第2想定 第3話
今日は基地で待機の日。
昼食を済ませた俺は待機室でのんびりとしている。
「よし、これは終わった」
といっても書類作成をしているんだけどな。
愛情保安庁では慢性的な予算不足と人手不足に悩まされている。それがSSTにも影響しているのだ。通常ならば特殊部隊というものは予算を優先的に充てられるものだけれど愛情保安庁にはそれをする余裕がない。姉ちゃんに給与明細を見せてもらったことがあるんだけど危険手当なんてものはほとんどなかったし、むしろさまざまな名目で天引きされているものもあったからな。ヘリコプターを飛ばせているのだって奇跡といっても過言ではないだろう。これで県内のどこにでも二十分以内に展開できる警戒態勢を維持しているんだから褒められてもいいよな。
「宗太郎、次はこっちね」
「分かった」
姉ちゃんから書類を受け取って確認する。こっちは日用品関係か。
午前中は小銃を抱えてエプロンをひたすら走り回り、それが終わったらずっと筋トレをしていた。午後には格闘訓練が待っている。昼休みは昼寝でもして午前中で使ってしまった体力と気力を少しでも回復させておきたかった。だけど今この仕事を終わらせなければ就寝前にやらないといけなくなってしまう。だって寝る前ぐらいゆっくりしたいだろ? だって眠いんだもん。寝る時間を削って書類書きをするのもいいかもしれないけど、それが終わってベッドに入った直後に出動指令が出たら堪ったものじゃない。この前は訓練だったけど深夜一時に叩き起こされて完全武装で山の奥に放り込まれたからな。あれは本当に地獄だったぞ。
発注品リストのメモにざっと目を通す。うわぁ、これを全部パソコンに入力しないといけないのか。ダルいなぁ。
「宗太郎」
浦上さんと高橋さんが待機室に入ってきた。
「ヒマか?」
「そう見えますか?」
きっと彼らの脳みそには筋肉が詰まっているから俺の状況が分からないのだろう。
「これから懸垂勝負をするんだけど宗太郎も参加するか?」
「いいですね、やりましょう」
辞めた。
書類作成なんてもう辞めた。
そんなの寝る前にチャチャっと片付ければいいんだ。
「よっしゃ!」
俺たち三人は一斉にTシャツを脱ぎ、上半身裸になった。
それを隣でパソコンを叩きながら見ていた愛梨が溜息をつく。
「なんでうちの隊の男たちってすぐに脱ぎたがるのかしら」
「気持ちいいだろ裸って。愛梨も脱ごうぜ!」
彼女の拳が飛んできた。
「……前が見えねェ」
「大げさだろ」
愛梨が無言で放ったパンチは俺の顔面のど真ん中にめり込んだ。
俺はどくどくと血が流れ出る鼻に丸めたティッシュをねじ込んで、浦上さんが持ってきてくれた氷水で患部を冷やしている。
「宗太郎ってたまにとんでもない事を言うよな」
看病してくれている浦上さんと会話をしながら鼻血が止まるのを待つ。彼はこの部隊で最も応急処置が得意らしい。
「俺は話が上手いので」
「全部爆弾発言だけどな」
「何言ってるんですか。俺は同級生から『全自動名言製造機』って言われているんですよ?」
「迷言か」
「そう、名言」
負傷してから十五分は経過しただろう。もうそろそろ血が止まってもいいころだ。
それにしても愛梨のやつ酷いよな。無言で俺をぶん殴ったんだぜ? せめてなにか言えっての。じゃないとどうして殴られたのか分からないじゃないか。愛梨のアレがなければ今頃懸垂勝負も終わっていた頃だろうに。そして当の愛梨は事件を起こしたあと、すぐに待機室から出て行った。俺にこんなことをして居心地が悪くなって出て行ったのだろう。そんなに気を使わなくていいのにな。ほら、俺は怒ってないから戻って来いよ。
≪ビ――――――≫
ドキリとするブザー。
『出動指令。宮崎市赤江、宮崎空港。屋内作戦第一出動。出動部隊、特殊二』
放送がいつものように独特な音声で指令を読み上げる。第一戦闘班は外部の施設で訓練中だ。対応できる部隊は必然的に第二戦闘班となる。
よりによって隣か。
