かなざくらの古屋敷

中岡いち

プロローグ (修正版)

 夕暮れの始まり。

 微かに空の色が沈み始め、夜の訪れを告げる時間。

 そんな時間が、私は一日の中で一番好きだった。

 細かな砂じゃりの道。

 まあ、車二台ですれ違えなくもないような幅。

 道端の雑草の不規則な広がり方が、不思議と嫌いではない。

 排水路の鉄の網にも砂が被り、決して常に誰かが管理しているような所でもない。

 もっともスカートやヒールを滅多に履くことのない私にはあまり関係ないが。

 昼間でも人通りなどほとんどない山沿いの集落だ。集落とは言っても転々と建物がある程度。

 小さな街灯がそんな集落の道路を照らしているが、そんな淡い照明など必要ないくらいに、今夜は月明かりの主張が激しい。

 まだ空は水色とオレンジ色が混ざり合う頃。それなのにすでに月明かりの存在を感じる。

 いつも無駄に大きな屋根の家の前を通るが、その家に暮らす人の顔を見たことはない。小さな窓から灯りが漏れていた。もちろん誰かは暮らしているのだろう。しかしあまり興味はない。

 各家と家には結構な距離がある。短くても歩いて五分。隣の家の騒音には縁のない人たちが暮らしているエリア。街中の住宅地とは違う。何せこうして家の敷地から外に出ている私ですら人に会うことがない。三日に一度はこうして散歩していても、だ。

 大きな屋根の家の向かいには、道路を挟んでなぜか孤立したような大きな木。飾り付けをすればクリスマスツリーにちょうど良さげな木だといつも思っていた。

 別に急ぐ必要もない、いつもの夕暮れ。

 この近辺を毎日のように散歩しているが、思えばアスファルトに舗装された道路をしばらく歩いていない。

 砂利、土、草の上。

 歩きやすくはないはずなのに、なぜか足に優しく感じるのはなぜだろう。

 不思議と歩いていて楽だ。

 以前暮らしていた所では、運動不足のせいか、少し歩いただけですぐに息を切らした。

 しばらく歩き、周りに建物が無くなった頃に現れる私の家は、残念なくらいに古い。

 しかし私にとっては新しい我が家だ。

 裏の竹林も含め、土地自体は広いようだけど、明確な範囲は私自身把握してはいない。

 買ったのは春。

 いい季節だった。

 土地と建物込みで四五万円。諸々諸経費も入れても八〇万くらいだったけど。

 安いのも当然の古さ。しかもしばらく放置されていたんだろうと思う。全てに於いて荒れ放題という言葉がしっくりきた。正直、掃除が大変だった。初日は寝る場所を確保するのがやっと。しかも寝袋だった。

 それでもワクワクしたのを覚えてる。

 台風でも来たら簡単に飛ばされてしまいそうな屋根と壁。いや、ただの強風でも危うい。壁の板に雨が染み込んだらどうなるのか。脆くなるのか、もしくは重くなるのか。古い一軒家に暮らすようになって、まさかそんなことを考えるようになるとは想像もしなかった。

 断熱材入りの壁などであるはずがない。ただの板だ。大黒柱など、どれのことなのかも分からない。雨の降る日は、雨音よりも雨樋が揺れる音の方がうるさい。その内に外れてしまわないか心配だ。

 唯一立派と思えるのは屋根の瓦だろうか。安っぽいトタン屋根ではない。そこだけはしっかりとしているようだ。もっとも瓦に詳しいわけではないし、何より屋根に登ってじっくりと眺めてみたわけではないが。見たところで分かるわけでもないので、なんとなく放っておいているのが実情だった。

 雨漏りがない限りは居住スペースの整備が優先だ。

 平家とは言っても一人で暮らすにはかなり広い。もちろん古い日本家屋だけあって、襖で仕切ることも出来ながら大部屋にすることも出来た。ユーラシア文化とは対局を成す文化の一部。

 リビングと言える広い部屋から庭へと続く縁側は自慢の場所だ。

 とりあえず防腐剤なるものを塗ってから塗装。楽しかったが、自分で手をかけたリフォームと言える部分はまだそこだけ。

 春に決して小さくはない庭の雑草整備から始め、夏には様々な花を咲かせてくれた。一応敷地の前にある道路との境に竹で組まれた柵があったのでそのまま流用したが、あまり目隠しにはなっていない。それでもここに来るのは宅配便の中型トラックくらいなものだ。例え夜でも不便に感じたことはない。

