第10話

(第10話 竜道は逃避行の一部始終を妻に白状した)


 その夜の食卓は、お料理にはちょっとお箸をつけた程度で、あとはワインばかり飲んでいた。こんな時でも旺盛な竜道の食欲に、頼もしいものを感じながら、竜道が口の中に食べ物を運ぶ様子を酔った目つきで見ていた。


 夜は波の音と竜道の柔らかい寝息を聞きながら、眠れなくて寝返りばかりしていた。朝の光が海から部屋に入ってくる頃になって、竜道は気がつき、


「寝てないんだね。体にさわるよ」


 といって、


「ねんねん、ころりよ」


 といいながら、ミモザの背中に手をまわして撫で、そのうちにまた眠ってしまった。


 しばらくしてもう一度目覚めて、寝ぼけながら、


「ねんねん」


 と、背中を撫でているうちに、次第に目を覚ましてきた。


「今日でしばらくの間おあずけなんだね。ミモザ。おれは何とかしてミモザの体の中に、おれの足跡を残したいと思うんだけれ、その時は残せたと思っても、あとではなんか頼りなくなるんだ。それで、今度こそは、今度こそはと、挑戦するんだよ。しばらく会えないと思うと余計だ。最後にもう一度だけ・・・」


 竜道はミモザが寝られなかった事を気遣ってか、静かにミモザを抱き寄せはじめた。


「駄目よ、竜道さあん、いや、いやーん」


 と言いながらも、竜道の手にかかると、魔法をかけられたように、竜道にされるままになってしまう。竜道の強い力で突き上げられると、自分から竜道の首に手をまわして、しがみついているのだった。


 竜道としばらく会えないかも知れないと思うと、ミモザも竜道を覚えておきたかった。果てた後も、いつまでも竜道を抱いたまま離さなかった。


「よかったかい」と、竜道は耳元でささやいた。


 ミモザは、うっとりとした目で竜道を見、


「うーん」と大きくうなずいた。


 こんな切羽詰った時でも、竜道に愛されると、不安はどこかに消えているのだった。


 チェックアウトで部屋を出る時は、何度も泣いた。いよいよ出なければならなくなった時、ミモザは気丈に涙を止めた。そして化粧で泣き顔をつくろうと、バッグから四十万円取り出し、竜道に渡した。竜道は貞淑な妻を守っているというふうに、堂々とフロントで払いを済ませた。


 ミモザは帰路、車の中で、どんなに汚いマンションでもいいから、今ある貯金に見合った所を借りて、竜道と一緒に暮らしていきたいとすがった。竜道は絶対貯金を取り戻して迎えに行くから、二、三日だけ我慢してほしいと、ミモザをなだめるだけだった。


 大阪に着いて駅前の駐車場に車を入れた。


「遅いけど、昼食をとってから、送っていくよ」


「あんまりお腹すいてないから、喫茶店でサンドウィッチでいいわ」


 竜道は駅のホテルの喫茶店に入った。ミモザは食事はどうでもよく竜道と少しでも長く一緒にいたかった。喫茶店は満席に近く、さすがに大都会だなあと懐かしく感じた。大都会の片隅に場を占めたミモザは、この中で不幸なのは自分だけでないかと思った。


「奥様からお金を取り戻せなかったら、どうなるの?」


「そんなことは絶対にないよ。携帯でしょちゅう連絡するつもりだから、電源を入れて聞きやすい状態にしておいてよ」


「不安だわ。このまま東大阪まで走って、住む所探したい」


「それは無謀だよ」


「どうして?無謀な事なの?」


 ミモザは突然嗚咽した。竜道はミモザを隠すように、背をのばし、両肘を広げてテーブルの上に覆いかぶさった。ミモザはハンカチを出し、口と鼻を押さえた。


「ミモザ、落ち着いて。誰か知り合いがいるとまずいよ」


 ミモザは涙をふき、うつむいたままコーヒーを飲んだ。


「ミモザ、おかあさんの家まで送っていくよ。道教えてくれる?」


「送ってもらって帰ったら、近所にも知れるし、敷居がますます高くなって、帰りにくいわ。ここからなら近いから電車で帰る」


 竜道は心配して改札口まで送ってきた。


「しばしの別れよ」


「電話、お願いね。約束よ」


 ミモザは、人目をはばかる竜道に配慮して、抱き合うことも、握手することもできず、目だけで親しみを表し、別れて行った。四、五歩歩いてふと振り返ると、竜道の後姿が人ごみに隠れて行くところだった。ミモザは懐かしさが一杯になって、とっさに改札口を出、竜道の後姿を追いかけた。だが、人ごみに紛れて見失ってしまった。ミモザは呆然自失しデパートを意味もなく歩き回っていた。ふと、気付いて時計を見るとまだ五時だった。父の家に帰るには夜がいいと思いついて、デパートの喫茶店で、時間をすごした。


