17

 目を開いたら真っ白だった。私はプールの中のようなゴロゴロという音に包まれていて、後頭部から踵にかけて冷たい板の感触があった。冷静に記憶のポケットをまさぐる。人魚さんが持ってきた薬をぐいっと体内に流し込んだのを最後に更新は途絶えていた。全く、私という女は案外幸運なのだ。


 水圧に抗い、上体を起こしてみる。目の前に広がる薄汚い部屋……手術室だろうか。私は薬で意識を失ったまま人魚さんに運んでもらい、ここで手術を受けたのだと瞬時に悟る。


 生きててよかった。手術が失敗するかもと思いながら薬を飲んだ瞬間を思い出すだけで背筋が凍る。ほっと胸を撫で下ろして身体を縦に伸ばした。しばらく手入れもできずにザラザラのカピカピになっていたはずの自慢の長髪を手ぐしでとかす。水中なのに不思議なくらいにサラリとした手触りが心地良い。


 さて、人魚さんはどこだろう。ここに至るまでを眠って過ごしていたので何も分からない。左を見れば、どこかで見たようなフルーツ。右を見れば、すみれ色の髪が綺麗なお姉さん。


「Hello」


 すみれ色の髪が綺麗なお姉さん。私は思わずそれに見とれる。女の子らしい心のときめきに埋もれていたはずが、いつの間にかそれが喉奥から溢れてきて「きれい……」と呟いたのが事の始まりだった。


「……照れる」


 聞き慣れた美声をつぶやきながら、彼女はその瞳を切れ長の目の隅に追いやり、私から視線を逸らした。スマートな頬が僅かに紅潮している。高い鼻。みずみずしい唇。羨ましいくらいの美人。


「……え、お人形さんとかじゃないよね?」


「人魚さん 貴女 は そう 呼んで いました」


「人形じゃなくて人魚ってね」


 彼女が首を傾げる。人魚の世界に駄洒落はないのだろうか。もしくは日本語が難しいのか。そうだ、日本語と言えば。


「人魚さん、日本語上手になった?」


「水中 は 地上 より 話しやすい」


「ああ、そういうこと」


「貴女 も そういう 喉 に なってる はず」


「それで今、難なく話せてるってことね」


 なんでも、声帯や呼吸器などの諸々の器官も人魚仕様にしてもらったそうだ。これで海の中の生活も問題ないという寸法らしい。


「人魚さん、そんなに私にお金かけていいの?」


「お陰様 で 今 すごく 豊か」


「それはよかった」


「……というか もう 貴女 も 人魚さん」


 彼女はこれまた綺麗な指で私の脚の方を指す。きらきらきら、と照明の光がスパンコールのように煌めいている。細かい反射を作っているのは鱗。揺れているのはヒレ。それらは当然ながら私の腰のあたりから伸びている。


「……私の脚?」


「そこそこ ショッキング だから 見ない方が いい」


「あ、そうじゃなくて、えっと、これ、下半身……なんて言うの?」


「Уриет…… 私たち の 言葉 も 覚えないと ね」


「ど、努力します……。で、これが新しい私の下半身?」


「私 が 勝手 に 似合う やつ に しました」


 そんなファッション感覚で身体を選べるだなんて、人魚の技術はすごい。さすがに感覚が掴みにくいが、なんとなく脚のような感覚で動かしてみる。ぴちぴち。水中ではそのような音はならないが、そんな感じの動き。確かに私の身体だ。


 ……そうだ、ファッションといえば。


 人魚さんの方に、ぐわっと首を向ける。私の髪が水中を舞う。彼女は不思議そうに首を傾げる。地上でも何回も見た動きはやはり可愛らしい。対照的に、首から下は大人っぽいというか、アダルティというか。


「……本当になんにも着ないんだ」


「私 から したら『着る』という のが 不思議」


 考えてみたら私も何も着ていない。確かに水中で服は邪魔だろうけど、それはそれとして掻き立てられるものがある。急に直視するのが恥ずかしくなってきて、膝(?)を抱えて正面の遠いところを向いてみる。


「……先生 呼んで こなくては」


「あ、私が目覚めたから?」


「喋り すぎた」


 彼女が視界の端から消えていく。目で追ってみると、ひらりひらりと優雅に泳ぐ姿があった。すみれ色の髪がなびき、ヒレが揺れる。人魚さんの本当の姿をやっと見られた気がして、つい口元が緩む。


 彼女が出口の前で、くるりと私の方に向き直る。


「私 の 女 に なる…… って 嘘では ない でしょう?」


 彼女がはにかむ。こんなに素敵な笑顔ができるんだ。私は息が詰まって何も返せない。きっと水中だからだ。


「安全 確認 できたら ハグ しましょう」


 もう、人魚さんってば。


「……Икусиад」


 言い残して、彼女は泳ぎ去る。すぐに壁の裏に隠れて見えなくなる。


「……だから、なんて言ってるかわからないんだって」


 去り際に振り返った彼女の笑顔を思い出す。そこにあったものは恐らく今までもしていた表情なのだろうけど、今までとこれからとでは全くもって事情が違うのである。


 これが、私と彼女の始まりなのだ。







                Fin.

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