第14話 ロジャー様の本気
帰ろうとしたところをロジャー様に引き止められた。
心の中では、何か知らないモノが、小さなウサギみたいにはしゃいで、ピョンピョンしている。
「あの……何か?」
だんだん暗くなってきた。ずっとこのままロジャー様のおそばにいたい……などという絶対だめな気持ちが湧いてくる。
それに、こんなところを人に見られたら、大問題だ。私は気が気じゃなかった。
でも、ロジャー様に止められてしまうと、動けない。
彼は腕組みをして、私を見ている。
「君の名前は?」
ロジャー様は私の当惑など全くの無視だった。
「え?」
「この前、倒れた時も、名前を聞き損ねた。それからアンナ嬢に腕を引っかかれた時も、名前は教えてくれなかった」
「ルイズと申します」
私の名前に値打ちはない。
教えなかったのは、偶然と……それから、ロジャー様が義姉の婚約者だからだ。
「家の名前は?」
ロジャー様がなんだか強く聞いた。
家の名前を名乗るわけにはいかない。
義姉と義母から、くれぐれも口止めされているのだ。
「……家名はございません」
「え? そんなことはないだろう?」
ロジャー様は納得できないと言った様子だった。
「平民にも家名はある。僕に教えたくないのか?」
「両親がいないので、名前はないのです」
嘘ではないだろう。
だって、母は死んでしまったし、父は私のことを気にかけていない。学費は払ってくれたけれど、それ以上のことは気にしている様子もなかった。
義母や義姉のところには、父からの手紙が何回も来ているようだったけれど、私宛てには一度も来たことがなかった。
そう思うと涙が出てきた。
父は、義母たちが来る前は、それはそれは可愛がってくれていた。
少し大きくなってからは、気恥ずかしいくらいだった。
なのに、今は……父は私のことなど、忘れてしまったかのようだ。
誰も私を気にかけてくれる人はいない。
自分が哀れに思えて、泣けてくるだなんて、本当にだらしない。
泣いたって、何も変わらないのに。
自分の部屋で泣くことはよくあった。だけど、人前で泣くだなんて、かっこ悪いだけだ。見ている方だって嫌だろう。
「どうして泣くの? 僕に話せない?」
ロジャー様が、おずおずと優しくおっしゃった。
この方は、お優しい方なのだ。きっと、誰にでも優しいのだろう。
こんな薄汚い格好の
「申し訳ございません。……死んだ親のことを思い出したのです。それでは失礼いたします」
私は泣いてなんかいられない。
自分の道は自分で切り開く。でなければ生きていけない。
ロジャー様をあてにする、なんの理由もなかった。
「待って!」
ロジャー様は声をかけたが、私はその場を立ち去ろうとした。
「放さないよ」
ロジャー様は追いかけてきて私の腕を掴んでいた。
「どうして……?」
「どうしてって……エドワードには散々反対されたけど」
灰色の目が光った。
「だって、君の素顔を見てしまったのだもの」
「素顔……ですか?」
何のことだろう。私は首をかしげた。
それを見て、ロジャー様はカツラとメガネを取った。
「やめてください!」
涙と真っ赤になった頬なんか、見ないでください。
「ほら。この顔だった」
ロジャー様は私の顔を見つめた。
「覚えていないと思うけど。食堂で君が気を失ってしまった時、僕は君を抱いて、椅子の上に寝かせた。エドワードが椅子は並べてくれた」
抱いて連れて行ってくれたのか。
「も、申し訳ございません!」
なんで、気絶してたんだろう。惜しい。
お姫様抱っこだったかもと思うと、ものすごく惜しい。私の一生の宝物になったかも知れないのに!