 三二才のうら若き乙女が言うのだから嘘ではない。

 庭に隣接する門替わりの二本の木はそのままだ。木の種類も分からずにそのままにしていたが、枝幅も狭く、この季節でもそれほど葉の数を変えない。常緑樹というものなのだろうか。

 庭には虫除けにミントでも植えてみようかと考えたが、繁殖力が高そうなのでやめた。今は庭に薄めた木酢液を撒くことで凌いでいる。まだ効果の程はよく分からないが、どうやら殺虫剤のように即効性のある物でもないらしい。おかげで今年の夏は蚊取り線香の香りが妙に気持ちを落ち着けた。夜に明々と電気を点けるのが苦手なのでそれほど困らないが、古い日本家屋に網戸と蚊取り線香はワンセットであることを学んだ。他にも色々と虫除け対策はしてみたが、風通しのいい我が家でどれだけ効果があるのか微妙なまま、今年だけで消え去りそうなものがほとんどだ。とりあえず木酢液だけは大量に買い込んだ。

 そして今は秋。

 しだいに気温が下がりつつあるところに、一末の不安を覚える。

 いや、一末どころではない。夏にエアコンの必要性を感じないほどに風通しを考えて作られた建物。メリットは床下を含めて湿度が籠らないこと。これは重要なことだ。それがこの家を何十年も家として存続させてきた理由なのはよく分かる。

 しかし同時に、冬の寒さに対してはどうなのか。豪雪地帯というわけではないが、ここにもそれなりに雪は降る。さらにそれなりに積もるらしい。気温も朝晩は氷点下。

 二一世紀になって三二才が凍死の心配をするとは、国会で居眠りをするだけの政治家には想像も出来ないことだろう。そんなわけで、最近はアウトドア用品の冬キャンプ特集をネット通販で眺めるのが楽しい。

 大きな仕事でも舞い込めばリフォームでもするのだが…………せめて憧れの薪ストーブを設置するくらいでいいから稼ぎたいものだ。残念ながら安くはないようだが。家の裏の林にはいくらでも枯れ枝が転がっているので、薪ストーブの火に困ることはないだろう。しかし肝心の薪ストーブは無い。

 そろそろ仕事が来ないだろうか…………この山の中に引っ越してから半年近く。未だ相棒は仕事を持ってきてくれない…………自分で探せる仕事なら良かったのだが…………。





「ここはやはり真剣に聞いてもらう必要があると思う」

 萌江もえはそう言って小さなテーブルに身を乗り出した。

 テーブルを挟んでいるとは言っても、反射的に体を仰け反らした咲恵さきえが言葉を絞り出す。

「……大体想像出来るけど…………何をよ」

「最近は月に一回くらいでしょ? 私はもう少し咲恵さきえと夜を過ごしたいの」

 身を乗り出したままの萌江もえの両手が、僅かにテーブルを押す。しかし畳がそれを押さえていた。

 咲恵さきえにも萌江もえが言わんとしていることは分かっていた。萌江もえは感情に裏表が無い。少なくとも咲恵さきえに対してはそうだった。嘘をついても見抜かれてしまうことが分かっているからかもしれないが、だからこそ萌江もえ咲恵さきえにストレートに感情をぶつけてきた。

 自分にもその気持ちが無いわけではない。こんな遠くの山の中の一軒家まで来る自分に、全く下心が無いと言い切れないことも自分で分かっている。だからこそ月に一度程度は押しに負けて体を許してしまってしまっていたのは事実。毎回後悔と安堵が繰り返す。

 咲恵さきえは視線を落として返した。

「…………あなたが……自分でこんな山の中に逃げたんでしょ…………」

「でも咲恵さきえは来てくれるじゃん」

「……そうだけど…………」

 堂々巡りな会話であることはお互いに分かっていた。

 未だに公私共にパートナーであることは事実だ。

 恵元萌江えもともえ────三二才。

 両親共、幼い頃に亡くしていた。子供の頃から強い霊感体質だった萌江もえは、自分を養子に迎え入れてくれた育ての親の人生をも翻弄した過去がある。アルバイトを転々とした先で自分がレズビアンであることには気付いたが、それを隠して男性と結婚。子供を作ることのないまま離婚。やがて黒井咲恵くろいさきえに出会ったのは二年前。

