第7話

ベンツは快適に走り続けた。


 明石海峡大橋を渡り始めたのは、夕方だった。大きく真っ赤な太陽が水平線に沈んでいくところだった。海面は夕陽で染められ、海上に巾の広い朱色の帯のような道が遠く遠く続いていた。


「落日がこんなに綺麗だとは、今まで知らなかったわ」


「橋はあっというまに通ってしまうから、しっかり見ておいてよ」


 と、竜道は言った。


「いい思い出になるわ」


 ミモザは首を廻して、眺めを惜しむようにいつまでも朱い海を見ていた。


 橋はすぐ終り、竜道はサービスエリア『淡路』に車を止めた。


「ここからは、今通って来た橋がまるごと見えて、絶景なんだ。ほら、こっちへ来てごらん」


 竜道は手を引いて、建物を通り抜けて海の側にミモザを導いた。


 橋は夕凪のもやのなかに、優しくて繊細な勇姿を見せていた。鏡のように静かで霞んだ海に、小さな漁船がぽつりぽつりと浮んでいた。穏やかに暮れて行く春の海。その海の向こう、そう遠くない所に、捨ててきた陽一がいる。新学年が始まろうとするこのとき、陽一はどうしているのか。跡取り息子として一目置くように姑が育てたせいで、わが息子でありながらも、息子に馴れ馴れしくせず、息子を立てるようにしてきたせいで、常の親子のようにあらいざらいぶちまけて話し合ったりはしなかった。気分に任せて、息子を抱きしめてやるという事も、少なかったかもしれないけれど、息子を愛していた。陽一にも母の愛は通じているはずだ。陽一は今私の不在をどのように耐えているか。今はもう大きすぎて抱きしめる事はできないが、顔を見て心から謝りたいと思う。


 いつの間にか吹き始めた浜風に顔を晒し、物思いに沈んでいるミモザに、両手に缶ジュースを持った竜道が近づいてきて、


「空色の洋服に包まれて、風に吹かれて立っているミモザの姿は、風の精そのものに見える。今まさに空高く舞い上がって行こうとしている風の精のようなミモザ。ミモザ、行かないでほしい。ミモザの心は、どこにいるの?」


「私の心はあなたの上にいるのよ。あなたは海のように大きくて、はかり知れない生き物だわ」


「ミモザはただの可愛い生き物」


 ミモザは媚びを含んだ目で竜道を見上げ、缶ジュースを受け取りながら、この旅で竜道が何回自分を可愛いと言ってくれたかを、数えていた。肉体的にも、精神的にも数え切れないくらい愛されたことが、女の勲章であるとミモザは思い、充たされて竜道に摺り寄って行った。


 山中を切り開かれた高速道路の、徐々に暮れて行く山の景色を眺めながら、助手席に坐って、竜道の運転に身をまかせているミモザは幸せ一杯だった。


「ホテルに着いたら、先に食事だなあ。もうちょっと早かったら橋の上から鳴門の渦が見えたんだけど、暗くなってきたな。食事、温泉、そして寝るという順序でいこう」


「今日は後楽園からずっと運転しているから、疲れているでしょう。二人でビールで乾杯して、労をねぎらわないとね」


「いや、そんなに疲れていないよ。所々で休憩したからね」


「今夜泊まるホテル、あなた行ったことあるの?」


「うん、ある。リゾートホテルだから、二人だけでしっぽりと隠れ家を楽しむという風ではなかったけれど、部屋に入れば二人きりだからね」


「隠れ家的でなかったって、言ったけど、前も隠れ家として行ったのね」


「いやいや、違う。従業員を連れて慰安だよ。ほら着いた」


「えっ、どこ」


「もう少し」


「意外と遠くなかったわね」


 ミモザは竜道の話術にのせられて、追求することを忘れてしまっていた。車がホテルに着くと、竜道に頼り切って竜道の背後について、部屋に入った。


「ほら、窓から海がみえるだろ。漁火が綺麗だ。来てごらん」


 ミモザは、急いで窓辺に寄った。真っ黒な海に、点々と輝く漁火、ミモザは幻想的な絵を見ているように、うっとりとなった。


「ミモザ、こんなきれいな夜の海を見ると、我慢できない」


 竜道はミモザにキスし抱いたままベッドに連れて行こうとする。


「駄目だわ。さっき、お食事が一番っておっしゃったでしょう。早く行かないと、閉まってしまうわ」


 ミモザは竜道の腕からすり抜け、素早く化粧室に入り、髪を整え紅を引き、着衣の乱れを直して、竜道をうながした。


「しょうのないミモザだ」


「だって、予約の時間にいかないと、レストランの人に悪くない?」


「そんなことに気を使わなくても、こっちがお客なんだから、堂々としていればいいのだよ」


「なんか気を使ってしまうのよね。タクシーに乗ってもこっちの方が運転手さんのご機嫌取っていたりするもの。ましてや、ホテルなんかではビクビクしてしまうわ」


「全然気を使うことないよ。ミモザは世間知らずなんだなあ」


「だって、はたちで結婚してしまったから、娘時代は遊ぶ暇もなかったし、婚家では姑も夫も旅行嫌いだもの」


「仕方ないなあ。今はミモザのいうことをきいて、行くよ。でも、その分後がこわいよ」


「ふふふ」


 ミモザは笑いかけて、竜道の背中を押して外に出た。


 朝晩ホテルの食事を六日も続けて、飽きそうなものなのに、ミモザは飽きなかった。竜道と向かい合ってお食事をすることが嬉しくて仕方がない。竜道と満足した後ならば、喜びの余韻が食事の間中続いているし、今日のような場合は、後への期待が食卓に美しい花を添えるのだ。ビールを注ぎ、他愛のないおしゃべりを楽しみ、ゆっくり食事を進めているその間にも、ミモザの体は竜道を受け入れる準備をしている。ミモザは自分では気がつかずに竜道に媚びを売り、知らず知らず竜道の気を引くようにしなだれかかっている。


 今日もそうしたのだろうか、竜道はスープをスプーンですくいながら、


「可愛いミモザ、食事の後は、露天風呂に入ろうね」


 と語りかけてくる。


「海が見えて本当に気持いいよ」


「竜道さんと一緒?」


「それは駄目だよ。できるものならそうしたいけど」


「そうよね」


 時間をかけてフランス料理のコースを食べ終わったあと、


「いましばらくおあずけだね」


 と言って、竜道は露天風呂にミモザを案内した。


「さっ、ここでお別れ。ゆっくりしておいで。さきにあがったら待っててやるからね」


 竜道とミモザは男湯と女湯に別れた。

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