 その夜は闇夜だった。ミモザには好都合だった。住宅地の近所の誰にも会わなかった。ミモザは実家の前に立って、いそいでインターホンを押した。


「はい」


 と答えたのは、父だった。


「ミモザです」


 何の返答もなく切れた。


 慌ただしく、父が出てきて、


「早く入れ」


 と厳しい口調で言った。


「一体どうなってるんだ。お前が駆け落ちしたんだと?座れ、ここに座れ」


 ミモザは強引にダイニングの椅子に坐らされた。


「勲さんが血相変えて飛び込んできたぞ。PTA会長の不動産屋の男と、どこをうろついていたんだ。何が不足でそんなことをしたんだ。言うてみろ」


 そこへ騒動を聞きつけて母が駆けつけてきた。


「ミモザ!」


 母は倒れそうにテーブルに手をついた。


「ミモザ、心配したよ」


「お前は黙っとれ。お前のせいでどんなに恥をかいたか、わかっとるか? 説明してみろ!どしてそんな奴と駆け落ちしたのか」


 父は今にもミモザに飛びかからんばかりに身を乗り出してきて、テーブルをどんと叩いた。


「お父さん、そんなに興奮したら血圧が上がります。私がこの子の娘盛りに病気になって、この子に主婦がわりをさせ、世の中の事も男女の事も、何にもしらないままに結婚させたことがいけなかったんです。こんなことが起ったのも私のせいだと、つらい思いでこの一週間過ごしました。私に免じて、もう少し落ち着いてミモザの話を聞いてやってください」


 母は手を合わせて父に祈った。


「馬鹿娘!」


 と、口の中でもごもご言って、父はトーンダウンしていった。


 その夜は客間に蒲団を敷いて横になったが、ほとんど眠れなかった。竜道のうちの騒動を思いやり、竜道が心配だった。母も眠れなかったのか夜の明けないうちにキッチンでお茶を沸かし始めた。ミモザは、もう横に竜道のいない床から起き上がり、静かに廊下を踏んで、キッチンに入った。


「眠れなかったのかい? お母さんも寝られなかったよ。この一週間ずっと・・・。ミモザが家を出て三日目に、不動産屋の奥さんがお寺に乗り込んできたらしい。応対に出た勲さんが、そんなはずはないと、血相かえて尋ねてきたんだよ。滅多に見えない勲さんが見えたのだよ。お父さんも私も寝耳に水。勲さんに詫びることもせず、呆然としたままだった」


 ミモザは何も言えなく頭を垂れた。


「河村さんにミモザの帰ったことを伝えなければ、知れたあとでは隠していたようで、心証を悪くされるから」


「田代の奥さんはここには来てない?」


「来てないよ。ここは知らないと思うし・・・。勲さんの所へは、お前が監督不行き届きだから、人の亭主を取るのだとわめいていったらしい」


 ミモザは、人から敬われることはあってもなじられたことなど一度もない勲のことを思うと、気が沈んでいった。


「お母さん、私もうお寺には帰れないし帰りたくないの。河村さんにお願いして、離婚させていただきたいの」


「ミモザから離婚を言い出すまでもなく、お姑さんは怒っています。私や勲、ひいては本間家のご先祖さんに後足で泥をひっかけていった人は、一歩も家にいれませんといわれたらしい。河村さんはあそこの檀家だし、仲人でもあるし、平謝りに謝ったらしいの」


 その時父の足音が聞えた。父も眠れなかったらしい。


「ミモザ、ぼんやり突っ立っていないで、座れ」


 ミモザは慌てて椅子に腰掛けた。


「お前はその田代とかいう碌でもない不動産屋に、人生を無茶苦茶にされたのだぞ。それがわかっとるか。河村さんによると、そいつは前にも一度女と密通していたということだ。その時は女の方が悧巧で、旦那に知られそうになって、手を切ったらしい。お前は馬鹿だ」