イケメンのお姫様抱っこ……くっ……覚えていないだなんて
「君が目を開けた。とてもかわいかった」
「え……」
「あの……すごくかわいくて」
ロジャー様は言葉がうまく続かなくなった。
「泣いてる理由を教えてほしい。力になりたい」
私はロジャー様を見つめ続けた。
冗談ではないらしい。
「あの……気になって、僕は……この気持ちをなんて伝えたら」
私は無理矢理笑った。
「ご冗談を」
これは冗談だ。侯爵家の御曹司が何を言い出すのだ。
私はいわば平民。本気で思われても、この先はない。
それ以前に、ロジャー様は義姉の婚約者。
「私はアンナ様とのお茶会をお勧めに来たのです」
すっと手が離れた。
「どうしたらいい」
ロジャー様が言った。
「エドワードには反対されたよ。婚約の再検討は仕方ないって。親を説得すべきだと。親には伝えた。考えているようだ。だけど、君を思うことはダメだって、エドワードに言われた。この恋は秘密にしておくようにって。もちろん君に伝えてもいけないって」
ああ、本気だ。本気なんだ。バカなロジャー様。
「君は平民には見えない。アリシア嬢だって、そう簡単に平民の娘を自分の部屋に入れたりしないだろう」
私はちょっとびっくりした。
便利だから使われているんだとばかり思っていた。
「違うよ。僕もエドワードも同じだ。君と話してて、何の違和感もなかった」
「……違和感と言いますと?」
「君の仕草、話し方、話の中身、どれをとっても、そう、平民ぽくない。どこかの貴族の、それも相当いい家の娘と変わらないんだ」
そんなことは考えたことがなかった。
「僕たちだって、どうしてあなたにこんなに簡単に
思わずロジャー様に同情した。
同時に、自分で知らなかった自分の貴族臭に驚いた。
ロジャー様は、頭を掻きむしって、きれいな黒髪を乱した。
「わかっているんだ。いろんなこと。だけど、君に誘われたら、どうしようもない。会いたくなってしまった」
彼は、情けなさそうな顔をしていた。
「困るよね。こんな告白を聞かされても。人の気持ちとはままならぬものだ」
いいえ。
私は嬉しかった。心の底から嬉しかった。
私はロジャー様が好き。好きなのだ。
彼と同じ。
吸い込まれるように、彼の瞳を見つめたくなってしまう。
そこに何があるのか、知りたい。
でも、そんなことを言うわけにはいかなかった。ロジャー様が余計困るだけだ。
「君をどこかの、末端でもいいから貴族の家の養女にすれば結婚できるとか、妄想した。エドワードには止めろと言われたが。もし、アンナ嬢との婚約がなければ、何とかなったかもしれない。でも、オースティン将軍の娘との婚約破棄は、僕の家にとって、それから僕の将来にとって、絶対にしてはいけないことなのだ」
「ロジャー様は、将来、武官になられるおつもりなのですか?」
ロジャー様はうなずいた。
「魔法戦士にね。僕はエドワードと組めば、最強の戦士になれる。ここへ入学してきた時から、期待されてきた。そして戦いの最前線には、名将オースティン伯爵がいる」
あんなに心変わりして、私に冷たくなった父だけど、名将と言われると嬉しかった。
「魔法戦士として活躍するなら、オースティン将軍の下がベストなんだ。でも、娘に甘いと評判の将軍が僕を選んでくれたのに、その娘が気に入らないだなんて……」
私には彼の苦悩の理由がよく理解できた。
義姉のアンナとの結婚は、彼みたいな身の上の者にとって、断ることなんか考えられないだろう。
ましてや伯爵家は一人娘だ。彼は三男だし、願ってもない良縁なのだ。
「それでも、好きな人を見つけてしまった。あなたを見つめ続けて、その振る舞いや笑顔、アリシア嬢とのやりとり、成績が一番で張り出された時は、誇らしくて胸がいっぱいで、同時に不安だった。誰かにとられはしまいかと」
「絶対にそれはありませんわ」
自信満々に私は答えた。カツラとビン底メガネが好きな男なんて、世界中探したって、一人しかいないわ。
「あなたの素顔を知っているのが、僕一人だと思うと、ずっとこのままでいいと思った。僕だけがあなたを好きなんだ」
「あの時、エドワード様も一緒だったではありませんか」
ロジャー様は首を振った。
「見てないよ。彼は先に走って行って、椅子を並べてくれて、それからアリシア嬢を呼びに行ってくれた。その間に、僕はあなたが目覚めるまで、二人きりで一緒に居た。目を開けたら、どんな顔なんだろうと思っていた。そしたら、あなたが気がついて、僕を見た」
まるで眠り姫みたいにロマンチック……かもしれない。でも、なんだかすごく恥ずかしい。
「こんな瞳には出会ったことがなかった。本当にきれいな澄んだ青……」
「ロジャー様!」
私は叫んだ。こんな話、聞いていられない。だって、私の心の大部分は、どんどんロジャー様のところへ行ってしまえと言いだすのだ。後先なんかどうでもいいって。私はダメになってしまう。何か他の話……
「あなたは平民の娘と、
「あなたのことだ」
ロジャー様は情け
「誰とも言わなかった。とてもきれいな青い目の娘だと。だって、名前を教えてもらえなかったからね」
「私の名前は、ご存じだったのでしょう?」
私は小さな声で尋ねた。アリシア様から聞いていないわけがない。
ロジャー様は恥ずかしそうに笑って答えた。
「ルイズとね」
名前には、魔力がこもる。
その名前を呼んだ時、愛しい人なら喜びと嬉しさが、楽しい思い出と一緒に湧きいでる。
「ルイズ、ルイズ。心の中で何回も呼んだよ。僕の呼びかけに返事してくれるあなたを想像した。でも、ダメなことはわかっていた」
現実は冷たい。
ロジャー様はバカではなかった。
だから彼は悲しんでいる。方法はないかとグルグル回っている。まさか、愛娘の悪口を、当の本人の父に告げるわけにはいかないだろう。
「誰に切られた? その髪」
突然、ロジャー様の話の
「あの時、カツラの意味が分かったよ」
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