遺愛-2

「満……難しい顔をしているな。桜のことか?」


「えっ?」


 思わず明夫さんと目を合わせた。冗談で言ったのかと思ったけど、顔に笑みの明かりはなく、車さんみたいに反応を見て面白がっている様子もない。その表情は至って真剣だ。


「好いた人のことを考えていたんじゃないのか?」


「……明夫さん、車さんみたいなことを言いますね」


 らしくない、と思う。長い付き合いじゃない僕でもわかるほどの異変が、明夫さんの顔にはっきりと表れていた。


 公演終わりの憔悴しきった顔に浮かぶのは、何かしらの強迫観念みたいなものに取り憑かれたような虚ろと視点が定まらない瞳だ。元恋人だという綾香さんが見たら心の中も推測出来るのかもしれないけど、出会って一年くらいの僕には無理だ。


「そうか? いや……車とは違って俺は大真面目さ」


 パトロンとかスポンサーに挨拶があったから綺麗にされた顎を撫で回しつつ、明夫さんは僕が見蕩れていた方向へ顔を向けた。


 そこでは瑠偉さんたちが公演の疲れと達成感を語り合いながら寛いでいる光景が広がっている。


 もちろん桜さんもその中にいて、オペラに近いことをしたからか、いつもより疲れていることが僕にもわかる。舞台から戻ったからまた伏し目になっているんだけど、元々の華奢さにその儚さが合わさる所為か、とにもかくも眩しいほど綺麗に見える。まるで今にも壊れてしまいそうなほど繊細なのに、壊れてしまっては嫌なのに、その所為で綺麗さに磨きがかかるなんて皮肉な感じがする。


「ふふ、お前が桜に見蕩れるのも無理はないな。葛城佳奈……彼女の存在と纏う気配は無条件で男を惹き付ける。蟷螂とか女王蜂といった支配と補食とは違う……幼虫の時に甘い蜜を漂わせて蟻から餌をもらうクロシジミに近いかな」


「クロシジミ?」


「本州と四国と九州に分布しているが、実際の生息場所は局所的でしかない蝶だよ。今じゃ数が少なくて……絶滅危惧種だったかな」


「そのクロシジミ……桜さんに似てますか?」


「似ているさ。桜自身に自覚はないだろうけどね。シジミチョウの仲間は蟻と関係を持つ種類が多いんだ。幼虫の時、おしりから蟻が好む蜜を出し、その蜜をもらう代わりに蟻は外敵からシジミチョウを守るという相利共生関係なんだが……何でもこの関係が共生じゃなくて、蜜に何らかの洗脳成分みたいなものを混じらせて蟻をコントロールしているんじゃないか、なんて面白い話があるらしいんだ。甘い話には罠があり、綺麗な薔薇には棘があるのと一緒さ」


「つまり……桜さんは無自覚に僕らを惑わしていると?」


「その通り。あの様子じゃ自覚はないだろうが、妹の葛城茉奈はそれを自覚していたよ」


 写真を見せてもらったけど、茉奈さんの方は確かに自分の綺麗さを自覚しているような雰囲気があった。隣に写っている桜さんは人と話す時と同じようにカメラを見ていない。逆にそれが茉奈さんよりも綺麗に見えるんだから、どういうことなんだろう。


「俺もその魅力に惹かれた蟻の一人さ」


 明夫さんは笑う。


「満、お前は桜のどこに惹かれたんだ?」


 その口調……何だか恋を初めて知った子供に言っているような感じがして嫌だった。それが思わず視線に出てしまったのか、明夫さんはカラカラと笑った。


「はは、そう睨むなよ。別にお前の気持ちを試そうとか、俺も恋のライバルだ、なんて言うつもりは毛頭ないんだからさ」


「儚さ……ですかね」


「そうか。そうか……儚さに惹かれたか」


 明夫さんは満足そうだ。


 儚さとは言ったけど、実際は一目惚れだ。稽古場で初めて会った時、桜さんは目を合わせてくれなかったけど、僕の心を落とすのに七秒も必要なかった。硝子細工のような美しい顔立ち、華奢で翳りのある仕草が、僕の心をどうしようもなく焦がさせた。


「うん、良い返答だな。総じて人間は命短き存在に心惹かれ、その命が続くことを願う。どうだ? 桜の寿命があと一ヶ月……いや、あと三日だとして、お前はそれを素直に受け入れるか?」