 ミモザは、そんなことはりません、竜道さんに限ってそんなことはありませんと、心の中でつぶやいていた。


 父は、うーんと急に頭を抱えて、


「河村さんの家には、わしが行かねばなるまい。この年になって、こんな恥をかくとは・・・」


 と、唸るように言った。


 ミモザは父の苦渋を目の前にしながら、竜道の以前の『密通』という話で、頭が一杯だった。もしそれが本当なら、竜道は前の女にも自分にしたように喜びを与えたのだろうか?自分は竜道しかしらない。竜道は自分以外にも味わいつくしている。それが、口を滑らせた『気の強い女』だったのだろうか。ミモザは身悶えするほど口惜しかった。早く夜が明けて、竜道に携帯をかけられる時間になればいいと考えてばかりいた。


「お父さん、私も一緒にまいります」


 と、母は 父をねぎらった。


「すみません」


 と、ミモザは小声で言って、操り人形のようにぎこちなく、朝食の支度を手伝った。


 父母はいやな事は早く済ませたいのか、九時には家を出た。ミモザは昔自分の使っていた部屋を片付けながら、時間をつぶした。やっと十時になって竜道に携帯をかけた。


「もしもし」


 とミモザが言うと、


「そちらは、誰ですか。名前を名乗りなさい」


 という、女の人の甲高い声が聞えた。


 ミモザが窮していると、


「本間ミモザさんですね。間違いないですね。私は竜道の妻です。あなたは泥棒猫のような行為をして卑劣だと思わないのですか?夫婦気取りで旅行して、何処を旅行したのか言ってみなさい」


 と畳みかけるようにしゃべった。ミモザは驚いて電話を切ることも忘れていると、


「有馬三泊、倉敷二泊、鳴門二泊でしょう。竜道にみんな吐かせましたからね。ずうずうしくもパンティまで買わせたでしょう。それも柄のついた派手なやつを買ったでしょう。いい年したおばんのくせに花柄のパンティでもあるまい。これで分かったでしょう。竜道は私に頭があがらないのですよ。あんたは竜道にもてあそばれただけ!もう二度と竜道に近づくな!・・・・」


 まだ何かしゃべっていたけれど、ミモザは電話を切った。


 ミモザはくらくらして自室の窓辺にもたれかかって、顔をおおった。あの人の妻がパンティを買ったことを知っている。竜道と自分しか知らないはずの事を知っている。竜道以外にそれを言う人はいないはずだ。竜道は何故そんなことまでしゃべったのだろうか? 恥部をさらけだすようなそんなことまで・・・。 時々詩人のように素敵な言葉をはく竜道が、そんな下品な行為に及ぶだろうか?


 私をおばんときめつけた妻は、何歳なのだろう?三十七歳?それとも竜道さんより十も若い三十五歳?声は低く年寄りくさかったが・・・でも、もうおばんだといったのだから、私よりは若いにちがいない。私は竜道さんより一つしか若くないのだから、妻は勝ち誇っているに違いない。


 ひょっとしたら、竜道さんはじゃじゃ馬のような若い妻を愛していて、それを乗りこなしたいと強く思っているが、調教できず、自分との細部を語って嫉妬させ、妻が嫉妬に燃えあがって、逆に自分にしがみついてきてくれることを望んで、秘密をばらしたのだろうか?私を当て馬にして。


 ミモザはずるずるとしゃがみこんでしまった。


 いいえ、そんなことはあり得ないわ。あの愛は嘘ではない。七日間愛し通してくれたことが嘘だったなんて・・・。


 いやいやいや!


 でも、パンティを買ったことや、パンティの色まで間違いないもの。あてずっぽうで的中するはずはないわ。


 だとしたら、竜道さんが言ったに違いない。


 例え妻がどんなに攻めても、口を割らないことはできたはずだわ。私を愛しているならば・・・。竜道さんは妻を愛しているんだ。年若い妻を!