それだったら走っていったほうが早いだろう。
俺は鼻に詰めていたティッシュを取り出す。現場に駆け付けた特殊部隊員が鼻にそんなものを詰めていたら周りは心配になるしなにより格好がつかないからな。そこそこの時間が経過していたこともあって止血は成功していた。赤く染まったそれを近くのごみ箱に放り込む。
「全員出動だ。ありさ、指示をたのむ」
「了解」
姪乃浜は急いだ様子で隣の指令室へと駆け込んでいった。
それと入れ替わりで愛梨が部屋に駆け込んできた。
「ありさ、どうするの?」
「愛梨と浦上さんはエントランスを。大牟田姉妹は発着ロビーを捜索して。ボクと宗太郎は駐機場を捜索する。武器はMP5Jで」
指定されたものは9ミリの拳銃弾を連射することができるサブマシンガン。アサルトライフルに比べると有効射程で劣るが取り回しは全長が短いサブマシンガンのほうが有利。空港施設内での作戦ということで閉所での射撃もありうるだろう。もちろんロビーのような広い空間もあるがサブマシンガンの射程で十分だ。
指示を受けた俺たちは一斉に武器庫へと駆け込んだ。タクティカルベストを着こみポーチに
『姪乃浜、出発ロビーに到着。パニック騒動が発生中』
最初に無線を入れたのは出発ロビーの捜索をしている美雪だった。
『ヤンデレによるものか?』
『その可能性が高い。乗客、空港スタッフ共にパニック状態の模様』
『空港スタッフから情報を聞き出せ』
『了解』
『残りは別命あるまで現在の持ち場を捜索』
俺たちも担当区域に到着してすぐのことだった。姪乃浜の言う別命とは『発見したヤンデレの元に急行せよ』というものだろう。大牟田姉妹が情報を聞き出し、出発ロビーにヤンデレがいると確定したらその指令が下るはずだ。
目の前を巨大な旅客機がゆっくりと進んでいく。
胴体にはでかでかと『INDEX AIR LINES』の文字。
周囲では空港関係者がなにやら慌てている。発着時刻に遅れているとかそういう感じではない。もしかして彼らもヤンデレ事案の事を知っているのか?
『ありさ、宗太郎! 今どこにいる!?』
小川さんからの無線だった。
「構造物中央付近の駐機場。現在ヤンデレを捜索中」
『了解だ。そこで待ってろ』
小川さんとの無線交信が終了し十数秒経過した頃に再び美雪から無線が入った。
『姪乃浜、空港スタッフより情報入手。ボーディングブリッジを爆破された模様。ヤンデレは爆発物を所持している』
『被害はどうだ?』
『付近にいた数名が死傷している』
『了解。浦上、愛梨は出発ロビーへ急行。ありさ、宗太郎はその場で待機』
姪乃浜の指示からそこまで時間はかからなかった。
小川さんがピックアップトラックを飛ばしてやってきた。
「荷台に乗って、そこにある装備を装着しろ!」
続けて指示を出すと、小川さんはトラックを発進させた。
荷台に乗っていたのは
地上での作戦には不要なものだった。それにヤンデレはボーディングブリッジ付近にいるはずだ。俺たちをトラックに乗せてどこへ行くのだろう。
「何かあったんですか? 空港の人たちも慌てた様子だったんですけど」
俺はさっき見た空港関係者を思い出しながら聞いてみる。
やはりあの慌てぶりは何かあるに違いない。
「前を見てみろ」
言われた方向に視線を向けると、INDEX AIR LINESがゆっくりと進んでいる。さっき俺たちの目の前を通過していった機体だ。
どこに行くのかなぁ。
なんにせよ良い旅を。
「あの機体が管制官の指示を無視してタキシングを始めた。本来ならば12時25分に動き出すはずだ。ハイジャックされた可能性がある」
腕時計を確認する。
まだ12時20分だ。
動き出すには早すぎる。
「ヒューマンエラーじゃないんですか?」
「その可能性も捨てきれないが最悪のパターンを想定しろ。あの中にヤンデレがいる可能性が高い」
良い旅にはなりそうにないな。
ピックアップトラックはさらにエンジンを高く唸らせ、旅客機との距離をぐんぐん詰めていく。
……あれ?