 二才年上の咲恵さきえとすぐに体の関係になったが、咲恵さきえもまた霊感体質だった。咲恵さきえは相手の感情や過去を読み取ることが出来た。体を重ねてしまえば尚更だ。咲恵さきえの意思とは関係なく萌江もえの過去や感情が咲恵さきえの中に入り込んでくる。萌江もえもそれを怖がったが、咲恵さきえ自身もそんな体質を嫌悪した。

 それでもお互いの気持ちだけは離れることが出来ないまま、萌江もえが人里離れた一軒家に逃げてからも関係は続いていた。

「今日はさ」

 そう声を張り上げて話題を強引に切り替えたのはもちろん咲恵さきえ

「仕事持ってきた。久しぶりに」

「へー、やったじゃん」

 そう言って体を戻す萌江もえの髪が揺れた。肩までの黒いストレート。その髪が揺れる度に、咲恵さきえの気持ちも揺らぐ。

 だからこそ咲恵さきえはホッとしながらもどこか寂しい。

 萌江もえが続けた。

「久しぶりに稼ぎたいねえ。この家もリフォームしたいしさ。もうすぐ冬だし」

 萌江もえはそう言うと、部屋の中に視線を回した。

 すると咲恵さきえの顔が濁る。視線を落としながら出てくる声は先程より小さい。

「店の若い子なんだけどさ…………結構最近困ってるみたいでさ…………あんまり寝てないって言うしさ」

「つまり、安い仕事だけどなんとか受けて欲しいと?」

「まあ…………そんなとこかな」

 すると、萌江もえは再びテーブルの上に身を乗り出して応えた。

「今夜泊まってく?」

「だめ」

 しかしその言葉が本心でないことを萌江もえは見透かしていた。

「分かりやすい嘘つかないで」

「明日も仕事だし」

「夕方からでしょ?」

「…………ズルいよ」

 咲恵さきえはバーを経営していた。カウンターには椅子が五つ。四人掛けのテーブルが二つあるだけの小さな店だったが、LGBT専用のバーでもあった。冷やかしを避けるための会員制。しかし会員の紹介であればLGBTでなくても入店することが出来た。会員制と言っても決して金額設定は高くない。

「あれ?」

 突然そう切り返した萌江もえが続ける。

咲恵さきえの店の子ってことは…………かわいいの?」

「ちょっと────」

 声のトーンを上げた咲恵さきえが続けた。

「店の子に手出さないでよ。ちゃんと相手いる子なんだから」

 店がLGBTの客をターゲットにしているだけあって従業員ももちろん同性愛者。それなりに過去のあるメンツばかりだった。

「だって咲恵さきえが相手してくれないんだもん」

 そう言いながら、萌江もえはさりげなく咲恵さきえの隣に移動していく。

 そしてその言葉が続いていく。

「……私の総てを見たのはあなただけ…………」

 咲恵さきえの僅かにカールのかかった明るく長い髪。

 萌江もえがその髪を掻き分けるようにして首筋に顔を埋めると、咲恵さきえは体の力が抜ける自分を感じた。その耳元にかかる萌江もえの声が全身に絡み付いていく。

「…………見せられるのは…………咲恵さきえだけだよ…………」

 咲恵さきえは抵抗の出来ない自分を、萌江もえに預けるしかなかった。





   水の中。

   ぬるま湯と言ったほうが正しいかもしれない。

   決して暖かくはなかった。

   全身にまとわりつくような、そのぬるま湯。

   視界は歪んだまま、透明のぬるま湯が絶えずうごめいていた。

   首には絶えず圧迫感。

   しかし苦しさは無い。

   意識も無い。





 二人が目を覚ました時、すでに時間は一一時を回っていた。

「いつもより早起き?」

 ベッドの上で上半身を起こした萌江もえの声は優しい。

 その声にいつも勝てないと思いながらも、咲恵さきえはその背中に愛おしさを感じずにはいられなかった。目の前のその背中に顔を押し付けながら、咲恵さきえが声を漏らす。

「……大丈夫…………早い時はいつもこのくらい…………」

「やっぱり……まだ見えるの?」

萌江もえは気にしないで…………」

 そう応えた咲恵さきえには分かっていた。萌江もえは自分で力をコントロールすることが出来る。出来るだけ咲恵さきえの力をシャットアウトしてくれているのを全身で感じた。可能な限り咲恵さきえの負担を減らそうと努力してくれていた。抱かれる度にいつもそれを感じる。だからこそ、咲恵さきえ萌江もえを完全に遠ざけることが出来ないでいた。そしてそれは、萌江もえでなければ出来ない芸当だろう。

