波濤-4
映写室へ入り込む血痕みたいな液体を追いかけて、チルは壁に寄り添いながら慎重に進む。その背中を斜め後ろから見ていた私は、微かに聞こえて来た映写機みたいな音と――背後から聞こえてきた微かなクスクス声に足を止めた。
「久留米さんたち人形に血なんて流せませんよね……」
それには応えず、私はその場で振り返った。すると、人形の間のドアが微かに開いていて、廊下と隙間の間に――見覚えのある手帳が落ちていた。
それはジュンが行方不明になる少し前に、私がプレゼントした手帳だ。手描きのノアの方舟がプリントされているカバーを纏うメモ帳なんて、世界に一つしかない。
ここにジュンがいる。罠であっても、それを何よりも知りたかった。
闇の中へ消えた手帳を追いかけて、私は携帯電話のライトを点けて人形の間へ飛び込んだ。
ライトが無いと何一つ認識出来ない闇の中に浮かび上がるのは、木偶人形たちの祭りの後だ。
壁に並ぶガラスケースも縦長のガラスケースも何故か全部開かれていて、中には藁人形とかゴム人形とか数体の人形しか残されていない。それに加えて、この部屋に消えたはずの手帳がどこにも見当たらない。
「返してよ……その手帳はあんたたちのものじゃない……!」
ガラスケースに入り込んだ埃とその痕跡からして、ここにあった人形たちが動いてどこかへ行ったのはわかってる。久留米とかいう人形が動いていた時点で想像は出来た。出えて来るならさっさと出て来い、そう告げると、
ヒャハハハハハハハ! 手帳を返せとさぁ。
ナマな女ってムカつくんだよぉ。
このメス犬の生皮を剥げば……人間になれるかなぁ?
媚びるようなアニメ声とか甲高いムカつく声が次から次へと部屋中から聞こえて来た。チラチラとライトを揺らすと、ガラスケースとか花瓶とかの装飾品の間を小さい影が走り抜け、その足音は少しずつ近付いて来た。
私は護身用としてチルにも隠していた折りたたみナイフを腰から取り出し――その直後、左肩に何かが落ちて来た。
ギャハハハハハハ! ほらぁ! その身体を寄越せよぉ!!
肉が貫かれる嫌な音と一緒に右肩に激痛が走り――私は背中をドアに叩き付けると、がむしゃらに握り締めたナイフを左肩に無理矢理固定した人形へ突き刺した。「ギャアァアアアアアアアアーーーー!!!」と、叫ぶ耳障りも痙攣する左腕も無視して人形の頭を掴むと、そのまま勢いよく床に叩き付けてやった。
この野郎!! この躰にスペアなんて――。
「くたばれ!!」
ガガンボみたいな四肢をばたつかせるイカレた球体関節人形の頭から引き抜いた血だらけのナイフを、最後は渾身の力で口に突き刺してやった。言葉にならない悲鳴を吐き出しながら蟲みたいに暴れていた人形はやがて力尽きたのか、ゆでられたスパゲッティみたいに四肢を散らばせた。
噴水みたいに噴き出していた血みたいな液体を浴びた顔を拭い、私はゆらりと立ち上がった。左肩からは血が溢れ、斬られた神経の所為か左腕の痙攣が止まらない。それでも突き立てたナイフを引き抜くと、側にジュンの手帳が飛んで来た。
勝手に動いて殺しに来る人形なんてどうでもいい。ジュンがまだここにいて、逢えるなら、何よりもそれが大切なことだ。滴る血を除いた全部を拾い上げてから、私は物陰からの視線を無視して背中のドアを開けた。
騒がしい気がした廊下にチルの姿は無く、代わりにあったのは人形の砕けた破片と火薬のような臭いと弾痕だ。その痕跡に一瞬だけギョッとしたけど、チルは大丈夫だと頷いておいた。
あんな見た目だけど旧家に恥じない厳しい躾の賜物か、喧嘩とかの場面にはめっぽう強い。合気道に空手に柔道に剣道とか……特に剣道は出征していた九十歳の祖父から徹底的に教え込まれたらしい。それにサバイバルのセンスだってあるんだろうから、彼は一人でも大丈夫だ。地図も持っているし。
争いの痕跡を漂わせる廊下を無視し、来た道を戻る。チルはともかく自分の左肩は大丈夫じゃない。携帯電話のライトを連れて暗闇の廊下を進み、刀掛けしか置かれていない床の間を持つ居間を抜け、また階段を下り、玄関前廊下に出ると、控えの間の横にある十文字という主治医の部屋に入った。
また人形でもいるんじゃないかと警戒したけど、この部屋は天井からの照明が煌々と機能していて、人形が隠れられるような陰は見当たらない。調度品なんてクローゼットとか机とか最低限のものしかない。
人間の生活感がない部屋で、私は薬品棚みたいな所を漁る。だけど、主治医の部屋のくせに包帯一つ無くて、代わりに見つけたのはカーキ色の古めかしい脚絆だ。新品のタオルとかも無いもんだから、仕方なくそれと自分のハンカチを使って無理矢理止血した。
かなりの血が出たと思ったけど、鏡に映る私の顔は死人のそれじゃない。ただ……呼吸の方は速くて浅いし、冷や汗もまだ出ている。ショック死しなかったのはアドレナリンのおかげ……いや、ジュンのおかげかもしれない。
この屋敷のどこかにいて、私のことを待ってくれているのなら、片腕を棄ててもこの目が光を失っても捜し出すつもりだ。
三年前……勤めていた出版社の仕事で人形峠へ行くと言って……帰って来ることはなかった。あの日から私の人生はもう動かなかった。生きようとする気力もなくて、薬の誘惑と死の誘惑が隣人になっていた。
真耶、お前……いつまでそうしてるつもりだ?
真耶ちゃん……それはあなたにとってよくないと思う。
機巧人形劇団に裏方として関わっていたけど、それにも気力が出なくなって年下から呆れられることばかりになっても気にならなくなった。その態度と生活のことをアキからもアヤからもしつこく指摘されたけど、本音は余計なお世話だった――というより、アキに至っては私の破滅願望を咎められるような状態じゃなかったくせに、だ。
行方不明になった恋人に焦がれるのと、人の身じゃ辿り着けないバカげた願いに焦がれるのじゃ前者の方がまともに決まってる。
鏡に映る自分の顔と脚絆とハンカチを確かめてから、この何も無い部屋から出ようとし――。
何かが鳴った。それはベルのような音で、振り返った私の視界が捉えたのは、壁に掛けられた木造の箱だ。人の顔みたいに二つのベルと皿みたいなものが付いたそれは、今じゃ昔の漫画か昭和の彼方を舞台にしたアニメ映画とかでしか見かけないデルビル電話だ。
誰が電話交換をしているのかは知らないけど、私は電話機に近付いて受話器を取った。今にも忌々しい嗤い声とかが聞こえて来るものだと思ったけど、予想に反して沈黙だけを吐き出している。
無駄な時間だと思い、受話器を置こうとした時――声が聞こえた。
『西条真耶……もう一度、淳に逢いたくないか……?』
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