「もしかして機内に侵入しろとか言いませんよね?」
『良く分かっているじゃないか』
俺の疑問に答えたのは姪乃浜だった。
『これよりありさ、宗太郎の二名はハイジャックされた旅客機、IAL692便に降着装置から侵入。ヤンデレ鎮圧作戦を開始する』
「無理だ!」
これまでの任務とはスケールが違いすぎる。
『いまさら何を言っている。宗太郎はこれまでに多くのヤンデレの相手をしてきただろ』
「そっちじゃねぇよ!」
ヤンデレの相手をするのは大変だが、旅客機の車輪にしがみつくのに比べたらどうってことはない。
『大丈夫だ。車輪にしがみつくなんて小学生でもやっている』
「アニメじゃねぇか!」
あんな高性能な小学生を小学生の代表にするなよ。
そもそもあれは体が子供なだけであって、頭脳は俺と同じ高校生だ。
………………。
あれれぇ~?
コ●ンの頭脳が俺と同じ程度ってことは、俺も同じことができるってことか。
……騙されねぇからな。
あれはアニメ。現実と一緒にするものじゃない。
「だいたいコ●ンは飛行機を緊急着陸させてから機内に入ったんだぞ。ハイジャックされているんじゃ意味はないだろ」
『大丈夫だ。その機体の車輪格納庫には機内へ通じるハッチがある』
「ちくしょう! 開発者出てこい!」
そうなったらやるしかねぇじゃねぇか。
俺と姉ちゃんは自由降下の装備であるバイザー一体型のヘルメット。そして酸素マスクを装着した。
小川さんの正確な運転によって、左側の車輪にトラックが付けられた。それとほぼ同じタイミングで姉ちゃんが飛び移る。
さすがはベテラン。小川さんとの息もピッタリだ。
「宗太郎、次はお前だ!」
トラックはスッと進路を変更し、ぴたっと反対側の車輪と並走する。
俺の目の前で制止している車輪のポール。俺が飛び移る場所は動いていない。しかしその下に装着してある巨大なタイヤが轟々と唸りを上げて、谷底の地面を勢い良く後ろへと流している。
実際の速度は三十キロといったところだろうか。決して速いというわけではないが、タイヤの唸り声が俺の恐怖心をかきたてる。
「何をしている! 早く移れ!」
「分かってますって!」
「急げ! 滑走路に入っちまうぞ!」
まずい。
離陸が始まったらトラックでは追いつけない。それにジェット気流の影響を受けてまともに走れないはずだ。
つまり車輪に移乗する限界は離陸が始まるまで。
いや、小川さんが退避する時間も入れれば残り時間はほとんどない。
やるしかない。勇気を振り絞れ。
…………今だ!
ベストだと思ったタイミングで荷台を蹴り、車輪へと飛ぶ。
俺が乗り移ったのを確認すると、小川さんは離脱を開始した。
旅客機は左旋回で滑走路へと入っていく。センターラインを中央に捉えると、一瞬スピードが落ちた。
『離陸が始まるぞ。その機体は二百キロ手前で離陸する。振り落とされないようにしっかり捕まってろよ』
姪乃浜の無線が終わった直後、旅客機のエンジンはバリバリと轟音を立てながら滑走を開始した。
すごい風圧だ。
自由降下の装備を身に付けていなければ呼吸すらままならなかっただろう。
滑走路は数千メートル。
その距離を旅客機は十数秒で滑走し、タイヤが地面を離れた。
ぐんぐんと機体は上昇していく。
『宗太郎、手を滑らせて落下とかそういうヘマはするなよ』
「俺がそんなヘマをすると思うか?」
『……しないといいな』
降着装置の格納が始まった。
ハリウッド顔負けの侵入方法。『コマンドー』ならぬ『ソータロー』というアクション映画が作られてもおかしくはないだろう。
まぁその話はこの作戦がハッピーエンドに終わってからだ。俺の物語はハッピーエンドしか似合わないけどな。
愛情保安庁始まって以来のヤンデレ鎮圧作戦が――え?