 しかし咲恵さきえは、最近萌江もえと体を重ねる度に、気になる光景が頭に浮かんでいた。それはどんなに萌江もえがシャットアウトしていてもすり抜けてくる。

「ご飯は? 昨日のカレーでいい?」

 萌江もえは下着も着けずに長めのTシャツをかぶると、そう言って咲恵さきえに振り返った。顔を近付けて唇が重なると、咲恵さきえの力が抜けたように枕に頭を沈めた。

 唇に萌江もえの余韻を感じながら応える。

萌江もえのあのカレーなら毎日でもいい」

 いつもより甘えた声になっている自分を少し恥ずかしく感じながらも、その言葉は嘘ではない。料理好きの萌江もえが香辛料をってカレー粉を作るところから始める手作りのカレーだった。

「分かった。温めてくるね」

 萌江もえが頭を上げると、首筋に愛用の水晶が光った。チェーンで首に下がったその小さな水晶はアクセサリーのために人工的に放射線を当てて加工されたものではない。日本の地で何万年もかけて自然の放射線にさらされて生まれた天然の水晶。

 それは〝火の玉〟と呼ばれ、対になる〝水の玉〟と共に、とある神社では御神体としてまつられていた。そんな火の玉と萌江もえが出会ったのは二〇才の時。大学を中退した直後だ。それ以来、紆余曲折を経ながら、萌江もえはその水晶と生きてきた。

 萌江もえはその水晶を揺らしながらベッドを降り、寝室を出た。寝室と言ってもリビングと襖一枚で隔たれただけの和室。萌江もえが持ち込んだ数少ない家具でもあるベッドは、確かにこの部屋には不釣り合いだ。


 ──……リフォームかあ…………そうだよねえ…………

 ──……久しぶりに大きな仕事欲しいな…………


「ねえ」

 リビングの隣の台所から、カレーの香りと共に萌江もえの声が続いた。

「今日、店に行く前に会う?」

 それを聞いた咲恵さきえはベッド脇に下げてあった昨夜使ったバスタオルを体に巻いただけで寝室から出ていた。まだ完全に乾いていないバスタオルが夜の余韻を引きずる。

「そうだね……大丈夫?」

 言いながら咲恵さきえは長い髪を後ろで束ねる。

「困ってるなら早いほうがいいんじゃない? 私もたまにお買い物したいし」

 鍋をかき混ぜながら萌江もえが続ける。

「一緒に行けば今夜は咲恵さきえの所に一泊だし…………久しぶりに二晩続けて…………」

「どうせ店で酔い潰れて終わりでしょ? お金なんか取らないからたまには呑んでってよ」

 畳の上のクッションに腰を降ろした咲恵さきえの視線の先には大き目のプランター。そこには水菜が大きく育っていた。その横のプランターにはプチトマト。いずれも萌江もえが育てたものだ。


 ──……何かしてないと……寂しいよね…………


「レタスとかも育てたいね。キュウリとか」

 そう言いながら、萌江もえはテーブルにカレーとサラダの皿を並べていく。サラダの水菜とトマトはもちろん部屋の隅で育てた物だ。

 オリジナルのドレッシングをサラダにかけながら萌江もえが続ける。

「庭も広いし、来年は畑を耕してみようかな、なんて思ってるんだけど」

「分かった。仕事見つけてくるよ。お姉さんに任せなさい」

「頼りになるねえ。ベッドの上では子猫みたいなのに」

「猫、好きでしょ」

「うん……大好き」

 そう言って萌江もえは満面の笑みを浮かべた。

 咲恵さきえの仕事は、表向きはバーの経営のみ。もちろん正式に営業許可をもらったものだ。

 しかし、裏の仕事がある。

 それは〝心霊相談〟を受けること。

 もちろん事業として正式に登記されたものではない。

 二年前、萌江もえがアルバイトをしていたバーで二人は出会った。その数年前に風俗業から足を洗った咲恵さきえが、働いていたスナックのママと店に立ち寄ったのが始まりだった。