 ミモザは思い込み激しく、妻の若さに嫉妬し、ぶたれてもぶたれても年若い妻に頭を下げていく竜道に君臨しているじゃじゃ馬のように強い妻が羨ましかった。


 ミモザはうずくまったまま泣いた。


 ふと時計を見上げると十一時半だった。外食をしない父母が帰ってくる時間だった。ミモザは顔を洗い、泣いた事を気づかれないように、部屋の掃除を続けた。


 父母は疲れた様子で帰ってきて、リビングのテーブルに向かって坐った。


「河村さんのおっしゃることには、あちら様も離婚を望んでいる。ただ、離婚届は勲さんが直接ミモザに渡したいという希望なので、都合のいい日を河村さんまで連絡して欲しい。そうしたら、会う場所をむこうから指示してくることになっているから、お知らせします、ということだったの」と、母が言った。


「とんでもないことを、しでかしてくれた」


 と、父は独り言のように呟いた。


 ミモザは、うつむいて、目をつぶって、


「すみません」


 と、かすかに聞えるか聞えないかの声で謝った。


 現在のミモザにとって、勲は、二十年以上一緒に暮らしてきたのだけれど、強く心に迫ってくるものがなかった。姑、勲、陽一と強い血縁で結ばれている中で、自分だけはいつもよそ者で、輪の中に入れない寂しさがあった。そのことに気付いてくれない勲が、うらめしかった。ここ四、五年は、勲がぷっつりと自分に触れてこなくなって、ますます勲の印象が薄くなっていた。それに反してたった一週間だったけれど、竜道の影は濃く深くミモザを覆い尽くしていた。ミモザは結婚前に使った清らかなベッドに横たわりながら、勲に会わなければならない気まずさよりも、竜道と妻の関係を推し測り、嫉妬し、絶望し、それでもまだ、竜道を善意に解釈する筋道はないかと、あれこれと考えを巡らすのだった。ミモザは、家に帰っての第二夜を、一睡もできないで過ごしていた。


 ミモザは夜明けと共に起き上がった。部屋の隅の娘時代に使っていた鏡台に向かって、顔を映した。瞼がはれぼったくなっている。じっとその顔に向かっていると、竜道が背後からミモザを抱きすくめに来てくれるような錯覚に陥った。今はそんなことはないのだ、竜道は今妻に責められながらも、妻を強い腕力で抱き伏せているかもしれないと思うと、子宮が痛んだ。嫉妬からのその痛みを、今は甘えて訴える相手もいないし、「可愛いミモザの可愛いところ」と手を伸ばしてきてくれる人もいないと思うと、打ちひしがれた。ぐずぐずとそのまま蹲ってしまいそうになったが、父母を思って洋服を着替え、キッチンに入って行った。


 ミモザは竜道の真意がわからないまま、竜道の電話を待ち続けたが、その日はかかって来なかった。次の日も、次の日もかかって来なかった。ようやく携帯がなり、竜道からの電話だと画面で確認して、ぼたんを押した。


「もしもし」


「あなたは、本間ミモザさんですね。」


 と、竜道の妻の声が聞えてきた。


「・・・・・」


「答えなさい」


「・・・・・」


「答えなければあなたの家に乗り込んでいきますよ。もう一度言います。あなたは本間ミモザですね」


「は・・・」


「あなたはお金を返しなさい。高価な洋服を買わせたでしょう。なんの権利があって竜道に洋服まで買わせたっ! 竜道の払った金は、私の店の売上げですよ。いうなれば私の金です。私が何のためにお前の洋服代まで出さなければならないのですかっ? あんたは竜道がどんな下らない男か知らないでしょう。高校も中退して、職を転々として、漸く不動産屋で落ち着いて、口がうまいから、成績をあげていきだしたところを、私の父が見込んで取り立ててやったのです。父が見つけてやらなければ、安月給で貧乏で、いつまでも職を転々として、落ちぶれていたにちがいない。私はあんなやつ相手にもしてなかったのですよっ! あいつがひざまずいて、結婚してくれと何度も頼んだので、してやったのです。この家から出て行ったらあいつには何もないすってんてんの裸一貫ですぅ!叩いてやりましたよ。掃除機の柄で思いっきり叩いて、出て行けっていってやったが、よう出て行きもしない、私に謝ったのですからね。あ、ん、た、は、そんな最低の男に弄ばれただけですよ。二度と誘惑するな!」