ちょっと!?
待って!
降着装置が俺の体をミシミシと押しつぶしていった。
【SOTARO IS DEAD】
『………………………………』
「えっと……姪乃浜?」
俺が死亡したというのに、いつもの『宗太郎の死亡を確認、残りライフ二つ』という形式張った宣言がない。
「めいのはま~?」
『なぁ宗太郎、お前がさっき考えてたことを当ててやろうか?』
「なんだ?」
『「俺、コマンドー」とか思ってただろ』
残念。
コマンドーじゃない、ソータローだ。
『生き返ったら体をうまいこと動かして車輪をかわすんだ。いいな?』
【CONTINUE】
爆音。
風圧。
降着装置がゆっくりと格納される。
俺は体をくねらせてそれをかわす。
降着装置が引き込まれ、扉が閉鎖された。
「姪乃浜、機体への潜入が完了した」
『了解だ。そこから床下の貨物室に通じるハッチがあるはずだ。まずは貨物室でありさと合流しろ』
「了解」
姪乃浜が言っていたハッチはすぐに見つかった。俺が格納庫に移動すると同時に姉ちゃんもやってきた。
「姪乃浜、宗太郎と合流した」
『了解。こちらでは最悪を想定して航空自衛隊に出動を要請した。まもなく
「分かった。これより客室に侵入する」
『了解だ。CAには気をつけろ。CAだって
それもそうだな。
テロリストに対処する訓練は受けているだろう。当然、それに伴って
しかしさすがに飛行中の航空機に突入してくるとは想像していないだろう。
ましてや滑走中の車輪にしがみついて侵入だなんて。
「じゃあ宗太郎、客室に突入するよ」
「わかった。担当割りは?」
「ボクは機体前部。宗太郎は後ろを捜索して」
「了解。ヤンデレを見つけたらすぐに連絡する」
姉ちゃんは客室につながるハッチをそっと開けた。奥を確認するとばっと飛び出し、目の前にいたCAの口を塞いで貨物室に引き込んだ。
拘束から逃れようともがく彼女に姉ちゃんはささやいた。
「落ち着いて、宮崎県警です」
姉ちゃんは警察を名乗った。あくまで一般人のCAに愛情保安庁と名乗っても混乱するだけだろう。よくて海上保安庁と間違われるだけ。「海の警察がなんで飛行機に?」となるだけだ。
俺はハッチを閉鎖する。
それを確認すると姉ちゃんはCAを開放した。
「特殊部隊です。いつも一緒に訓練してるでしょう」
CAはまだ混乱している。
それも当然だ。乗務していた旅客機がハイジャックされたかと思えば突然貨物室に引き込まれたのだから。
「ハイジャックされたと聞いてやってきました。内部はどういう状況ですか?」
「……わかりません。離陸の準備をしていたら突然爆発音がしました」
爆発音か。
小川さんはこの機体が管制塔からの指示を無視して発進したと言っていた。それに美雪からの情報ではヤンデレは爆発物を所持している。CAの情報は俺たちが事前に入手していた情報と合致する。おそらくヤンデレは爆発物を使ってコクピットの扉を破り、この機体をハイジャックしたのだろう。
しかし旅客機のハイジャックは簡単ではない。
ヤンデレが使う凶器はヤンデレの狂気が具現化したものだ。身体検査の後にヤンデレ化したのであればその凶器が保安検査場で引っかかるわけがない。だがそれをクリアしたとしてもコクピットの扉は頑丈に作られている。それを爆破できるなんてどれだけ強力な爆発物なんだ。
「この機体の乗客と乗務員は何人ぐらいですか?」
「パイロットが二名、客室乗務員が一〇人、乗客が二四四人です」
