手のひらを太陽に
振矢瑠以洲
第1話
雲がほとんど浮かんでない。弾けるような青空の中で太陽が眩しいばかりの光を地上に放っていた。木々の葉が純白の太陽の光を浴びて緑色の光であたり一面を照らしていた。
テレビのどのチャンネルでも毎日新型コロナウイルスのニュースが流れていた。つい数ヶ月前には人で溢れ、路上では音楽が溢れていた世界中の大都市が目を瞑ると瞼の裏に浮かんできた。路上で響くドラムを叩く音、サックスの空気中に沁み通るような音、様々な音を縫うようにギターをつま弾く音が響いていた。満員の地下鉄の車両に別の車両から突然進入してきた黒人少年の一段。何かをアナウンスした後アカペラで歌い始めたコーラスの響き。まさにニューヨークの美しい雑踏と喧騒が瞼の裏に映し出されていた。
しかし、瞼を開くと飛び込んできたのは、ニューヨークの今まで見たことのない映像であった。真昼なのに人っ子ひとり見られないタイムズスクウェアの映像であった。私はその映像を見ながら自分の体が凍りついていくような感覚に襲われた。映画の一場面を見ているようなニュースの一場面。2001年9月11日にテレビで見た映像。このような感覚を味わったのはそれ以来であるかもしれない。ニューヨークのツインターワーに旅客機が突こんだ状態で炎を上げている。その映像が無言の状態で映し出されている。私はそれが現実であることがしばらく信じられなかった。それよりもその現実をしばらくの間受け入れることができなかった。だが、しばらくするとその映像の中にもう一機の旅客機が突っ込んできたのだ。
今テレビに映し出されたニューヨークの映像を見ているとあの時以来の衝撃を感じないではいられなかった。だけど今テレビを通して目に飛び込んでくるのはニューヨークの街だけではなかった。ロンドン、パリ、ミラノなど世界中の大都市の人影のない真昼の映像が飛び込んでくるのであった。
2020年世界中が目に見えないどころか光学顕微鏡でも見ることのできない極小の物体、新型ウイルスによって震撼している。かつてヨーロッパを襲ったペストは細菌で顕微鏡で見ることができる。千分の1ミリから1万分の1ミリくらいの大きさか。新型コロナウイルスはウイルスはであり、細菌の十分の一から百分の一くらいの大きさである。1万分の1ミリから10万分の1ミリくらいの大きさか。電子顕微鏡でないと見ることができない。太陽のコロナのようなものが周りにあるのでコロナウイルスと名付けられているらしい。かつて中国、韓国などを襲ったサーズ、マーズもこのような形をしていてコロナウイルスの部類に入るそうである。今世界中を襲っているウイルスはこの新型であるということで新型のコロナウイルスと呼ばれている。外国ではコビッド19と呼ばれている。これが正式名称になっているのだろうか。2019に発生したことからコビッド19と呼んでいるということは、このウイルスが収束した後でも再び姿を変えてコビッド22とか23とかいう名称で出てくることを恐れているのだろうか。
感染しても一部の人は無症状で済んでしまう。そのためにその一部の無症状の人を通してあっという間に世界中に浸透してしまった。一部の人々は重症化してしまい、世界中で多くの死者を出してしまった。そのため世界中が恐怖の只中にいる。欧米人にとって日常的な挨拶表現であるハグで簡単に感染してしまう。日常的な会話で感染してしまう。数時間前に感染者が触れたドアノブに触れただけで感染してしまう。世界中の全ての人々が今まで経験したことのない恐怖の中にいる。この未知のウイルスを恐れている。
空の青さがなんとも言えない美しさだ。私が今住んでいる安アパートの小さな窓から見える青空だが、信じられないくらい美しい。そして信じられないくらい静かだ。いつも今頃の時間になると私が住んでいるアパートからそれほど遠くないところにある空港から離着陸する旅客機の上空を飛び交うエンジン音で部屋中が響くのであるが、今そのような音がしない。静かだ。
私は両親が建てた家で生まれそこで育ってきた。だが今そこには住んでいない。今この安アパートに一人で住んでいる。両親は同じ時間に同じ場所でこの地上での命を終えた。二人の乗った車はガードレールを壊すほどの勢いで暴走して崖から落ちてしまった。その日は大雨であったので、警察はタイヤのスリップによる事故死という判定をした。しかし、私にはそれが事故死でないことは分かっていた。父は事業に失敗して多額の借金を抱えていた。私に住む家だけは残そうと生命保険を掛けていたが、返済未納期間が長かったために、利息が多額に及んでいたことを両親は知らなかった。