 少し会話をしただけで、すぐに咲恵さきえ萌江もえが普通の人ではないと気が付いた。そしてそう見られることを嫌っていることも感じた。

 一人で通うようになって、少しずつ咲恵さきえ萌江もえに近付いていく。何を求めていたのか。その時の咲恵さきえは、自分以上の力を持った人と気持ちを共有したかっただけだったのかもしれない。

 やがて二人で会うようになり、お互いのことを話すようになると、咲恵さきえの中の考え方が大きく変化した。今まで、そんな考えを持った能力者に会ったことがなかった。

 それ以来、咲恵さきえ萌江もえに傾倒するようになる。

 そして自分の能力を恨んだ。

 離れたくないのに、常に一緒にいることが出来ない。それでも咲恵さきえ萌江もえを繋ぎ止めておきたかったのだろう。

 最初にスナックの常連客から相談を持ちかけられたのが最初だった。もちろん店では霊感体質であることは秘密。店のママですら知らない。怖がられることを知っていたからだ。

 誰か相談出来る人を知っていたら教えて欲しいとの常連客の話に、咲恵さきえはこっそりと萌江もえを紹介する。

 そして、萌江もえは見事に解決に導いた。

 しかも萌江もえならではの方法で。

 除霊などという安っぽい形ではない。

 それは萌江もえにしか出来ないことでもあった。

 感動した常連客の話に乗る形で、咲恵さきえ萌江もえ斡旋あっせんを依頼した。報酬は〝気持ち〟だけ。事の大きさではなく、払える分だけ。それでも興奮気味に大きな金額を差し出す客もいる。

 裏の仕事ではあったが、それはしだいに二人の懐を暖めていった。

 とは言っても頻繁にある仕事でもない。しばらく依頼は途絶えたまま。

 咲恵さきえから直接とはいえ、今回は一年振りの仕事だった。

 まだ貯蓄はあったが、萌江もえ咲恵さきえからの依頼を断ったことはない。しかも咲恵さきえの店の従業員とあっては、咲恵さきえを助ける意味でも萌江もえに断る理由は見当たらない。

 まだ明るい内に買い物と言っても、買い物のほとんどをネット通販で済ませる萌江もえにとっては買う物などそれほどあるわけでもない。咲恵さきえとドライブデートがしたかっただけ。萌江もえは車に詳しいにも関わらず車を持っていなかった。こだわりが強すぎてお金が掛かるから、というのが理由。咲恵さきえが家まで迎えに来てくれなければ街中に行く手段も無い。咲恵さきえと街中に行くということは咲恵さきえが一泊した次の日に送ってもらうしかなかった。

 咲恵さきえの店の入っているテナントビルの一階。ビル自体も古いが、その喫茶店も古い。昼に営業しているような店ではなかった。開店時間は一五時。閉店時間は深夜三時。夜の世界で働いている人たちのためのような店だった。

 現在の時間は一六時。咲恵さきえの店の女の子との約束の時間。

 咲恵さきえ萌江もえの二人が少し遅れて到着した時には、すでにその女の子は到着してだいぶ時間を潰したあとだったらしい。すでに紅茶のカップはほとんど空。

「ごめんね由紀ゆきちゃん。萌江もえがどうしてもクレープ食べたいってうるさくて」

 そう言いながら由紀ゆきの向かいに座る咲恵さきえに続いて、萌江もえもすぐに座りながら口を開いていた。

「だって前からあの店のクレープ食べてみたくてさ。ネット通販じゃ買えないからねえ」

 そこに店のマスターが近付いてくる。白髪の初老の男性だ。新人でもない限り、この街で夜に働いている人間なら知らない者はいないだろう。時としてご意見番のような立場にもなる重鎮だった。