「不審な乗客はいませんでしたか?」
「いえ、私の持ち場にはいませんでした」
「分かりました。これから客室に突入してハイジャック犯を制圧します」
「私は何をすればいいですか? 他の客室乗務員に連絡してきましょうか?」
「いいえ、中にはハイジャック犯がいます。不審な動きをすれば刺激してしまいますからここに隠れていてください」
「でも客室乗務員の義務が……」
「最悪の場合、不時着するかもしれません。他の乗務員に被害が出ているかもしれないから少しでも保安要員は確保しておきたい。その状況に備えて待機していてください」
ヤンデレは他の客室乗務員を手にかけているかもしれない。全滅しているかもしれない。万が一不時着することに備えて少しでも訓練を受けたスタッフを残しておきたいのだ。乗客全員の脱出は不可能でもより多くの命を救えることになる。
「宗太郎、相手は爆発物を所持している。それもコクピットの扉を破れるような強力なやつ。自爆も考えられる」
「了解。発見したら躊躇しない」
ヤンデレが自爆するだけだったらまだ可愛いほうだ。最悪の場合その爆発で機体が損傷、墜落することだってあり得る話だ。
「それじゃあ宗太郎、行くよ」
俺と姉ちゃんは客室内部へと侵入、それぞれの担当区域へと突入した。
「愛情保安庁だ!」
俺が客室に入ると乗客が悲鳴をあげる。
それも当然。この閉ざされた空間に銃をもった黒づくめの男が現れたのだから。
はたから見れば立派なハイジャック犯。
だけどそんなことは気にしない。
俺にはやり遂げなければならない任務がある。その任務のためならばハイジャック犯だと思われようが構わない。
「動くな!」
進路上には乗客を落ち着かせようとしていた客室乗務員。彼女の胸に銃口を向ける。
「席に座れ。ゆっくりとだ」
彼女は俺の指示に従って、近くの空いていた席に座った。
どうやらここにはヤンデレはいないようだ。もしいたら騒ぎになっているだろうしな。
次の区画の捜索だ。
俺は通路を速やかに移動する。
「おい」
「?」
呼びかけられて振り返る。
中学生ぐらいだろうか。まだ幼さが残る少年が紙コップを突き出して立っていた。
こちらへと飛翔する泥水のような液体。
だが怯んでいる場合ではない。
俺は懐に飛び込み距離を詰めると、脚をかけて
「なんのつもりだ?」
銃口を突きつけ、行動の意図を問う。
この香ばしい匂い。
俺の体にかかっていたものはコーヒーだった。
こいつはコーヒーを化学兵器か何かと勘違いしているのか?
だが、彼はこの危機的状況を理解していないことは確かだ。
床に崩された少年は不敵な笑みをこぼす。
「熱膨張って知ってるか?」
「知ってるよ」
パパパッ!
質問に答えつつ、俺はサブマシンガンで
動くなって言っているのにこんな事をするような奴だ。作戦中に何をしでかすか分かったものじゃない。かといってこの状況では拘束なんてしている余裕はない。
やむを得ない措置だった。
「勃起のことだろ?」
俺は彼に言ってやった。
血溜まりを作る少年。
手元には使用済みの紙コップが転がっている。
そこそこ歳がいった女性が、悲鳴をあげながら彼にとりついた。
おそらく少年の母親だろう。
死体の肩を必死でゆすっている。
似たもの親子だな。こっちが「動くな」って言ってるのに動くとは。
まぁ仕方ない。
母親も少年の元へと送ってやった。
む?