 竜道の妻は激昂して、電話を切ってしまった。ミモザが何か言うひまもなかった。言う暇があってもミモザにはあまりのことで何も言えなかったであろう。竜道が高校を卒業しきれなかったのは、母子家庭で早く働きたかったからだろう。妻のように高校も出てないと竜道をさげすむことが理解できない。竜道がそんなにくだらない人ならば、そんな人と一緒にいる妻も値打ちが下がるのではなかろうか?自分の値打ちが下がるような事を言って・・・。いやいや、妻の愛の表現は、竜道を見下して自分が優位に立っているようにみせながら、その実そういう方法で竜道を愛してる。もっといえば、妻は口とは裏腹に竜道にまいっているのだと直感した。だから嫉妬に狂っている。竜道がそんなにくだらない男なら私に下さいと、つぶやいてみるけれど、竜道が来そうもないことが、妻の言うことからわかってきた。掃除機の柄で激しく何度も叩かれながらも、その家で踏ん張っている竜道の姿と心中を考えると、もう、二人で夫婦になる事は無理だと、思えて来るのだった。


 ミモザは下腹部から力がずるずると抜けていって、空気の抜けたゴム人形のようにぺちゃんこになって、崩れ落ちそうになった。辛うじてベッドの枠につかまり、ベッドに入り頭から蒲団をかぶって泣いた。


 しばらくすると、ドアをノックする音が聞こえた。


「ミモザ、お茶が入ったから、来ない?」


 と、母が誘っていた。


「すぐ行きます」


 泣き顔は化粧で誤魔化して出て行った。母は紅茶とパイを用意して待っていた。


「ミモザ、さっき河村さんから電話があって、勲さんに会うのはいつがいいか、聞いてきたのだけど・・・いつがいい?」


 ミモザは溜息をもらして、


「五月の連休明けまで待ってもらえないかしら。すこし心を落ち着けてからにしたいの」


「そう頼んでみます。でも、ミモザ、どうしてお寺を出たの? 勲さんも優しい方だし、お姑さんもそんなに無茶苦茶いう人ではないと思うのだけれど・・・」


 ミモザは言いよどみながら、


「こんなことを言い訳にして良いかどうか・・・。私、寂しかったんだわ・・・。お母さんにも言えなかったけど、勲さんとは、もうずっと交渉が絶えて、今から思えば尼さんと同じような暮らしだったんだわ・・・。お寺の事や家族の家事を毎日きちんとこなすのが、少しずつむなしくなってきていたの」


「交渉がないって、いつごろから?」


「もう五年くらい」


「五年間、一度もないの?」


「ええ」


「全然?何も?」


「ええ、全然」


 ミモザは寂しそうに視線を落とした。


「まだ四十にもならないうちからそれじゃあ、無理だわねえ。女盛りだのに・・・。勲さんも五十過ぎで駄目だってことはないでしょうに・・・。外に好きな女がいるのじゃないの?」


「そんな気配は全くないから・・・。わけが分からないの・・・」


「ミモザが家とはかけ離れた家柄のところに嫁ぐのに目がくらんで、年の差を考えなかったこの私が悪い事をしたんだわ。私が昔風で、女の子は虫のつかないうちにお嫁に行って、一人の人に愛されるのが一番幸せだって信じていたのもいけなかった。ミモザの友達で、結婚前にあれこれと男の人と付き合って、くっついたり別れたりしていたひとが、今、聞くところによると、みんな幸せな結婚生活をしているというじゃない。堅く堅くミモザを育てたのが、返ってわざわいしたんだわ。若すぎた。結婚させるにはまだ若すぎたんだわ」


「幼かったけれど、勲さんに導かれて幸せになりたいと努力したわ。でも、知らず知らずのうちに、だんだんと溝が大きくなって、気がついたら、竜道さんに・・・」


「竜道さんて、その人の名?」


 ええ、と、かすかに頷いた。


「その竜道さんていう人も、奥さんが大変なひとで、わざとに写経をしている日に来て、わめきちらしていったそうだよ。檀家の堅い奥さん方の前で、恥をかいた勲さんが、早々に離婚を決めたのも、しかたのないことだと、河村さんがこの間言いました」


「勿論、私ももう決心しているから、勲さんの言う通りにするわ。連休明けまで待てないって言えば、連休前でも・・・。河村さんにはかってみてね」


「そんなことは簡単だけれど、ミモザ、竜道さんてかたは、あきらめねばなりませんよ」


「わかっています」


 そう言ってミモザは突然母の前で涙を流した。


 母はじっとミモザを見守っていた。


 諦めるとかなんとかじゃなく、向こうの方で、振り向いてくれないのだから、否でも応でも、別れなければならないんだと思うと、涙が次から次へと出て来るのだった。母は真相を知らずただ呆然とミモザを見守るだけだった。

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