「久しぶりだね萌江もえちゃん」

 いつもの気さくなマスターの声に萌江もえも少し落ち着く。

「元気そうだねマスター……また白髪増えたんじゃない?」

「何年も前から真っ白だよ。二人ともコーヒーかい?」

 それに咲恵さきえが応える。

「うん……いつものお願い」

「はいよ。毎度」

 マスターがカウンターに戻ると、再び咲恵さきえが口を開いた。

「で…………こっちが恵元萌江えもともえさん…………この間話した人ね。私のこともこの間話した通りだけど、私が唯一信頼できる能力者であることは間違いないよ」

「…………はい……よろしくお願いします」

 由紀ゆきが節目がちに萌江もえを見ると、すでに萌江もえはテーブルに両肘をついて由紀ゆきを見つめる。

 少し驚いた由紀ゆきの目には明らかに疲れが見えた。僅かにクマも見えるところから、寝不足であることが事実なのは萌江もえにもすぐに分かった。

 そのせいもあるのか、若くは見えるが由紀ゆきは決して派手な印象ではない。落ち着いているというより、どことなく怯えた印象だった。

 そして萌江もえが柔らかく口を開く。

「よろしく由紀ゆきちゃん……上から読んでも下から読んでも〝えもともえ〟。覚えやすいでしょ…………じゃ、早速だけど聞かせて」

 そして、由紀ゆきが話し始めた。

「あの…………もう一ヶ月くらいになるんですけど、毎日……金縛りに会うんです…………」

「ああ……金縛りかあ……」

「金縛りが心霊現象じゃないって話は知ってます。でも…………必ず前の彼女が出てくるんです…………いつもベッドの横で私を見下ろして…………」

「で、気が付いたら朝なんでしょ?」

「…………はい」

 萌江もえは大きく溜息を吐きながら椅子の背もたれに背中を押しつける。

 その横顔を咲恵さきえの目が追った。


 ──……この感覚、久しぶりだな…………


 萌江もえの横でそんなことを思いながら、咲恵さきえは軽く顔を萌江もえに向けていた。そして萌江もえの微かな微笑みにホッとする。

 マスターがその目の前にコーヒーカップを置くと、途端に三人の間にコーヒーの香りが広がっていく。まるで湯気までも香りを伴っているかのよう。

「相変わらずいい香りだねえ」

 その萌江もえの言葉に、マスターは素っ気なく返した。

「俺は飽きたよ」

 そしてマスターは由紀ゆきの目の前に新しい紅茶のカップを置くと、空いたカップを下げる。

「あ……すいません」

 咄嗟の由紀ゆきの言葉に、相変わらずマスターの返答は素っ気ない。

「いいよ。これはサービス」

 マスターがカウンターに戻ったのを確認したかのように、萌江もえが口を開く。

「少し考えて欲しいんだけど、今、由紀ゆきちゃんがここで金縛りになったら…………どう思う? しかもたった一人で…………動くのは目だけ…………」

 少し困惑したような目で、由紀ゆきはゆっくりと返した。

「…………そうですね……やっぱり怖いと思います」

「それだよ」

 萌江もえは、香りを確かめるようにコーヒーを一口含むと、その温もりを吐き出しながら続けた。

「人間の想像力を侮っちゃダメだよ…………怖いから……そう思った時に怖いものを想像しちゃうの……由紀ゆきちゃんが想像してるだけ」

 それに由紀ゆきは僅かに身を乗り出すように返す。

「じゃあ、何回かに一回…………幽体離脱っていうんですか? 上から自分を見下ろしてて…………」

「これ」

 萌江もえは自分の耳を指差して続けた。

「耳から入ってくる音の情報って凄いよ。視覚が遮られると特にね。頭の中で映像を作り出せるくらい……臨死体験したっていう人に多いみたいだけど、必ず俯瞰ふかんなのはどうしてだろう。全体を音で把握してるから、全体を見渡せる俯瞰ふかんの映像を見たつもりになるんじゃないのかな…………俯瞰ふかんである必要はないのにね」

「でも…………浮遊感っていうか…………浮いた感じがあって────」

「空中で体が浮いた経験ある? 宇宙飛行士でもない限り経験はないよね。水に浮くのは水の抵抗を感じるだろうし…………それにどうしてみんな〝気が付いたら朝〟なんだろう。怖い経験をしたから気を失うって言うなら、金縛り以外でも怖い経験をしたら必ず気を失うことになる。でもなぜかそうはならない。絶対って言えるものではないけどさ」

 由紀ゆきは何も返せなくなっていた。

 萌江もえが続ける。

「以前に私が経験した金縛りで変わったのがあってね…………一〇才くらいの女の子が出てくるんだけど…………その子、この世には存在しない子なの」

 横の咲恵さきえが目だけを萌江もえに向けた。

 それに気付かずに萌江もえは続ける。

「100%私が想像した女の子。大体の人はすぐに水子じゃないかって言うんだけど、残念ながら私…………子供作れない体なんだよね…………しかもあの子は私の想像の中だけの子…………前から知ってた…………でも金縛りの最中に現れた…………私の体に抱きついて…………お腹に乗った頭も触った…………嬉しかったよ…………今でも髪の毛の感触を思い出せる…………」