背後に気配。
俺は振り返って脅威に対処する。
こちらも少年だった。
彼も
しかし相手が悪かったな。
近接格闘で彼の背後をとり、彼の頭部を勢いよくねじって頸椎を破壊してやった。
姪乃浜に無線を入れる。
「一般人3名を排除」
『了解、ヤンデレの捜索を継続せよ』
それとほぼ同時に姉ちゃんからの無線。
『宗太郎、コクピットでヤンデレを発見した』
「了解。すぐそっちに向かう」
姉ちゃんがいるのは機体の最先端だ。
もうこれ以上
ある程度進んで振り返る。
いるのは恐怖で顔が引きつった一般人。少なくともコーヒーで反撃しようとする奴はいなかった。
コクピットに到着した。腕や頭部を欠損したパイロットが2名。爆破によるものだろう。装置類は黒く焦げてモニターは割れている。
そして乗客らしい男女が一組と彼らの対応にあたる姉ちゃん。
「待ってくれ! 逮捕は待ってくれ!」
「そのために来たんじゃないですよ~」
「違うんだ! 話せば分かるって!」
「ふふふ、これで
「ちょっとお前は黙ってろ!」
「まぁまぁお兄さん落ち着いて」
揉めているというかすがっているな。
男が姉ちゃんに何かをすがっている。
女のほうは……あ、こっちがヤンデレか。
瞳を見れば一発で分かる。
俺は会話に割り込み応援に入った。
「姉ちゃん、どうしたんだ?」
「君にも頼む! 話せば分かるんだ!」
男の乗客は俺にすがってきた。
ぱっと見た限り、男がヤンデレの女を庇おうとしているようだ。
おそらくこの飛行機をハイジャックしたのはヤンデレの方。
「はいはい、話は向こうで聞きましょう。宗太郎は彼女さんの対応をよろしくね」
「了解」
「待ってよ! 信昭君を連れてかないで!」
「まぁまぁ、話は俺が聞くから」
「あの女っ! 信昭君に色目を使って! きっと私から奪うつもりなんだわ!」
「それはないな」
姉ちゃんは男っ気が無いから大丈夫だ。
本人自体、そういうのには興味ないらしいからな。
それに姉ちゃんに彼氏なんて必要ない。
姉ちゃんには俺さえいれば十分なんだ。
そもそも姉ちゃんに彼氏なんてできたらこの俺が許さない。
姉ちゃんは誰にも渡さない。
姉ちゃんは俺だけの姉ちゃんなんだ。
「姉ちゃんは信昭君なんかには渡さないぞ」
「信昭君「なんか」ってどいうことよ!」
「そういう意味だ! 姉ちゃんにふさわしいのは俺だけだ!」
「なによ!」
俺たちは二人でギャーギャーと言い争った。
この女は何を言っているのだろう。姉ちゃんが信昭君と会ったのは数秒前のこと。それに比べて俺は生まれたときから十七年間ずっと一緒だ。これからも姉ちゃんと一緒にいるのは俺がふさわしいに決まっている。
『おい宗太郎。任務を忘れたか?』
「なんだと姪乃浜!?」
茶々入れるんじゃねぇよ!
俺はいま大事な話をしているんだ!
『何のために死んでまで機体に侵入したと思っているんだ。そんな気持ち悪い喧嘩をするためじゃないだろう?』
「気持ち悪いだと!? 姉ちゃんがあの男なんかに色目を使っているなんて気持ちの悪いことをこの女が言い出したんだぞ! 放っておけるかよ!」
男には戦わなければならないときがある。ここで反論しなかったら男が廃るってものだ。俺は特殊部隊員だからこの女と戦っているわけじゃない。姉ちゃんの弟だから戦っているのだ。
それを姪乃浜は何と言った?
