていない謝罪を宣った。それはもう真摯な対応とその顔の良さ、話し方に桂華の母はころりと落ちたようで、「娘がご迷惑をかけて」とそれはもう色々喋ったらしい。
「キミ、定期的にお母さんが部屋を掃除しに来ていたらしいじゃないか」
「忘れていた……」
そうだった、母はだらしない娘のために定期的に掃除にきたり、お菓子を持ってきたりしていたのだ。すっかりと頭から抜け出ていた、バッティングする可能性はあった。だからと言って、昨日娘に怒られておいて今日来るとは思わないだろうと桂華は頭を抱える。
そこへスマートフォンが鳴ったので見れば、母親からで。嫌だ、嫌だと思いながら電話に出た。
『桂華、あなた恋人いたならいたって言いなさいよ! どうして教えてくれなかったの! お母さん失礼なことしちゃったでしょ!』
「そういう反応になるから言いたくなかったんだよ!」
隣では桂華の困り顔を見て楽しんでいるニャルラトホテプがいる。くそう、あとで腹を殴ると決めて桂華は母の話を聞く。
『ものすごくかっこいい人じゃない。お母さんびっくりよ! 良い男を見つけたじゃない!』
「そうだね、顔は良いよね」
『なんでそんなにテンション低いのよ』
誰のせいだと思っていると桂華は言いたかったけれど、面倒くさくなるのでやめた。「お父さんもびっくりしていたわよ」と言われて、ますます頭が痛くなった。
母は「良い人そうだし、これで安心ね!」とテンション高めに一方的に話すと電話を切った。
暫くの間。
「ふっざけんなぁぁぁ!」
桂華はスマートフォンをソファに投げる。
着実に逃げ場を失っているのだ、自身は。いざとなったら実家に逃げようとしていたというのに、これでは逃げるどころか普通にこの男は迎えにくる。母もそれを待ってましたとばかりに対応する。あの人はこういうのに首を突っ込むタイプだ。
職場だけでなく両親にまでこの男と恋人認定されてしまった。逃げられない、周囲を固められている。絶望感が半端なかった。そんな桂華を愉快そうにニャルラトホテプは眺めていた。
「このやろう、良い顔しやがって……」
「好きな
「玩具で遊んでるだけのくせにぃ……。くっそう、そういう時だけ人間振りやがって……」
「キミ、口調が酷いね」
口調が酷くなるだろう、これは。うごごと桂華が呻いている。ニャルラトホテプはものすごく楽しそうだった。それはもう楽しそうで腹が立ったのでばしばしと彼の足を叩いてやった。
「これで邪魔してくる奴はいなくなっただろう?」
男を紹介する人間はいなくなったのではないかというニャルラトホテプの言葉に、こいつ根に持っていたのかと桂華は理解する。
気に入っている
「逃れられないの知ってるけれど、この現状は辛すぎるっ!」
「大丈夫だ、キミが死ぬまで面倒見てあげるから」
ニャルラトホテプは言う、「キミの死ぬ瞬間をボクは眺めたいからね。いったいどんな絶望した顔を、悲しそうな顔を、恐怖の顔をしてくれるのだろうか」と。楽しみだなと嬉々として話すこの男に慈悲などないのだ。桂華は自分の人生にこの男から逃げる道がないのだと実感した。
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