 そう言って萌江もえは自分のてのひらを見つめながら、言葉を繋いでいく。

「幽霊が現れるなら想像も出来るけど…………あの子は私の想像上の人物…………それが実体化した…………頭だけが覚醒した状態で、恐怖を感じたまま、現実の光景と夢がオーバーラップしたのが金縛り…………だからいつの間にか眠りに落ちて、気が付いたら朝…………それが答え」

 萌江もえは首の後ろに両手を回し、ネックレスを外した。ネックレスに下がっているのは小さな水晶────〝火の玉〟。ネックレスのチェーンを左の中指に絡めて水晶をてのひらに乗せると、由紀ゆきの目を見て口を開く。

てのひら出して。どっちでもいいよ」

 戸惑いながらも、由紀ゆきは右のてのひらを差し出す。

 萌江もえ由紀ゆきてのひらに水晶を載せるようにして自分の手を重ねた。

「…………そっか……隣の県から来たんだね」

 由紀ゆきが驚いた表情になった直後、咲恵さきえも驚いた声を上げる。

「え⁉︎ だって由紀ゆきちゃんって地元って…………」

 それに応えたのは萌江もえだった。

「みんな、触れられたくない過去ってあるんじゃない? 年齢は関係ないよ。私たちも一緒」

 そして由紀ゆきに笑顔を向けて続ける。

「大丈夫だよ…………そんなことで咲恵さきえのあなたへの信頼は揺るがない。咲恵さきえも色々あるしね」

「それは、まあね…………」

 視線を上に向けてのその咲恵さきえの声を無視するかのように萌江もえが繋いでいく。

「……分かった…………怖かったんだね…………それで前の彼女から逃げてきたのか…………そんなに暴力振われちゃ無理もないよ…………」

 由紀ゆきはその萌江もえの言葉に、途端に自分の中に込み上げてくるものを感じた。

 目から溢れる涙を拭おうともしない。

「恋愛対象が異性でも同性でも、自分の感情を暴力でしか表現出来ない人がいるのは同じ…………今の彼女はいい人みたいだね。由紀ゆきちゃんを大事にしてくれてる…………良かった」

 すると、いつの間にか萌江もえの手を握った由紀ゆきが、言葉を詰まらせながらも応えていく。

「……はい…………でも私と違って日中に働いてるから…………時間が合わなくて……日曜日しか会えなくて…………」

「寂しかったんだね…………じゃ、由紀ゆきちゃんは今週はお休みで」

 その萌江もえの言葉に、再び咲恵さきえが声を上げる。

「は⁉︎」

「いいじゃん。今は忙しい時期でもないでしょ。今は由紀ゆきちゃんの休息が大事。由紀ゆきちゃんは今週は彼女の部屋にお泊まりで」

「シフトだってあるし────」

「私が代わりに入ればいいじゃん」

「…………え」

「そんなわけで私も一週間咲恵さきえの部屋にお泊まり〜。バイト代はそれでいいよ」

「……そうきたか」

 由紀ゆき萌江もえの手の中の水晶が暖かくなっているのに気が付いていた。

 そして由紀ゆきは思い出したかのようにハンドバッグに手を入れると、真新しい茶封筒を萌江もえの前に差し出す。

「すいません…………これしかなくて…………」

 萌江もえはネックレスを戻し、その封筒を手に取った。新しい封筒の匂いがする。今日のために用意した物なのがすぐに分かった。中を見ると、そこには千円札が一〇枚。

 萌江もえは一枚だけ取り出すと、残りを封筒ごと由紀ゆきに戻して口を開いた。

「コーヒー代だけもらうよ」

「でも────」

「私は99.9%幽霊を信じていない能力者。しかも今日は大したことなんてしてないし…………マスター! これで足りる?」

 千円札をヒラヒラと振る萌江もえの姿を見ながら、眉間みけんしわを寄せたマスターが応えた。

「ウチのコーヒーはそんなに安くねえよ」

「長い付き合いなのに冷たいねえ」

 萌江もえはそう言いながら由紀ゆきに顔を戻して続ける。

「でもまあ…………不思議なことって確かにあるけどね」

 そう言って萌江もえは笑顔を見せた。





「誰の子なの?」

 妻の紗英さえの低い声に、健二けんじはなかなか口を開くことが出来ないまま、頭の中で言葉を選び続けていた。

「……俺たちには子供がいない…………養子をもらう話は前にもしたと思うけど…………」

「あなたが一人で決めることなの? いきなりそんな赤ちゃん連れてくるなんて…………どうせ誰かにあなたが産ませた子供なんでしょ。ずっと浮気してたくせに…………女に押し付けられたんじゃないの⁉︎」