よりによって「気持ち悪い」とほざきやがった。
アイツは姉がいないかチ〇コがついていないかのどちらかに違いない。
『分かった分かった。ありさには宗太郎がふさわしい。これからもずっと一緒だ』
「だろ?」
分かってるじゃないか姪乃浜。
あんな男に譲ったりなんかしない。
『だからさっさと任務を片付けて基地に戻ってこい。そしてありさに甘えるといい。この困難な状況を解決したとなればきっと褒めてくれるぞ』
「マジか!?」
ならばこの増援を望めない密室での作戦を成功させて、基地に戻ってたくさん褒めてもらわないとな。
「さて彼女さん、いったいこの飛行機をハイジャックして何をしたかったんだい?」
「アンタには関係ない!」
「函館の別荘にでも行くか? レインボーブリッジの下をくぐってみるか?」
「……なに言ってるの?」
「防衛省にでも突っ込んでみるか?」
「そんなことしたらみんな死んじゃうじゃない!」
ハイジャック犯が言うようなセリフじゃねぇぞ。
「試してみるか? 言っておくが俺はしぶとい
「ふふふっ」
ちょっとしたジョークに彼女は笑いを漏らした。そして――
「じゃあ殺しておかないと」
一瞬にして表情が暗くなった。そして右手に凶器が出現。俺はすぐさま格闘戦を仕掛けてその獲物を叩き落す。
「おいおい、俺がいったい何をしたっていうんだよ」
いきなり殺されそうになるだなんて俺はツイてないな。
いや、ツイていないのはSSTにスカウトされたときからの話だ。
「私と信昭はロシアで暮らすの。ううん、ロシアじゃなくてもいいわ。知っている人が誰もいない、誰にも邪魔されることがないところだったらどこだっていい。信昭と一緒ならどこだっていいの」
「だから羽田空港行きのこの便に乗ったのか」
きっと羽田でモスクワ行きの飛行機に乗り換えるのだろう。
「違うわ。この飛行機でそのままロシアに行くの」
この便は国内線だぞ?
モスクワまで飛ぶ燃料を積んでいるのか?
「だからパイロットに言ったの。今日はロシアに向かって飛んでって。だけどそれはできないって言われたの」
要するにコクピットのドアを爆破して入ったってことだろ? そうやって入ってきたやつが行先を変えろって言いだすものだからパイロットは驚いただろうな。
「それでどうしたんだ?」
「だからパイロットの一人を殺したわ。そしたらもう片方のパイロットは面白いほど言うことを聞くようになってね」
できればそのまま粘って特殊部隊の到着を待っていてほしかったが目の前で同僚が爆殺されたんだ。相当恐ろしかっただろうな。
「ちゃんと行先をロシアに変えさせてオートパイロットも設定させたわ」
俺はチラリと操縦席に座るパイロットに視線を向けた。座席の上部は吹き飛び、彼らは頭部がなくなっている。
ん?
おい待て。
「もしかしてもう片方のパイロットも殺してしまったのか?」
「そうよ。だって後から行先を変えられたら困るじゃない」
このまま飛行機に乗っていれば数時間後にはモスクワに到着しているとでも言いたげな表情だ。
しかしこいつはとんでもない間違いを犯している。
「何を言ってる! パイロットを殺害してどうやって着陸するんだ!」
「それはオートパイロットで――」
「この馬鹿!」
「……え?」
「オートパイロットで水平飛行はできても着陸はできない。どうしてもパイロットの操縦じゃないと着陸できないんだ!」
自分が犯した致命的な見落としを指摘され、彼女は絶叫した。金切り声が狭いコクピットに響き渡る。
絶叫したいのはこっちのほうだ。俺や姉ちゃんだけではない。この女も信昭もだ。この旅客機の乗客乗員の全員が地上に戻る手段を失ったのだ。この先に待っているのは燃料切れで墜落。俺たちは二度と地表を踏むことはできない。
「信昭と一緒に二人だけで外国で暮らすだって? どうやってその外国に降り立つんだ」
俺はただ、彼女に掴みかかるしかなかった。
両肩をつかみ、頭を前後に激しく揺らす。
「なぁどうするんだよ!?」
『ありさ、すぐにコクピットに戻れ』
時間はかからなかった。
姉ちゃんはすぐに戻ってきて俺たちの間に割ってはいった。
「はいはい、宗太郎も落ち着いて」
何事かと驚いた様子で信昭とやらもコクピットへと戻ってきていた。
「彼女さん、大丈夫だからね。落ち着て」
姉ちゃんはヤンデレをなんとか宥めようとするが、ヤンデレの手に何かが出現した。
それがなにか直観で分かった。爆薬だ。
まずい!