「それは……」


「まず無理だろうな。俺も同じさ。綾香が明日には死んでしまうとなれば、俺は悲観に暮れて……狂うのが目に見えている。だが……人が死ぬのは自然の摂理。それを捩じ曲げようとすれば、何が起きるかはわからない。それでも、綾香と永遠の別れを味わうなら俺は……」


 そこまで言って明夫さんは俯いてしまった。疲労感が溢れている所為か、その俯きが一歩手前な人にように見えて、


「……明夫さん?」


 台詞なんてないのに、思わず呼びかけてしまった。だけど、明夫さんが俯いてしまう気持ちはわかる。誰だって好い人や家族を亡くせば悲しむし、永遠に存在してくれるならと願う人もいるだろう。だけど、それをいくら願っても神様は叶えてくれない。


 明夫さんがそういって悲しみを恐れているのは、公演のテーマとか脚本を見ればわかる。永遠の命とか、離別を回避するとかが多いし、劇団名も死の概念を持たせないような感じだったからだ。


「……お前でなくとも、人は儚い命を精一杯輝かせる存在に惹かれるのさ。お前は桜のような静かな諦念――自らを虚ろにしてしまった姿に心を奪われたんだろう? ずっと子供の頃だが、俺も……綾香と出会った時はそうだった」


 遥か彼方を思い出すかのように、明夫さんは目を細めた。その瞳は今も視点が定まらず、しきりに瞬きを繰り返している。


「本当に……綾香は素敵な女性だよ。隠しているが……あいつは持病持ちだ。そこまで長くは保たないだろう……いずれ失ってしまうんだ。美しさも、存在さえも……」


「持病……長く、ないんですか?」


「ああ。本人も知っているし、受け入れている。どうして……ああも淡々と自分の死を受け入れたんだろう。俺の前でも涙一つ……見せてくれなかった」


「それは……」


 そこまで言って、僕は思わず口を閉じた。今の明夫さんは綾香さんを亡くした時のことを考え過ぎて自暴自棄みたいになっているんじゃないかと思っていた。だけど、悲しみの影に混じって恍惚のような表情が見えたからだ。


「満……お前、家族は?」


「いますけど……祖父が去年亡くなりました」


「悲しかったか?」


「ええ、もちろんです」


 その時は悲しかった。だけど、それをいつまでも悲しんでいるわけにはいかないし、使い古された議論に従うなら、結局、人は死という名の終点に向かって線路を歩いている。いずれは自分も明夫さんも辿り着く場所である以上、強制や奪われることがなければ恐ろしくはない。滅びへの美学とか言えば語弊があるかもしれないが、死があるからこそ命は輝くはずだ。命なが永遠なら誰も大事になんてしないだろう。


 それに、祖父が命の輝きを見せてくれた。祖父は認知症とかそれ以上の酷い病気とかにもならず、早朝、家の敷地内にある稽古場で座ったまま亡くなっていた。その死に顔に後悔も未練の翳りもなく、命を走り切った一人の男が浮かべる堂々とした笑みがそこにはあった。これにはもう悲しさを通り越して、祖父への尊敬を抱いたのをまだおぼえている。


「別れは悲しいよな……誰だって」


「はい。でも、悲しさを通り越した別れもありますよ」


 祖父の堂々とした死に方を明夫さんに告げた。


「そうか。それは……凄いおじいさんだな。死への本能的な恐怖すらも凌駕し、自分の人生を誇って……亡くなったようだな」


「自慢の祖父ですよ。僕が半端な死に方をしたらあっちでドヤされそうです」


 厳しい中に確かに優しさを持っていた。祖母はそんな祖父のことを理解し、口下手をうまくフォローしていた。だから祖父が亡くなった時も祖母は堂々と見送っていた。


「それなら良かったかもしれないが……俺は人を失う悲しさを味わい過ぎた気がするよ……。もちろん、俺よりも遥かに悲しい傷を負った人は数えきれないだろう。お前が逆上せている桜も……俺とは別の悲しみを味わってきたんだろうな……」


 明夫さんは胸ポケットから煙草を取り出し、一本を口にくわえたけど、何故か火を点けない。目をさらに細めて、周囲を見渡すでもなく、ただただ沈黙を続けた。


「満……もし、愛する人と永遠に生きられる場所があったら……求めてはいけないことだろうか」


「はい?」


「もし……それが叶うのなら、俺は――」



 それはいつかの公演終わりのやり取り。あれは――あの願いは本気だったんだろう。桜さんと瑠偉さんに対して、美しい存在は永遠に生きる必要がある、とかを説いている明夫さんの恍惚した声を聞きながら、僕は三八式の装填数を確認する。