当時高校2年だった私は、とても卒業することは無理であることを、当時の年齢の私でもわかった。私の状況を知っていた進路指導部の先生は、住み込みの建設関係の企業を紹介してくれた。その会社に1年くらい勤めた頃だろうか。会社の業績がかなり悪くなったようだ。正社員ではなく、契約社員であった私は、人事課より解雇を言い渡された。とにかくすぐに次の仕事に就きたいと思いハローワークに登録した。雇用保険が降りたのでどうにか今住んでいるアパートを借りることができた。すぐ就職できたのは派遣会社であった。派遣会社を通して色々な仕事をしてきた。最初派遣されたのは清掃会社であった。その会社では清掃の仕方を徹底的に教えられた。次に派遣されたのは介護福祉会社で、介護福祉の資格を持っていなかった私がしたのは補助的な仕事であった。次に行ったのは建築現場。ほとんどの仕事は建築材料を運搬する仕事だった。そして道路工事現場での交通整理の仕事。真夏でもヘルメットと長袖の作業服で照りつける太陽のもと立っていることはつらいことであった。
今テレビではこの新型コロナウイルスで職を失った人。休業要請で店の収入がなくなってしまった自営業の人。アルバイトがなくなってしまって大学を辞めることを考えている学生。医療現場で感染の恐怖にたえず恐れながら疲労困憊している医療従事者。次から次へと日本の新型コロナウイルスによって引き起こされた惨状が報道されている。そういえば私もこのウイルスの所為でここ数日派遣の仕事が途絶えている。このままだと後一週間くらいで貯金も底をついてしまい、家賃も払えなくなってしまいそうだ。
このまま収入がなければ手放さなければならいないと思いながら、今見ているテレビには、10年ほど前の日本の情景が映っていた。日本の地方の自然の風景が、BGMと一緒に映し出されていた。富士山を背景にした田園風景が眩しい緑の光を反射させていた。その自然の風景の間に時折東京の街並みの風景が映し出されていた。それは休日の銀座の歩行者天国の様子であった。マスクをしている人はほとんどいなかった。歩行者天国は人で溢れていた。今にもぶつかりそうなほど接近してすれ違っていく人々があちらこちらで見られた。人に近づくこと、人が近づいてくることを疑心暗鬼の様子で歩いている人はほとんど見かけなかった。
テレビには地方の街並みが映し出されていた。観光地でもないなんの特徴もない街並みが映し出されていた。その街並みに突然私の目は釘付けになってしまった。その街並みは私が生まれ育った家がある街であった。私の両親が建てた家があった街である。両親がなくなってから手放さなければならなかった家のある街である。カメラは商店街をぬって歩くように映し出していた。カメラの視線は住宅街を通る道路に沿って、歩く速さで動いていった。道路に沿って左右の住宅を一軒一軒映し出していた。やがてある一軒の家をアップで映し出していた。私は身体中が固まり熱くなるのを感じた。その家の外観の映像は私の思いを私の十代の頃へとあっという間に誘って行った。
身体中が硬くなり、燃えるような熱を帯びて熱くなっていくのを感じた。身体が少しずつ浮いていくような感じがした。テレビの画面には依然として、私がかつて住んでいた住宅の外観が映し出されていた。私の身体全体がその映像に吸い寄せられていくのを感じた。意識が朦朧としていくのを感じた。
深い眠りから突然目覚めたような気分だ。瞼を開けて眩しい光が飛び込んできたので、今までいた暗い闇が消え去っていく感覚を味わった。私の眼の前にはテレビがあった。私が以前見ていたのと全く同じテレビである。なんとも言い知れぬ懐かしさを感じた。テレビの映像には世界中の大都市が次から次へと映し出されていた。どの大都市の映像も真昼なのに人影がなかった。
後ろを振り向いた時、私は自分の目に映るものが信じられなかった。父と母がいるではないか。
「正志、どうした? 急に驚いた顔をして?」
父親の声だ。あの懐かしい声の響きが私を十代の頃へと一気に戻してくれた。母と父の顔だ。なんと懐かしいのだろうか。事故で亡くなった二人の顔を見た時、二人の元気な顔が浮かび、もう一度会いたいとどんなに思ったことか。あの日涙が止まらなかった。次の日も涙が止まらなかった。次の日も、次の日も涙が止まらなかった。何日泣き続けただろうか。でも、今こうして二人の顔が見られるなんて。きっと夢を見ているのだろう。でもなんてはっきりした夢なのだろうか。
「テレビに突然あんな映像が出てきたので驚いたのよね」
懐かしい母の声だ。この声の響きをもう一度聞きたいとどんなに思ったことか。テレビには世界中の大都市の人影のない映像が依然として映っていた。手元には今日の新聞があった。新聞の日付のところを見た。2010年5月10日。壁にかかっているカレンダーを見た。2010年5月。そうかこれはタイムスリップの夢か。ということは私は高校2年生なのか。両親が崖から落ちて亡くなった日のひと月前のことか。両親がなくなる前に戻りたいという私の願望が夢の中で反映されているのか。今日から1月後に両親は事故で亡くなってしまうことになる。
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