自爆するつもりだ!
俺はすぐさまホルスターのピストルに手をかけた。しかし俺が銃を引き抜く前に彼女の手首を姉ちゃんがへし曲げてその凶器を奪い去った。
鈍い音で床に落下する爆薬。狂気の発生源であるヤンデレのもとを離れたそれはあっという間に消滅した。
彼女は自責の念に駆られて自爆しようとしたのだろう。しかしそれは困る。こんな狭い場所でそんなことをされたら俺たちも巻き込まれてしまう。爆発の威力によってはこの旅客機ごと御陀仏だ。
「………………」
そんな彼女の姿を見て、気づいてしまった。
俺たちがこの旅客機から生還する方法が一つだけある。他の乗客乗員だって大丈夫だ。
しかしそれは最終手段。
………………ヤンデレを抹殺することだ。
それは彼女自身が自爆することでは解決できない。なぜなら彼女の殺意が自分自身に向いているから。彼女が自爆してしまえば彼女の殺意が達成されてしまう。俺たちの手で彼女を抹殺しなければならないのだ。
航空自衛隊第五航空団第三〇五飛行隊の戦闘機だ。
戦闘機の
その最悪の状況に陥れば被害を最小限に食い止めるために彼らは必ずこの旅客機を撃墜する。いや、コントロールを失ってからでは遅い。そうなる前に撃墜するはずだ。
死が差し迫ったこの状況で、姉ちゃんはいたって冷静だった。
「姪乃浜、イーグルの攻撃予定時刻は?」
『すぐに問い合わせる』
彼女の見落としを指摘したのは俺だ。俺がそんなことをしなければこんな最悪な状況にはならなかったはずだ。無事にヤンデレを鎮圧して、俺たちは基地に、他の連中は無事に目的地に到着したはずだ。
俺が彼女を追いこんでしまった。罪滅ぼしではないが、せめて俺の手で彼女を射殺しなければならない。
ホルスターからUSPを引き抜いた。しかし手が震えている。
これまでに任務で人間を殺害したことはある。さっきだって指示に従わなかった民間人を三名、敵対行動で射殺している。あのときは訓練通りにトリガーを引けた。なんの躊躇もなかった。なぜならヤンデレの対処が終わってヤンデレワールドが消滅すれば、彼らは生き返るから。それが俺を冷静にさせていた。
しかしこれは違う。
一人の人間を完全に消し去ってしまうのだ。
ヤンデレワールドが消滅しても決して生き返らない。
彼女だって人を愛し、独占欲や嫉妬にも駆られる人間だ。さっきまで俺と言い争いもしていた。そんな血の通った人間を一人、この世から抹殺しなければならない。
飛行中の旅客機で乗客が突然死――世間はそう騒ぎ立てるだろう。それが十七歳の少年によるものだと知らずに。
たった十七年間しか生きていない俺には重荷だった。いや、三十歳、四十歳と年を重ねていてもできる自信はない。
全身に冷や汗をかいていた。
呼吸も乱れていた。
震えるピストルを両手で握る。
それでも震えは止まらない。
「姪乃浜、じ、実だ――」
「宗太郎、しなくていいから」
姉ちゃんは俺を片腕で制し、太もものホルスターからピストルを引き抜いてサムセイフティを解除した。
「ヤンデレの鎮静化は絶望的と思われる……姪乃浜」
『了解。
たった数秒の淡々としたやりとりでヤンデレの射殺が決定された。
「彼氏さん、彼女さんを抱きしめてあげて」
「これが、運命なのか……」
そう呟くと信昭はガバッとヤンデレに飛びついて、ぎゅっと力任せに相手の体を抱きしめる。
絶望して喚いているヤンデレと信昭の絞り出すような嗚咽。
しばらくその姿を見守ると姉ちゃんは銃口を目標へと指向。
狭いコクピットに銃声が響き渡った。
ピストルから放たれた一発の銃弾はヤンデレの頭部を撃ち抜いていた。
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