「そうだろう? 美しい花が枯れてしまえば溜め息をつく。美しい人形が汚く朽ち果ててしまえば、どうしてそれを黙って見ていたんだろうとなる。昔は綺麗だったのに……なんて冗談じゃない。俺は求めていたんだよ。失うことへの恐怖と衰えぬ美しさを克服するための希望を……」


 明夫さんはそこまで言うと一度ピシャリと口を閉じ、


「そして……見つけたんだ。失う恐怖と離別の悲しみなんて存在しない世界を!!」


 突然、悲観的だった声音が狂喜のような調子に変わった。僕は明夫さんが本当の自暴自棄――壊れてしまったんじゃないかと本気で思った。疑惑が確信になり、僕は三八式を握り締め――。


「満! 隠れていても無駄だ! さっさとそこから出て来い!!」


 銃弾みたいに飛んで来た怒号は、確実に僕のことを捉えていた。この腑分け場と地上を繋ぐもう一つのドアを明夫さんは把握していたようだ。


「今……出ます……!」


 銃弾を撃ち込まれないようにそう叫んでから、僕は静かにドアを銃口で押し開けた。


「よし、いいこだな……三八を捨てろ。お前の大事な桜が傷付くぞ」


 明夫さんは躊躇うことなく、桜さんへ南部式の銃口を向けた。よりにもよって銃口を向ける明夫さんの瞳は落ち着きがなく、瞳孔でも開いているのか狂気的に見える。恐れを寄せ付けない為に憤怒をかき立てる人は多いが、それとは違う気がする。理解し合えないことへの諦念とでもいうんだろうか、怒りよりも悲しみが主張された感じ……。


「わかりました……捨てますよ、ほら」


 今の明夫さんなら撃ちかねないと判断し、下唇を噛みながら三八式をそっと床に置いた。


「聡明な判断だ。こっちに来い!」


 顎で指定されたこっちは、桜さん、瑠偉さん、真耶さんの横だ。並べられて、手は頭の上だ、なんて言われたら完全に戦争だ。


「それで……どうします? 僕たちを撃つんですか?」


「必要ならそうするさ。俺に撃たせるなよ?」


 指示通りに並んだ僕を見届けた明夫さんは、隣で眠る綾香さんの頬を撫でた。


「桜、さっき……三人が殺されて喜ぶのかと訊いたな?」


 桜さんは無言で頷いたんだけど、その動きに違和感があって、僕は彼女のことを見た。いつもだったらほぼ絶対に目を合わせないようにするのに、今の桜さんは明夫さんのことをしっかりと見据えている。


「答えはノーだ。当主様から全てを聞くまでは……な。拓真は……本当に可哀相だが、車も愛里も新しい舞台の幕開けと同時にこの家の住人として現れるからな。今は悲しくはないさ、悲しくは……ないんだ。俺たちもこの屋敷で永遠に暮らすことになるんだから……」


「では……交渉は成立ですね? 京堂さん」


 黙って僕らのやり取りを聞いていた螢さんは、そっと口を開いた。その声は厳格のまま変わらないが、微かに歓喜のような揺らぎがあったことを見逃さなかった。


 いずれ京堂さんも螢さんのように悟る時が来るのだろうか……。


 交渉成立に頷いた京堂さんは、瑠偉さんに銃口を向けた。死を告げる銃口を向けられて怯えないのはヤクザ屋か軍人か相当の場数を踏んだ人ぐらいだ。それに入らない瑠偉さんは怯えるんだけど、京堂さんはそれを意に解さないまま銃口を止めた。