 玄関で靴を脱ぐことも出来ないまま、両腕でまだ一才の赤ん坊を抱き、浴びせかけられる紗英さえの言葉に、それでも健二けんじは言葉を吐き出していた。

「違うんだ…………事故で死んだんだ」

「だったらどっかの施設にでも入れたらいいじゃない。私たちの子じゃないんだから」

「……この子は俺の子でもある」

「あなたの子でも私の子じゃないのよ!」

 結婚して五年。なかなか子供が出来ないまま、紗英さえが不妊治療に通っていたことはもちろん知っていた。そんな頃から付き合い始めた浮気相手との子が産まれたのはちょうど一年前。

 健二けんじにはどこか優越感があったのかもしれない。


 ──……妻との間に子供が出来ないのは俺のせいじゃない…………

 ──…………悪いのは紗英さえだ………………


 そして自分の遺伝子を受け継いだ子供がいる。

 女は一人で育てると言った。その時、健二けんじは胸を撫で下ろした。妻と離婚することなど出来るはずがない。

 地元の政治家も輩出した財閥の次男。財閥のグループ会社に転がり込み、結婚して家を出ているとは言っても、世間体的に下手なことが出来ない人生でもある。ほんの遊びのつもりの浮気相手を妊娠させてしまったことは健二けんじの失敗だった。何度も堕ろすことを提案したが受け入れられず、そのままその子は産まれた。

 まさかその一年後に女が事故死するとは思っていなかった。

 しかも身寄りのない女だった。

 自殺の可能性もあって警察が動いたが、結果として健二けんじまで辿り着き、その時に本当に身寄りが一人もいない事実を知った。

 女が携帯のメールの中身を第三者でも見られるようにしていたのは、健二けんじへの当て付けだったのだろうか。恨みめいたものだったのかもしれない。中身を見れば、健二けんじが父親であることは誰でも分かる。送ったらすぐに消すように伝えていたが、女は総て残していた。

 警察に詰め寄られるまま、引き取ることを承諾するしかなかった。仮にも自分の子。妻も世間体を考えたら首を縦に振るしかないだろうと甘く考えていたのは事実。

「どこの馬の骨かも分からない女の子供を……私に育てろって言うの? しかも私に隠れて女遊びをしてたあなたの子供なんて…………育てると思う?」

「……お前には……本当にすまないと────」

「私がどんな気持ちで病院に通ってたかなんて考えたこともないんでしょ⁉︎ そうよね。あなたはその間に他の女と裸で抱き合ってたんだから‼︎」

 溢れ出す紗英さえの言葉に、健二けんじは何も返せない。

 それでも離婚の出来ない理由。それは紗英さえにもあった。

 紗英さえの家も地元の財閥の家。恋愛結婚など許されない。健二けんじとの結婚も親同士が決めたもの。

 総ては世間体。

 それだけでその世界は動いていた。

「…………例え育てたとしたら…………あなたは私に弱みを握られるのよ……この先ずっと…………それでもいいのね」

 こんな時に、男が考えるのは〝逃げる〟ことだけ。健二けんじもそれしか考えられなかった。自分に都合のいいことだけを思い浮かべ〝なんとかなる〟と根拠のない理想にしがみつく。

「ああ…………それでもいい…………この家の養子として育ててほしい」

 紗英さえの次の言葉が怖かった。

 健二けんじにとって嫌な間が空く。

「分かった」

 その紗英さえの言葉は、冷たい空気を流した。

 健二けんじの腕に抱かれたままの子供はおとなしいまま。泣き出さないのが不思議なくらいに、その場の空気を感じているかのようだった。

 やがて、紗英さえがゆっくりと口を開く。

「女の子? 名前は?」

「…………萌江もえ……」





      「かなざくらの古屋敷」

      〜 「プロローグ」終 〜


            第一部「妖艶の宴」へつづく

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