第3話 おしるこ君(2)

 普通教室でぼんやりと四限の講義の準備をしていたら、あいつがするっと隣に座ってきた。なんか、さもそれが当然で自然みたいな顔をして。

 そういえば、今日は三限は別々だけど、四限はいっしょになる日だったな……と今ごろ思い出す。

 俺は、また耳のところが熱くなってきて焦る。

 だめだ、だめだ。思い出すな俺。


 教養課程の間は、必修科目以外はわりと好きな講義を選んで聞ける。自分の学部とはあまり関係のない講義でも、ちょっと興味があれば聞きにいけるのはわりとお得だ。歴史とか哲学とか、聞いてるだけでもけっこうおもしろい。

 この四限はふたりともその「自由時間」みたいなもので、こいつが自分から「聞いてみたい」って言うからとった論理学の基礎編の講義だった。正直、俺にはよくわかんない話も多いんだけど、こいつと一緒にいられるんならとってもいいか……ってとったやつだ。

 初老の教授がモニターに数式をならべながら説明している。


「『○○ならば△△だ』。それが真だとしても、だからといって『△△ならば○○だ』も真だとは言えない場合もあるでしょう。例えば──」


 うーん。相変わらずわかりにくい。聞いているうちに、だんだん頭の中がこんがらがっちゃう。でも、先生の説明はこれでもかなりかみ砕いているもんだっていうのはよくわかる。ちょっと眠くなっちゃうけど。

 でもこいつが楽しそうに聞いているから、俺はそれで構わない。その横顔を鑑賞する時間ってことで満足している。大きな手の上で、シャーペンがくるんくるんと器用に回されているのを眺めながら、俺は頬杖をついている。

 と、いきなり小声で囁かれた。


「なあ。今日、行っていい」

「……んあ?」


 いきなりでびっくりする。いつのまにかシャーペンが止まってる。目をあげたら、あいつは目線を教授に向けたままだった。相変わらずのクールな表情。

 俺も、できるだけ小声でたずねる。


「行くって……俺んち?」

「ああ」

「えっと……駅前のカラオケとかじゃダメなの」


 なんとなく、今日こいつを自分ちに上げるのは気が引けた。いつもだったら大喜びでふたつ返事のとこなんだけど、なんでだろう。

 あいつはちらりと目だけでこっちを見た。


「今日、合コンがあるらしくてな。どこでやるかは聞いてねえけど、バイトがあるって断ったから」

「あー。なるほど……」


 つまり、そいつらとばったり顔を合わせたくねえわけだ。

 ま、俺だってこいつが合コンにひょいひょい参加したらいやーな気持ちになると思うから、別にそれはいいんだけど。


「それに、久しぶりにぷとに会いたい」

「あ、ぷとね……」


 「ぷと」っていうのは、俺んちの猫。茶色のシマ柄の女の子。本名は「プトレマイオス」なんだけど、長いもんだから今じゃみんな「ぷと」としか呼ばない。

 高校の時、家の近くの空き地に捨てられていたのを俺が拾った。ちょうど世界史でやってたとこで、俺が「プトレマイオスにする!」って主張してこうなった。最初はやせこけてて、目やにでいっぱいで目も開いてなくて。

 獣医に連れて行って、最初はけっこうお金もかかって、母さんはちょっと困った顔をしていたもんだ。でも今は、すっかり健康体。そして家族の一員だ。逆に、ちょっとブタ猫化しているのが心配なぐらいだけど。俺んちが一戸建てで本当によかったよ。

 前にこいつが家に来たとき、こいつもぷとに会っている。なんか、お互い気が合うみたい。そういえば、なんかこいつもちょっと猫っぽいもんな。


「べつに……いっけど」

「そうか」


 講義中の私語はそこで終わった。





「なお~う」


 玄関を入った途端、ぷとの声がした。

 でふでふでふ、と重たい足音をさせて、廊下の奥からでてくる巨体。

 一応、出迎えてくれるのはちょっと嬉しいけど、これは本人──いや猫だから「本猫」か──の小腹がすいているとき限定だ。

 親父と母さんは仕事でいない。いつものことだ。


「おー、ぷと。来たぞ」


 あいつは早速手をのばして、ぷとの頭をなでる。ぷともとっくにこいつを個体認識していて、普通に体をさわらせる。もうさっそくぐるぐる喉を鳴らして、ジーンズを穿いたあいつの足のところに頭をぐりぐりこすりつけている。


「ジュースにする? コーヒーか、お茶がいいかな」


 肩からデイパックをおろして声を掛けると、あいつはぷとを抱き上げてソファに座りながら「ん、お茶でいい」と答えた。俺は冷蔵庫からお茶のピッチャーを取り出し、ガラスのコップにつぎ分ける。

 ソファ前のローテーブルにコップを置いて隣に座ったら、満足したらしいぷとがでふん、とあいつの膝からとびおりて部屋から出ていった。


 途端、ぐいと横から抱きしめられる。


「ほぎゃ!?」


 どっからでてんだ、俺の声!

 奇っ怪なバケモンみたいな声、出すなっつーの!


「あっ、ああああ、あの──」

「うるせえ。黙っとけ」

「ひううう……」


 急に熱をもってかちんこちんになった俺の体を、あいつは構わず、さらにぎゅうっと抱きしめてきた。

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