「大丈夫だよ、瑠偉。苦しくはないからな……」


 死への恐怖で怯える瑠偉さんに対し、明夫さんはどこか寂しげな表情を浮かべた。


「苦しくないから……俺も死ぬのは初めてだが、一人なんかじゃないから――」


 ふらふらと向けられた銃口――それが不意に下ろされた光景を見て、僕らはきっと全員が同じ顔をしたに違いない。何故なら、


「明夫……もうやめて」


 棺の中からふらふらと上半身を起こした綾香さんは、明夫さんの腕を掴んで銃口を下げさせた。眠らせてあると言っていたのに、最初から嘘だったんだろうか。


「綾香……」


「明夫……莫迦なことはやめてよ。彼らを殺すなんてこと……」


 そう言われても明夫さんはかぶりをふる。


「違う……殺すわけじゃない。この屋敷で永遠に……」


「ごめんなさい……。あなたがそこまで思い詰めていたなんて……」


 明夫さんを見つめる瞳は光り、綾香さんはそれを拭うことなく身体を起こすと、明夫さんへそっと寄り添った。


「あの時……逃げないで話し合えばよかったね……。桜が言う通り、私はあなたの叶いもしない願いが嫌だった……現実に存在するもの、今を生きる自分たちに価値を見いだして欲しかった……」


「だけど……それはいつか……」


「いつか失ってしまうのはわかる……だけど、だけどね……その悲しさに呑み込まれないほどの幸せを分かち合えばいいの……! 失った悲しみよりも強い思い出……それでも乗り越えられないって言うなら――」


 そう言って綾香さんは銃身を掴むと、その銃口を自分の首を突き付けた。今にも引き金に手を伸ばしかねない勢いに一番驚いたのは明夫さん。首に突き付けられた銃口を必死に逸らそうとしているけど、綾香さんはそれを微動だにさせない。


「私が……私が一緒に死んであげる。だから……桜たちは現世に帰してあげて」


「待って……綾香さん……!」


 一緒に死んであげる。その言葉に桜さんが飛び出しそうになったため、慌ててそれを引き止めた。


「彼らには彼らの人生があるの……あなたが支配していい機巧人形でも操り人形でもない……! みんなのことを本当に愛してるなら……彼らを壊すのはやめて!」


「それは……」


 首に突き付けられた銃口は揺るがない。すると、それを見ていた螢さんがゆっくりと車椅子を動かし、


「京堂さん……決まりですな」


 そう言って京堂さんへ向き直った。


「決まり……というのは?」


「京堂さん、今の私は……綾波さんの言葉に同意です」


「それは……どういうことですか?」


「もちろん、あなたが仰っていることもわかる。誰だって……大切な人を失うことは悲しい。家族、恋人、親友、同志、生徒……ああ、大切な人は増えていくのに、どうしてこの世は失う辛さをなくしてはくれないんだろうか……そう思うのも当然でしょう。ですが、今の私は……綾波さんの仰ったように、その悲しみさえも自らの糧にして生きていくべきだと思えるようになりました」


「…………」


「京堂さん、機巧人形劇団の方々を本当に愛していらっしゃるんですね。あなたにとって彼らとの思い出はかけがえのないものでしょう。その思い出の一つ一つは彼がいなければ得られなかったこと、彼ら自身もあなたも辛い出来事はたくさんあったでしょうが……もし何かが一つでも違っていたら、その思い出は得られなかった。違いますか?」


「それは……」


「その思い出があれば……彼らのことを忘れないでしょう? 例え離ればなれになっても……彼らは確かにあなたと一緒に生きて、永遠の思い出と愛をくれた……それがあれば乗り越えられるでしょう。少なくとも、まだあなたはいくらでも思い出を得られるんです……それが永遠になってしまったら、大切にしようとは思わなくなる。命の離別があるから……彼らを、綾波さんを、大切にしようと思うのですから……。


 私は綾波さんの言うように、妻との見せかけの平穏に溺れていたのでしょう。ただ、一緒にいられる……それだけの子供のような理由で人としての道を踏み外してしまった。その結果が、当主のリュシテン・螢という役を演じ続けている……斎川博士さいかわはくしという名の男です。京堂さん、あなた方も逃げてください……。私も葵も台本に抗うのは容易くないのです」


 螢さんはそこまで言うと、今度は桜さんへ向き直り、車椅子を下りて立ち上がった。身体が悪いのか足が悪いのか、それに関しては知らないけど、軽々と立ち上がったのを見ると、それもシナリオ通りの設定なんだろう。


「あなたは葛城佳奈さん……でしたね? その火傷痕ですぐにあの時の女の子だとわかりましたよ。あなたのことは……あの時から奏が執拗に狙っていた……もうこの山に近付いてはいけない。京堂さんに渡した地図で――」


 螢さんが振り返ったその時、桜さんたちが入って来たドアが勢いよく開き――。


 銃声が轟いた。


 それと同時に京堂さんが倒れ、螢さんは胸元から拳銃を取り出したが、車に撥ねられたような勢いで床に倒された。

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